9-2
ふに、という柔らかい感触に、クルミを目を瞬かせた。
直前まで、至近距離で囁かれて、その雰囲気に心臓が口から出そうだと思っていたのに。
いつかの両親の姿のように、額に唇が降ってきた時には、顔が熱くて仕方なかったのに。
目の前でぼんやりと揺れているカイのまつ毛を見ながら、クルミは、自分の鼓動がだんだんと落ち着きを取り戻していくのを感じていた。
唇の離れる気配を待っていたかのように、彼女は息を吐き出す。
それを間近で見たカイは、やっぱりな、といったふうに苦笑した。
「・・・やっぱり息、止めてた」
からかうような声が弾んで、クルミはむっと口を尖らせた。
「だって、塞がれてたんだもん」
「・・・あのなぁ・・・」
まるで売り言葉に買い言葉。
カイは、呆れ顔で呟いた。
恥じらったり、目を潤ませたり・・・そういう反応を期待した自分が愚かだったのかと、なんだか気の遠くなる思いもする。
「クルミ?」
若干硬くなった声に、クルミは窺うようにしてカイを見上げた。
彼女の表情が、怒られるのか、と怖々しているようにも見えた彼は、その頬を撫でて苦笑する。
「心臓、口から出てきそう?」
「・・・静かになっちゃった」
ふるふると首を振って否定したのを見届けた彼の手が、ゆっくりと彼女の髪を撫でた。
その顔には、甘い笑みが浮かぶ。
そしてカイは、さっきまでお互い触れていた唇に指先を滑らせた。
緩やかに開いた唇から、吐息が漏れる。
それを指先に感じて、カイは囁く。
「柔らかかったなぁ・・・クルミのくちびる」
目を見開いたクルミが、息を飲んだ。
それには構わないことにしたらしい彼は、なぞった唇から視線を上へとずらす。
薄紫の瞳は彼の熱に中てられたのか、視線がぶつかった瞬間大きく揺れた。
自分の一挙一動にいちいち反応してくれる彼女に、カイは心が跳ねるのを感じて微笑んだ。
「今は、心臓、大丈夫?」
「うぅぅ、なんか・・・だいじょぶ・・・」
若干言葉が可笑しいような気がしないでもないけれど、と胸の内で呟いた彼は囁く。
その手で、彼女の髪を撫でて。
「・・・鼻で、息してごらん」
「え?」
「キス、してる間の話」
ふた文字強調して言えば、クルミが固まった。
内心でその反応に噴き出した彼は、言葉を続ける。
「あと目は閉じること。
まあ、開けててもいいけど・・・瞑った方が感触がよく分かると思うんだよな」
言葉の最後でにやりと口角を上げた彼は、固まったまま赤くなったクルミの髪を掬い上げる。
そのひと房を、くるくると指に絡めながら、耳元で囁く。
「・・・もう1回、してみようか」
こくこく、とクルミの頭が上下する。
その反応に、カイは一瞬言葉に詰まった。
2回も頷くなんて、まさかの反応だった。
同時に、あからさまに、かちかちに固まったくせに度胸がある・・・と、感心もしてしまう。
けれどそこまで考えて、度胸なら、もう十分過ぎるほど見せてもらったことを思い出す。
ほんの数時間前、彼女は統治官の銃弾の前にその身を、自ら晒したのだ。
カイは、自分が彼女を侮っていたことを胸の内で苦笑して、小さく息を吐き出す。
そしてゆっくりと、唇を落とした。
言われた通りに目を閉じたクルミは、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
カイは、そっと目を開けた。
目の前には、ふるふると震える彼女のまつ毛がある。
