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静まり返ったリビングに、大人や子どもの笑い合う声が聞こえてくる。住宅街は、それほど大きくも小さくもない家が軒を連ねているからか、壁が薄いだけなのか、大きな声を出せば隣近所によく響く。
カイは聞こえてきた子どもの幼く高い声や、大人の温度を含んだ声に苦い笑みを滲ませた。
それを見ていたクルミは、険しい表情をしたり困ったように微笑んだりする彼の様子に、疑問を抱いてしまう。
あんなに怖い顔をしていた彼なのに、今は自分以外の何かに気を取られているような気がしてならなかった。
『もう、いいんですか?』
さらさらとノートにペンを走らせて、目の前にいるはずの自分を全く見ていないらしい彼の目の前に突き出した。
すると彼は目で文字を追って、やはり苦笑する。
からかわれたような、はぐらかされたような気持ちになった彼女は、いくらか目じりを吊り上げた。
『もういいや、って・・・わたしの話、信じたってことですか?』
「いや、全部を鵜呑みにして報告するつもりはない」
もう一度、乱暴な仕草で突きつけた彼女の言葉を目にするなり、彼はきっぱり言い放つ。
おそらく自分は胡散臭くて、きっと周りの人間から見たら不審な迷子なのだろうという自覚があった彼女は、だからこそ全てを話さずに、真実とも嘘ともつかないことだけを伝えたのだ。
だから、ある意味で彼の反応は予想していたけれど、それでもやはり、全く相手にされていなかったのだと思うと、どうしようもない気持ちになる。
彼女はペンを握りなおして、すっと息を吸う。けれど、新たに言葉を綴るよりも早く、彼が口を開いた。
「俺が聴取しない方が、いいような気がするんだ。
・・・たぶんもう、君に同情してるから」
言われたことの意味が掴めずに、彼女がペンを握る手をノートから離す。
それを見ていた彼は、息を吐く。
「・・・話が本当なら、だけど・・・」
本当だと自信を持って宣言出来ない後ろめたさが彼女を俯かせ、彼は、そんな彼女の様子を観察して黙り込む。
そして再び沈黙が落ちて、先程と同じように近隣の家族が団欒する声がリビングに響いた。
ちくりと何かが胸に刺さるのを感じた彼は、わずかに目を細める。
彼はもう何度も、おかしな形に歪んで沈み込んだソファに寝転んで、他所の家から届く声がリビングに虚しく響くのをやり過ごしてきたのだ。今さら少し痛みを感じるくらい、どうということはない。・・・ないと、思っていたのだ。
「声を失うような目に遭って、その上、君を守ろうとした両親を失ってる。
・・・俺にも、いたんだ」
テーブルの上で手を組んで視線を彷徨わせる彼に、彼女は小首を傾げた。何かを躊躇っているように見えたのだ。
こんな時、言葉を発しない相手が目の前にいることは、彼にとってありがたかった。
決して話すことを催促されず、きっと話しても必要以上に言葉をかけてくることはないだろう。あったとしても、言葉を“読む”だけならきっと苛立つことなく受け止められる気がした。
そっと口を開いて、刹那の間に呼吸を整えた彼は、自分の内に眠らせていた言葉を取り出す。
その気配に、彼女は何を言われるのかは分からないまでも、どこか緊張を含んだ面持ちで彼が話し始めるのを待った。
「家族を失ったことがあるから・・・その痛み、なんとなく分かるんだ。
・・・父さんを、8年前に。
母さんと妹は、1年前だ。ちょうど1年前の今日だった・・・」
言葉が、周りの空気まで一緒に重くする。酸素は確かに漂っているはずなのに、彼は自分がまともに呼吸出来ている気がしなかった。
そしてクルミは彼の表情を、その伏せた目を隠すように揺れるまつげの本数を数えられるくらいに、じっと見つめる。
向かい合っているのは、目覚めた自分を言葉と態度で追い詰め、心臓が鷲掴みにされるのかと思うくらいに慄かせた男だ。それは分かっている。
ここがどこで、自分がどれくらい眠っていたのかも分からない。両親の残像を探すことが出来るのかどうかなんて、皆目見当もつかない。
