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1-5







ため息を1つ、薄暗くなった空へと放り投げてベンチに腰を下ろす。


人の近づく気配に反応しないところは、元来の無防備さゆえなのか。それとも、こちらの油断を誘うための演技なのか・・・。

1人で用事を済ませて、濁ったものでいっぱいになっていた胸の中が、動揺したせいで真っ白になってしまったカイは、自分がどう彼女に接するべきか困り果てていた。

とりあえず風邪を引く前に起こせば良いのか、演技かどうか様子を観察していれば良いのか。

彼女の閉じた瞼が、ぴくりと動く。薄紫の瞳を隠すそれに、黒く濡れたまつげが揺れる。

目を覚ますのかと一瞬走った緊張感に、彼は自分の肌がちりりと焼けるのを感じた。どんなカオをして隣に座っていれば良いのか、内心右往左往してしまう。

「・・・」

わずかに開いた唇から漏れる空気の音に、彼は思わず頬を緩めた。

けれどそれは恋人へ向ける眼差しでもなければ、小動物を愛でるようなそれでもない。

「1年か・・・」

そう呟いた彼は、そっと息を吐いてから口元を引き締めた。



むすっ、としながら窓の外を眺めているクルミに、彼は苦笑しながらハンドルを握る。

結局カイは、草原でしたのと同じようにクルミの頬を軽く叩いて彼女を目覚めさせたのだ。

「だから、謝ってるだろ」

謝りながらも、目を覚ました時の彼女の取り乱しようを思い出し、笑いがこみ上げる。それを止めるだけの誠意や思いやりは、残念ながら今日の彼の中には存在しなかった。

これまで、性別問わず寝ている者の起こし方は大体同じだった。さすがに目上の人間に使ったことはないけれど。

寝ている女性・・・彼女の場合、女性なのか女の子なのか定かではないが・・・を目にするのは初めてではなかった。一応、彼は若くて健康な成人男子だ。

けれど、恋愛や女性に興味を持つような年齢に差し掛かった頃から、そういう相手にかまけている暇はなかったのだ。

そういうわけで、彼は女性の扱いがあまり得意ではない。

クルミは、彼が我慢しながら笑うのを片方の耳で聞きながら、静かな怒りを撒き散らしていた。もう、車窓からの眺めなど、視界の端から端へ流れる水のように見える。

・・・わたしだって、起きていたかったよ。

言葉は喉元から先に出てこないのに、出てこなくて良いため息は、すんなり外へ出てきてしまう。

彼女は漏れた息を吸い込むように呼吸を整えて、ちらりとハンドルを握って前を見ている彼の横顔を眺めた。そこにはもう、笑顔は浮かんでいない。

車は、街灯が照らす道を走る。



小さくも大きくもない、普通の家。

街灯の明かりを頼りにその輪郭を辿って、そんな感想を抱いていた彼女は、彼に声をかけられて我に返った。そして、言われるままに家の中に入って驚いた。

天井や、壁の隅にくもの巣が張っていたり、大きな埃が落ちているのだ。

「掃除が面倒で。

 ・・・まあ、1年過ごしたけど風邪引かなかったから大丈夫。かな」

目を見開いて驚いている彼女に平然と言い放った彼は、来客用のスリッパを探し出して床に置く。ぽふ、と埃が舞ったのを、彼女は見逃さなかった。

「じゃ、こっちの部屋で適当に座ってて」

目で訴えるよりも早く、リビングへ消えていった彼を恨みがましそうな目で見つめたあと、彼女はスリッパを摘んで持ち上げて、中を覗き込んだ。

・・・虫とか、いないよね。

もし覗き込んで発見してしまったら、どうしよう・・・そんな不安と戦いながらスリッパの中を確認した彼女は、彼よりもだいぶ遅れてリビングのドアをくぐったのだった。


ばさっ。


リビングに入ってすぐに、クルミの目の前を軍服が飛んでいく。