瞼の向こうにある瞳が、右へ左へと落ち着かない。
きっと目を開けないように気を張っているのだろう、と大体の想像がついたカイは、彼女が目を開ける気配のないことに、口元に笑みを浮かべた。
そして、ぴったり閉じられたままのクルミの唇を、やんわりと啄む。
「ん・・・」
吐息混じりの声が漏れて、唇が緩んでいく。
耳から入る声に、カイの頭が痺れる。
無意識に、彼女の腰を引き寄せた。
「ん、むぅっ?!」
驚いた様子のクルミの口を塞いで、漏れ出た声を含む。
髪に絡めていた手で、彼女の頭が後ろへ傾ぐのを受け止めて。
そして、啄みの合間を縫うようにして、言葉を紡ぐ。
「息、出来るだろ・・・?」
カイの唇が離れた一瞬で、ぷはっ、と息を吐き出したクルミが深呼吸する。
「でも、ちょっとくるし・・・」
「まあ、まだ慣れないよな」
そう言って笑みを零したカイが、もう一度彼女の顔に影を落とす。
するとクルミは反射的に瞼を閉じる。
嫌がる素振りがないことにカイは小さく笑って、軽く触れるだけのキスをした。
ちゅっ、と音を立てた唇が、言葉を紡ぐ。
「クルミは、俺とキスするの嫌じゃない?」
「・・・、ない」
カイの問いかけに、何を思ったのかクルミの腕が彼の背に回った。
抱擁というには少しガサツな、どちらかというと、しがみついた、に近い。
彼は、思わず頬を緩めた。
クルミが何を思ったのかについては後回しにすることにして、彼は質問を続けた。
「じゃあ、スバルとだったら?」
思わぬ質問だったのか、面喰った彼女が口を噤む。
そして、ややあってから彼女はぽつりと零した。
「我慢は出来る、かな・・・けど・・・」
「けど?」
カイに先を促され、クルミはちらりと視線を上げる。
「あんまりしたくない・・・」
「うん」
呟きに頷きを返した彼は、髪に絡めていた手で、彼女の頭を撫でた。
大きな手は、するりと黒髪を撫で、そのまま頬を辿る。
目を逸らすのは許さない、とばかりにクルミの目を自分へと向けさせて、カイは尋ねた。
「それじゃあ・・・俺が他の人とするのは?」
「他のひとって・・・?」
「そうだな、例えば・・・」
クルミの言葉に、カイは考えを巡らせる
彼女が知っている女性は、一体誰だったか・・・。
「ああ、大佐とか?
じゃなかったら・・・前に服を買った店の、女の子とか」
「・・・キスするの?わたしにしたみたいに?」
彼女は尋ねながら、眉間にしわを寄せ、顔をしかめた。
それだけで気持ちを読み取れるような気もするけれど・・・と思いつつも、カイは言葉を欲する。
「そう。
もしかしたら、もっと長い時間、こうやって触れ合ったりするかも・・・」
「絶対ダメ・・・っ」
背中に回された手が、カイのシャツを握りしめた。
欲しかった言葉がすんなり飛び出てきたことに、彼は頬を緩める。
そして、ゆっくりとした動作で彼女を抱きしめた。
「うん、分かった・・・でも・・・」
「なに?
でも、なに?」
胸に頬を寄せたクルミの声が、くぐもる。
「もし、“どうしても”って言われたら、どうしようか」
「えぇ・・・っ?!」
「あ。
でも、クルミが俺のこと好きって言ってくれたら、そんなことにはならないかも。
クルミは俺のこと好きなんだ、って分かってれば大丈夫だと思うんだけど・・・」
「・・・ほんとに?」
「うん」
顔を上げて尋ねたクルミの頭を撫で、カイは頷いた。
すると、彼女は慌てたように口を開く。
「す・・・っ、好き・・・!
