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2-1








金属がぶつかり合う音や、何かの焼ける匂いで目が覚めた。いや、飛び起きた。


「・・・あれ?」

がばっ、と体を起こして、目に入ったものに戸惑いの声をあげる。彼の体には、横になる前にはなかったはずの毛布がかけられていたのだ。

「なんで・・・?」

カーテンが開け放たれている窓からは、朝の光がたっぷり入っている。ひさしぶりに明るい部屋で目を覚ました彼は、混乱する頭を押さえた。

呼吸をするたびに鼻から入ってくる匂いは、馴染みのある火薬の匂いとも違う。土や草が焼け焦げる匂いとも、もちろん違う。

普段から体を鍛えている彼は、違和感に揺り起こされても眩暈を感じたりはしない。それなのに体を起こしたきり動けずにいるのは、その匂いがあまりに家庭的で温かいからだ。

「ああ、そっか・・・昨日・・・」

ようやく、氷ヶ原の手前で怪しげな迷子を保護して、冷徹少佐の命令で連れ帰って聴取・・・という記憶を引っ張り出した彼は、額を押さえて息を吐いた。

ソファに背中を預けるようにして座り直して、テレビの電源を入れる。

・・・ちょっと落ち着いてから見に行こう。

そして、朝の情報番組の賑やかな笑い声がリビングに響いた、その瞬間。


ガシャン!

・・・バリンッ


それまでBGMのように感じていた生活音が、突然盛大な音を立てたことに、彼は慌てて立ち上がった。そして目に視界に飛び込んできた光景に、間抜けな声が口から滑り出る。

「・・・え?」

頭を押さえたクルミが、床に座り込んでいたのだ。



「何やってんだよ・・・」

ぶつぶつと低い声で呟きながらも、彼の手は注意深く割れた皿の破片を拾っていく。

その横では、しゅん、とうな垂れたクルミがこぶの出来た頭を擦っている。

・・・だって、急にテレビの音がしたから。

ズキズキと短い周期でやってくる鈍痛に耐えながら、彼女は心の中で呟いた。

こういう時、口から言葉を紡ぐことが出来ないのは不便だと思う。言いたいことがあっても、聞いて欲しい人が目を向けてくれない限り、言葉を伝えることが出来ないからだ。

手元にはノートもペンもない。

彼女には彼女なりの言い分があるのだけれど、それを伝える手段を手にするには、この場から動かなくてはいけない。

ちなみに、取りに行こうとしたら彼に「動くな!」と怒られた。

・・・びっくり、したんだもん。

・・・高いとこに、お皿があったんだもん。

肩を落としつつも内心ぼやいて、それなら、と彼女が破片に手を伸ばした時には、「危ないから触るな!」と更に怒られた。

・・・お返し、したかったんだもん。

確かに、勝手に掃除をしてキッチンを使ったのは悪かったと思っている。

慣れない場所で、家事をしようだなんて・・・と、反省めいたことを考えているうちに、彼女の目に、じわりと涙が浮かんだ。

「・・・え、なんで?」

やけに静かにしてるな、と思って振り返ったカイは、彼女の変化に戸惑ってしまう。

拾い集めた破片を、用意していた新聞紙で包んだ彼は、彼女の顔を覗き込むようにして見つめた。すると、彼女の薄紫の瞳がゆらゆら揺れて、大粒の涙が零れる。

「あ、いや、怒鳴って悪かった。ごめん」

自分でも驚くほどの早口で告げると、彼はそっと、彼女の頭に触れた。

そして、こくりと黒い頭が上下したのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。

「・・・で、」

彼女の頭に触れて気持ちが凪いだ彼は、穏やかな気持ちのまま言葉を紡ぐ。

涙の止まった様子の彼女は、昨夜のように会話が成り立ちそうな予感に、彼の口から出てくる言葉を待つ。

「朝ごはん、作ってたわけか」

キッチンには、食欲をそそる匂いが充満していた。

ダイニングテーブルの上、オムレツとウインナーが仲良く白い皿に並んでいる。そこから視線を剥がして言うと、彼女が頷いて肯定した。

「怪我は・・・頭、ぶつけただけ?」

尋ねると、それにも彼女は頷いて肯定。

言葉をかけても、同じように言葉が返ってくることはない。それを味気なく感じた彼は最後に、ぽんぽん、と軽く彼女の頭を叩いて立ち上がった。


『勝手にキッチン使って、ごめんなさい』

「うん。それはいい」

『いきなりテレビの音がして、びっくりして、手が滑って・・・』

「うん。それはごめん」

『お皿、割っちゃった』

「いいよ、別に」

『昨日、ベッドに寝かせてくれた?』

「ああ・・・ソファで寝てたから」

『ありがとうございました』

「ちゃんと眠れた?」

『うん。

 ・・・あんなに寝たのに、またぐっすり』

「睡眠障害かな」

『・・・そうなのかな。でも、元気』

「だよな・・・まあ、しばらく様子をみるしかないか。

 それより、毛布掛けてくれたんだな」

『ええと、そう。

 風邪、引いたらいけないと思って。

 あなたが掛けてくれてたのを、持ってきた』


手のひらサイズのノートをテーブルの上に置いて、会話をしながら食事を摂る。

食器同士が触れる音や自分の声が部屋に響いているのは、彼にとって久しぶりのことだった。1年前には当然のように家の中に満ちていたもののはずなのに、驚くほど新鮮に感じてしまう。