突然のことに息を飲んで静止した彼女は、飛んできたそれがソファの上に無事に着地していることを確認してから、カイの方へと目を向けた。

白いシャツの袖を捲り上げて彼女に背を向けている彼は、どうやらキッチンに立っているらしい。そう思い至って、勢い良く流れ出る水の音を拾った彼女は駆け寄った。

家の中に、くもの巣が張っていたのを思い出したのだ。1年埃まみれで生活した人が、キッチンに気を配っているなんて、想像出来るはずがなかった。

スリッパが、ぱたぱたと音を立てたのを聞いて、彼が振り返る。

「なんだよ」

水を止めながら振り向きざまに彼が、面倒くさそうに顔を顰めるのを無視した彼女は、キッチンの汚さに慄いてしまった。生まれて初めての衝撃に、頭の中が真っ白になる。

シンクには黒くカビのようなものが点々として、水垢なのか何なのか分からない汚れも見えるし、レトルト食品の残骸らしきものが、絶妙なバランスを保ちつつ山のように積み上げられて、キッチンの一角を陣取っている。

「・・・言いたいことがあるなら・・・って、そっか。無理なんだよな」

彼のこんなひと言に傷つく余裕もないくらいに汚さに衝撃を受けているのか、息を飲んだまま戦慄いている彼女の腰は、若干引けていた。

「買いだめの冷凍食品で済ませて、早いとこ聴取するか・・・。

 会話が成り立たないんじゃ、いろいろ不便だよな」




『ごちそうさまでした』

「うん」

彼女が質問を受ける前に書き込んだ言葉に、カイは頷いた。

薄い線が引かれたA4のノートの上で礼儀正しく整列している文字は、そのまま彼女の育ちを映し出しているかのようだ。

「じゃ、始めよう」

彼の声には、わずかに緊張が含まれている。

それを感じ取った彼女は、ペンを握る手に力を込めた。

テーブルの上には、“念のため”と彼が取り出したボイスレコーダーが置かれている。彼の質問を記録するのと同時に、彼女が書いた答えが強要されたものでないことを証明するためだ。

とはいえ彼1人の声だけを録音したところで、強要があったのかどうかなど証明しようがない。彼はそれも彼女に説明した上で“念のため”とレコーダーのスイッチを押した。

自分の声が録音されることはないとはいえ、彼女は緊張していた。居住まいを正して、そっと呼吸を整える。

そんな彼女の様子を観察しながら、紙パックの野菜ジュースで喉を潤して頭の中を切り替えた彼は、たくさんある中から最初の質問を選んで口にした。

「まずは、そうだな・・・君の名前を書き込んで。

 保護した時には、手のひらに書いたのを見ただけだったから」

彼の言葉に頷いた彼女は、さらさらとペンを走らせた。

『クルミ』

「それは、愛称?」

書き込まれる言葉が分かっていた彼は、間髪入れずに質問を重ねる。

『いいえ、名前です』

動揺することなく丁寧に文字を綴った彼女に、彼は頷いてまた尋ねた。

「それじゃあ、年齢は?」

『13』

すかさず書きこんだ文字に、彼は数字を見据えて黙り込んだ。

そんな彼を、クルミは不思議そうにじっと見つめる。

懐かしい気すらさせる黒い瞳が揺れたかと思えば、彼は急に目つきを険しくして彼女を見た。そこには、缶ジュースを買ってくれた時の優しさはない。

それに気づいた彼女は、胸の奥の方がぎゅっと掴まれたように苦しくなる。敵意や悪意に似たものが、自分に向けられているのが分かった。彼が、どこからか銃を取り出して自分に銃口を突きつける・・・そんな幻覚を見てしまう。

「もし、」

彼は意図的に険しい目つきをして、彼女を見ていた。

薄紫の瞳が怯えているのが分かる。おそらく悪気はない。きっと、彼女は自分を子どもだと強調すれば、レインが保護してくれると思っているのだろう。けれど、小さな嘘は疑心を招く。