だからっ、ぅぷ・・・っ」
何やら言葉を紡いでいた彼女をきつく抱きしめて、カイは息を吐いた。
自分の思った通りの反応をさせていることに、ほんの少しの罪悪感を感じて。
そして、多少なりともクルミにも自分に対しての独占欲があるらしいことに気づいて。
胸の辺りで上がる、「むーっ!」と苦しそうな声ですら、カイには愛おしい。
「おいしー!」
おにぎりを頬張って吼えたクルミに、カイが驚いて声をかける。
「ちょっ、外に聞こえるだろ」
「・・・あ。
ごめんなさーい」
病院へやって来た頃よりも目に見えて顔色も良く、元気になったクルミは、カイの買ってきたものを物色しては片っ端から胃に収めていた。
思えば、昨夜は統治官の用意したものを食べずにいたのだ。
2人の間に流れていた甘い空気は、クルミの腹の虫によって破壊され、そこから怒涛の食事の時間が始まったわけである。
「やっぱりカイさんがいれば、何でも美味しい・・・」
そう零したクルミの手元には、サンドイッチとおにぎりの包装紙が転がっている。
今開けているのは、プリンの蓋だ。
「・・・物凄く、やっつけな台詞だな・・・」
付き添い用の椅子を持ってきて腰掛けたカイが呆然として、彼女は小首を傾げる。
その姿に、ついさっきまでのやり取りの仕返しの台詞ではないらしい、と見当をつけた彼は、小さなため息をついた。
そして、首を振る。
「いい、なんでもない。
とりあえず、食べたいだけ食べて」
「ん。
・・・ねえ、カイさん」
スプーンを持ち上げたままの体勢で、クルミは遠くを見つめた。
「わたし、まだカイさんに言ってないこと、あるんだ」
唐突に、ぽつりと零した呟きに、カイは大して動揺もせずに尋ねた。
今さら新しい事実が発覚したところで、受ける衝撃は小さい気がするのだ。
「・・・レコーダーに録音されてたことは、全部ちゃんと聞いたつもりだけど」
「うん、それとは別・・・」
何気ない会話のように返されて、クルミは口ごもる。
「話したくなかったら、無理しなくてもいいんだ。
・・・俺は何もかも全部を知らなくても、嫌いになったりしないよ」
聞こえてきた言葉に、彼女は思わずカイを振り返った。
彼の穏やかなカオを目の当たりにして、食べるつもりでいたものを置く。
そして、ぽつりぽつりと言葉を零す。
それは、なりゆきが生んだ小さな秘密。
「わたしの名前、続きがあってね・・・。
ほんとは、クルミチトセ、って言うんだ。
来る、海、千、歳・・・漢字、4文字で。
最初、草原で目が覚めた時に、リクさんの手のひらに、指で書いたでしょ?
クルミ、って書いたら、そこで会話が別のことになっちゃって・・・。
だから、なんとなく言いだせなかったんだ。チトセです、って。
あの時のわたし、喋れなかったし。みんな、名前は1つだけみたいだったし」
「そういえばあの時、統治官が言ってたな」
クルミの告白に、カイが頷く。
「ご両親と住んでた頃は、どっちで呼ばれてたんだ?」
「チトセ、とか、ちーちゃん、とか。
クルミは、家の名前なの。
だから、お父さんもお母さんも、名前の最初にクルミが付くんだ」
驚かれも責めもされなかった彼女は、落ち着いて語る。
「へぇ・・・そんな時代があったのか」
感心したように彼が呟いて、言った。
「じゃあ俺も、チトセって呼んだ方がいいのかな」
「ううん、クルミがいい」
「・・・でも、個人的な名前はチトセなんだろ?」
「そうなんだけど・・・」
カイの言葉に、クルミは曖昧に頷く。
「もうみんな、わたしのことクルミって呼んでるし・・・。
今さら戸籍の名前を変えて、また誰かに目をつけられちゃっても困るし。
それにクルミの方が、お父さんとお母さんも一緒にいる感じがするの」
「そっか」
「うん」
静かな会話が途切れて、クルミが照れ笑いを浮かべた。