けれど彼女は、目覚めて最初に自分を認識してくれた相手に、どういうわけか刷り込みのような親愛の情を抱きかけていた。要は、彼に懐きつつあるのだ。
「だから、君の話が本当だって・・・同情して、半分信じてしまってる。
疑いの目を持って話を聞くのが、自分の仕事だって分かってるんだけどね・・・」
言いながら自分で自分に苦笑いする彼を見て、彼女は言葉に詰まった。
今の彼女は声を持たないけれど、今なら何かの言葉を虚空に放つことが出来るような気がして、喉に力を入れる。
どうしても、彼に言葉をかけたかったのだ。どこからか聞こえてくる楽しそうな声でなく、自分の声をその耳に入れたかった。
そうして苦しくなった胸を押さえた彼女は、そっと息を吐いた。やはり、声は出ない。
その瞬間、言葉の代わりに零れ落ちた息と一緒に、薄紫の瞳から涙が零れる。
「え、あ、」
声もなく涙を流したクルミが視界に飛び込んできて、カイは我に返った。慌ててティッシュを差し出して、泣いている彼女を直視しないように視線を彷徨わせる。
彼は、良くも悪くも女性の扱いが苦手だ。
一家を大きな手で守ってきた父親を失った彼は、母と幼い妹を守るため、昇進することだけを目的に仕事をしてきた。他のことにかまけている暇はなかったし、そんな暇を作ることもしなかった。
だから目の前で年下の、保護すべき年齢であろう少女に泣かれてしまっては、彼は途方に暮れて右往左往するより他ないのだ。
もちろん心の中では、ここに部隊の連中が居なくて良かった、と思っている。
「別に、君が泣くことないだろ・・・」
何かに降参するように息を吐いた彼の言葉に、彼女がティッシュで鼻をかみながら頷く。そして、空いている方の手を伸ばしてペンを掴んだ。
『だって、あなた、覚えてる・・・家族が、死んでしまった時、のこと・・・。
きっと、痛かった、でしょ・・・?』
しゃくりあげながら書きなぐる文字は乱暴だった。歪んで、上へ下へと小躍りしているようにも見えるし、言葉のつなぎ目が雑だ。
けれど、彼女は早く自分の気持ちを伝えたくて、もっと早く、とペンを走らせる。
彼からしたら、それは物凄い剣幕で、一見すると自分が怒られているようにも錯覚しそうになる。
『わたし、覚えて、ない。
もう、お父さん、も、お母さんも、いないって、分かるのに・・・。
どうやって、死ん、でしまった、のか、知、らない・・・』
「クルミ・・・?」
もはや号泣に近い彼女を見て、彼は呆然と呟いていた。感情が溢れて泣きじゃくる彼女が、父親が死んでしまった時の妹の姿に重なって見えたのだ。
あの時の彼は、自分も現実に打ちひしがれていて、ただ気丈に振舞う母親の隣に寄り添うことしか出来なかった。もっと、その時の痛みと向き合っていれば、残った家族ともっと長く一緒に居られたのではないかと考えてしまう。
「・・・まるで子どもだな」
ペンを放り出して、両手で大量のティッシュを消費している彼女を見て、彼の唇がゆるゆると笑みを刻んでいく。口にした言葉は、どこか自嘲めいていた。
『目、痛い』
「そりゃあ、あれだけ泣けばな」
冷却材を目に当てながら言葉を綴った彼女に、遠慮なく苦笑した彼が言葉をかける。
両目を隠したまま書いた文字は、とてつもなく不恰好で愉快な形をして彼に向けられていた。それが可笑しくて、なんとも言えず可愛らしくもある。
彼は、そんなふうに見ている自分が恥ずかしいし、頭がおかしくなったのかと疑ってしまうけれど、幸いなことに彼女からは彼が見えていないのだ。ほっとして、遠慮なく苦笑してしまう。
『ごめんなさい』
不恰好な文字の羅列に、彼は訝しげに眉をひそめた。その言葉に、思い当たることがないのだ。
「何が?」
『だって、わたし、自分のことでいっぱい泣いたから。
悲しいの、あなたの方なのに・・・』
半分顔の隠れたまま、申し訳なさそうに肩を縮める彼女に、彼は首を振った。
「いいんだ。
俺のは1年前だけど、クルミのはもしかしたら昨日かも知れないだろ」
ふいにかけられた言葉に、彼女は冷却材を離して彼を見る。
腫れぼったい目が自分に向けられたのを受け止めて、彼は微笑んだ。お世辞にも可愛いとは言えない顔になってしまっているけれど、真っ直ぐに自分に視線を投げる彼女に、好感を抱く。