・・・何かを隠したまま、この街に紛れ込もうとしているのかも知れない。

そう感じた彼は、意識して脅かすように声を出したのだ。

「嘘をついていて、それが嘘だと分かった時は・・・おそらく君は審問にかけられる。

 必要以上に疑いたくはないけど、疑わずに街を守るなんて、たぶん無理だ」

ぶつけられた言葉に、彼女は瞳を揺らがせた。

嘘をついているつもりなど、全くないのだ。だからこそ何と書けばいいのか分からず、彼女はペンを握る手をノートから離す。

震えを隠すように胸に抱きこんで、そっと彼を見た。

疑った彼に対して肯定も否定もしない彼女に、彼はもう一度口を開く。

「悪いけど、13歳には見えない。

 ・・・俺の妹・・・彼女やその年齢の子よりも、年上に見える」

彼女は彼の言葉に、じんわり汗をかいている手でペンを握り直す。そして、息を吸い込んでから文字を書き込んだ。

『13歳です。

 ・・・でも、違うのかも知れない』

書き込まれた内容に、彼はため息混じりに腕を組んで、少し考える素振りを見せた。

「・・・どういうこと?」

『13歳のお祝いをしたのは、覚えてるけど・・・』

ペンを走らせながら自信がなさそうにしている彼女を見ていても、彼にはそれが演技なのか真実なのかが分からない。

・・・健康診断の結果を持って、少佐に相談しよう。

口には出さずにそう決めて、ひとまず年齢の話を保留した彼は、次の質問を彼女にしてみることにして言葉を並べた。

「いい、質問を変えよう。

 君は、どうしてあんな所に倒れていたんだ?」

次の質問こそ、彼女が返答に困る質問だった。

どう説明しようか、と彼女が考えていると、彼がさらに言葉を紡ぐ。

「・・・もしかして、何か怖い思いをしたのか?」

彼は、自分の年齢に自信がなさそうにしていることから、彼女が記憶障害に陥っている可能性を考え始めていた。何かの恐怖体験が、彼女から声と記憶の一部を奪い去ったのではないかと。

もちろん、彼女が嘘をついている可能性だって捨ててはいないのだけれど、一度でもそんな考えが頭をよぎってしまった彼の心の天秤は、疑う気持ちから同情へと傾きつつある。

一方、険しかった彼の眼差しがいくらか和らいだのを感じ取った彼女は、怖い体験を思い出して、邪魔なものを頭の中から追い出していく。

彼の言う通り、怖い思いはしたのだ。体が震えて、死を覚悟した瞬間が確かにあった。

・・・もう少ししたら、ちゃんと話すから・・・。

心の中で懺悔にも似た言葉を吐露した彼女は、恐ろしい体験を思い出しながら、ペンを走らせる。歪なリズムを刻む鼓動が、時折文字を歪ませていく。

『銃で撃たれそうになって・・・』

その言葉に、彼は草原で目を覚ました彼女が、自分達を見て逃げようとしたことを思い出していた。確かに、腰に手を回した自分を見て、ぶるぶると震えていたのだ。

「1人で?

 ・・・家族は?」

『わたしを逃がして・・・たぶん、もう・・・』

「あんなところで?」

『・・・分からない、覚えてない・・・』

問いかけにひと言書いて、彼女は顔を上げる。

その表情に痛々しいものを見た彼は、自分が絆されていくのを感じていた。同時に、これでは仕事にならないとも思う。

けれど彼自身、今日改めて肉親を失う痛みが身に刺さったばかりなのだ。いつもより感傷的だったことが、一番の敗因かも知れない。

「・・・何でもいい。覚えてることは?」

彼は、自分の口から出た言葉を俯瞰する。そしてまるで、話したくないことは話さなくても良い、と言うかのような台詞を吐いてしまったことに、内心ため息を吐く。

・・・これじゃ、少佐に叱られるな。

今になって彼は、レコーダーを使ったことを後悔し始めていた。

そんな彼の心の動きを知ってか知らずか、彼女は目を伏せてしばらく紙の上に視線を彷徨わせる。そして、それまで書いていた場所から一段空けて、ゆっくりと言葉を綴った。

『生きて、って言われた気がする・・・。

 守るから、生きていて、って・・・』

彼女が耳の奥に残る言葉を思い出して綴ると、彼のため息が降ってくる。

それまで重かった空気が、ふわりと溶けるのを感じた彼女は、そっと彼の表情を窺った。すると、何かに観念したような彼の目が、半ば呆れ混じりに彼女を見つめているのに気づく。

ノートに綴らず小首を傾げれば、彼はレコーダーのスイッチを切って頬付けをついた。眉を八の字にして微笑みを浮かべている彼に訝しげな視線を送れば、それが深くなる。


そして、彼は言った。

「聴取、もういいや」







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