それほど、この家に1人で過ごす1年は、彼にとって味気ない、罰のような時間だった。

そして今、目の前でクルミが咀嚼しながらペンを走らせるのを見ていると、カイの胸に、どうにも不思議な気持ちが広がっていく。

・・・なんだか・・・家庭教師でもしてるみたいだな。

彼が自分なりにその気持ちを整理していると、ふいに彼女の視線がノートから上げられた。薄紫の瞳が、少しも揺れず真っ直ぐに彼を見ている。

「どうした?」

投げかけた言葉に、彼女が小さく首を振る。

ぷるぷる、と頭を振ると、一緒にぼさぼさの髪が揺れた。

「なんだよ、気になるな」

小動物のような彼女の態度に引っかかりを感じた彼は、思ったままを口にする。

すると、彼女が迷う素振りを見せながらノートにペンを走らせた。

『昨日より優しいね』

見せられた言葉に、彼の鼓動が跳ねる。ぴくり、と指先が動く。

決して、胸が高鳴ったというわけではない。どちらかというと、ひやりとした、という表現の方が正しいのかも知れない。

『昨日のあなた、怖い時があった。

 わたしが、そうさせた?』

「いや、そうじゃなくて・・・」

口ごもる彼に、彼女の真っ直ぐな視線が刺さる。

もちろん彼女に、他意はない。けれど、彼には耳の痛い言葉だった。

ひと晩経って、彼は自分の体が軽くなっていることに驚いていて、同時に昨日の自分がそれだけ疲弊していたのだと思い知ったばかりなのだ。

一方で、視線を彷徨わせている彼を、彼女は小首を傾げながら見つめる。てっきり、皿を割った時のように何かしら小言を言われるのだと思っていたから。

・・・昨日のわたし、何か変なことしてたんじゃないの?

昨夜の天気予報に衝撃を受けた彼女は、夜が明けて、自分が置かれた状況を静かに受け止めるだけの落ち着きを取り戻していた。

・・・ここで生きてくなら、おかしなこと、しないようにしなくちゃ。

真夜中に目が覚めてから、月を眺めて、ひたすら考えたのだ。彼が自分のために、ありったけの毛布を掛けてくれたのだと分かって、決めたのだ。

自分に向けられるものが、悪意や敵意だけでない世界。少なくとも、目の前で視線を彷徨わせている彼は、暖かい毛布を用意してくれた。

それだけで、死なない理由には十分だと思えた。


・・・コツコツ。


指先でテーブルをそっと叩いて、彼を呼ぶ。小首を傾げれば、はた、と我に返ったらしいカイの瞳が彼女のそれと、かち合う。

曖昧に微笑んだ彼は不器用なはぐらかし方で、話題を変えた。






ふわ・・・、と大きな口を開けたクルミに、カイは呆れたように視線を投げた。

「嘘だろ、あれだけ寝といて・・・」

耳に入ってきた言葉に彼女がはにかんで、それを見た彼はため息をつく。

・・・ほんとは寝不足なんだもん。

笑顔の裏で呟いた彼女は、呆れ半分の彼の隣を歩く。

彼女には、彼がどこに向かって歩いているのかさっぱり分からないままだ。彼の家に来た時のように、車に乗らないことに疑問を感じて小首を傾げた彼女に、彼は「いいから、こっち」と歩き出した。

そして、こうして大通りを歩いているわけだけれど、いかんせん彼の歩幅は広く、彼女は懸命に足を動かす。

彼女は、擦れ違う女性達の視線が、隣を歩く彼に向けられていることに気がついて、なんとも言えない気持ちになっていた。

・・・かっこいい、ってことなんだよね・・・。

休暇を言い渡された彼は、軍服ではなく私服で外出することにしたようだ。ジーンズにTシャツという、至って普通の格好をしている。

男性に胸をときめかせる機会もなかった彼女は、友人たちが、アイドル的存在の男子に熱を上げていた様子を思い出して、納得していた。確かに、顔立ちは整っていた気がする。

「・・・クルミ?」

回想に耽っていた彼女は、ふいに声をかけられて我に返った。

ぱちぱち、と瞬きをして見上げると、彼が心配そうな表情をして自分を見ていることに気がついて、彼女は小首を傾げる。

「気分悪いとか?」

どうしてそんな顔をするのだろう、と思って小首を傾げた彼女に、彼はゆるゆると息を吐いた。

「いや、大丈夫ならいいんだけど」

昨日の今日でずいぶんと気遣いを見せる彼に、彼女は頭の中が疑問符で埋め尽くされていくのを感じて、またしても首を捻る。

捻りすぎて、若干痛いような気もするけれど、昨日と今日で世界がずいぶん違う気がしてしまうのを、戸惑いをもって受け止めていた。

そんな彼女に、彼は気を取り直して口を開く。

「レインに行く前に、髪、切ろう。

 それから、服も。それしか持ってないだろうし。

 ・・・ちょっと、あれだから」

その台詞に、注目されていたのは自分の方だったのか、などと彼女は疑ってしまう。半分は、落胆にも似ていた。

一応、彼女も女子なのだ。

恋をしたことはないけれど、一応、それがいつ訪れてもいいように、それなりに身なりを整えて生活していた。服装も髪型も、持ち歩く小物だって。

・・・これは、ちょっと寝すぎただけなんだよ。

そう胸の中で呟いた彼女は、決まり悪そうに俯きながら、彼の言葉に頷いた。



街は人で溢れ、街路樹が所々に木蔭を作る。

喧騒の中をくぐって最初に辿り着いたのは、一軒の美容院だ。







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