「それに、俺はいいんだ。
同情してもらいたいわけじゃないし、一緒に悲しんで欲しいわけじゃない」
穏やかな表情に似合わない、体温を伴わない言葉に彼女はほんの少し傷ついたような顔をした。
それに気づいて、彼は小さく首を振る。
「君が俺の気持ちを推し測ってくれてるのは、嬉しいよ。
でも、それに甘えたくないんだ。一緒に悲しんだりは、したくない。
・・・じゃないと、自分が馬鹿だってこと、忘れそうになるから、さ」
そう言って痛みに耐えるような表情を浮かべた彼を見て、彼女は言葉に詰まった。おぼろげながらも、彼が、自分自身を叱責しながらこれまで過ごしてきたのだと分かって。
そして、どう頑張ってもかける言葉が見つけられずにいると、ふいに彼が立ち上がった。
「まあ、この話はこのへんで。
順番に風呂に入って寝よう。
・・・明日は、君の戸籍を調べにレインに行かなくちゃいけないし」
ぽち、とボタンを押すと、柔らかいゴムのような手触りが指を押し返した。続いて、真っ黒だった画面の中央に、かっちりしたスーツを着た男と明るい色のワンピースを着た女が映る。
続いて天気予報です・・・と画面の向こうから笑顔を投げかけてくる姿を、なんとなく眺めていた彼女は、そっと息を吐いた。
カイは今、浴室にいるはずだ。もしくは、彼女が眠るための場所を用意しているはず。
冷却材と加熱材を交互に当てて落ち着いた目で、ソファから見えるものをつぶさに観察していく。すると、テーブルの上に新聞が置いているのを見つけた彼女は、それをそっと手に取ってみる。
これは今日のだろうか、と思って広げるかどうか迷っていると、テレビの中のお天気キャスターが、丁寧にも新聞よりも1日先の日付を告げて、天気図を長い棒で指した。
・・・やっぱり・・・。
新聞に目を落として大きな落胆を抱えた彼女は、再びテレビの画面に視線を戻して、頭の中が真っ白になった。
・・・ここ、どこ。
お天気キャスターの明るい声が「明日も4都市で、洗濯日和になりそうです」と告げる。白いTシャツがはためくアニメーションが4つ、東西南北に散らばっていた。
彼女には、その4都市の存在する小さな島がどこなのか、分からなかった。
まだ腫れぼったい目を大きく見開いたまま、口を押さえる。そうでもしないと、悲鳴が口から飛び出してしまいそうだったから。
声の出せない彼女が悲鳴に似た感情の昂ぶりに耐えると、すぐに吐き気に似た何かを感じて、呼吸を整える。心臓が暴れて手がつけられない。呼吸がままならなくなって、視界がぐにゃりと歪んだ。
床に着いている両足で踏ん張って、ぐらりと傾きそうになる体をなんとか堪える。
・・・眠っている間に、何があったの。
苦しげに顔を歪めた彼女は、途切れそうになる意識の狭間で呟いた。
「・・・ったく、」
風呂から上がり、彼女にも・・・とリビングに戻った彼は、ソファに体を預けて横になっている彼女に呆れて、ため息を吐く。
確か、数時間前にも墓地のベンチで似たようなことがなかったか。
「ほんと、よく寝る奴だな」
規則正しく上下する肩を眺めて、彼女が倒れたわけではなさそうだと踏んだ彼は、急いで起こす必要もないかと、その傍に腰を下ろした。
時計の針は、日が変わるかどうかという時間を指している。
・・・このまま朝まで寝かせとくか・・・。
また頬を叩いて起こそうかと思った彼は、伸ばした手を止める。そのまま、ぼさぼさの黒髪をそっとよけて腫れぼったいままのまぶたを晒す。
照明の光が眩しいのか、彼女のまぶたがわずかに震えたのを見て、彼はテーブルの上に転がっているリモコンに手を伸ばした。そして、リビングを照らしている照明をおとす。
すると今度はテレビの光に不快そうに眉間にしわを寄せたのを見て、彼はテレビの電源も切ることにした。薄暗く、静まり返った部屋の中に彼女の寝息が漂う。
暗さに目が慣れてくると、彼はそっと彼女を抱き上げて立ち上がった。
彼女の背中がいやに冷たくなっていることに気づいて顔を顰めた彼は、妹のベッドに彼女を寝かせると、両親の部屋からも毛布を持ってきて、彼女にかけてやったのだった。