「・・・子どもみたいだって、分かってるんだけど」
ふいに響いたノックの音に、カイが立ち上がる。
鍵を開ける前に、ひと言返事をして、様子を窺う。
「・・・私だ。見舞いに来た」
声の主に気づいたクルミが、振り返ったカイに頷きを返した。
「傷の具合は・・・、大丈夫そうだな」
言いながら視線を走らせた少佐は、クルミの手元に散乱した物を見て笑みを浮かべる。
「食欲もあるようで、何よりだ」
「えっと、これはあの・・・」
少佐の見つめる先に気が付いたクルミが、慌てて食べた物を片づけ始めた。
くっ、と喉を鳴らした少佐に、カイが言う。
「痛み止めも、抗生物質も効いてるようで、この通り・・・。
まだ医者の意見は聞いてませんが、遅くても明日の朝、連れて帰ろうと思ってます」
「それは、ああ・・・分かった」
「反対しないんですね?」
「嫌われたくはないからな」
言って、クルミを一瞥する。
少佐に倣ったカイは、彼女が親の敵を見つめるような目つきをしていることに、苦笑した。
カイと引き離されるのかと神経を逆立てて警戒していたクルミは、どうやらその方向に話が進まないらしいことを感じ取って、ほっと息を吐いた。
すると再び、ノックの音が響く。
「ああ、私が出る」
椅子を用意しようとしていたカイを手で制して、少佐が動いた。
そして、開けられたドアの向こうから顔を覗かせたのは、つい数時間前まで一緒にいた、壮年の男性とダリア大佐だ。
「どうもどうも。ごめんね休んでるところに押しかけちゃって」
病室に入るなり、愛想笑いを浮かべた男性がぺこりと頭を下げる。
続いて入ってきた大佐は、カイや少佐には目もくれずにクルミに駆け寄った。
「痛みませんか?
熱は?」
「だいじょぶです」
心配そうに見下ろされたクルミは、大佐に微笑みを返す。
医師の処置の腕なのか、薬のおかげなのか、彼女はカイの言葉の通り回復していた。
少佐が、男性と大佐の分の椅子を用意する。
「うんうん、良かった良かった。ああ、ありがとう少佐。
それでね、ええと・・・何と呼べばいいのかな」
大佐が詰めていた息を吐き出したのを見計らって、男性が声をかける。
クルミはその視線を正面から受け止めて、静かに言った。
「クルミです」
「そう・・・分かった。クルミでいいんだね?」
白い廊下でのやり取りを思い出した彼女は、しっかり頷く。
「はい」
すると男性は、目を細めた。
「じゃあ、クルミちゃん。
私はセントラルで、各地の統治官をまとめる統治総官というのをしてるの。
昨日とっちめた統治官の、親玉みたいなものだね」
「総官・・・?!」
カイが思わず上げた声に、クルミは首を傾げる。
「ああいや、申し訳ありません・・・どうぞ続きを」
動揺を見せたのも束の間、彼はすぐに仕事の顔になった。
「・・・ええっと、それで・・・。
私が君の素性を知っているってことには、もう気づいているね?」
話が本題に入った気配に、少佐も大佐も、椅子に腰かける。
こくりと頷いたクルミの表情が翳って、カイが手を伸ばした。
ベッドにセットしたテーブルの下で握りしめられたこぶしを、そっと包む。
「大佐には、私が話したんだけどね。
少佐も、そこの彼も、同じくらいのことを知っているという前提で、話をするよ」
嫌な予感に冷たくなった手に、温かい手が心地よい。
硬くなった表情をいくらか和らげて、クルミは頷いた。
「・・・はい」
「訊きたいことは、ひとつだけ。
・・・オルタルの能力は、まだ残っているんだね?」
質問だという割に、確認するような台詞だった。
クルミは一瞬の間を置いて、静かに言葉を吐き出す。
鼓動の音が、鈍く頭の中で響く。
フラッシュバックしたのは、咄嗟に日本語で喚いた場面だった。
「残ってます・・・。
あの、わたし・・・乱暴、された時に・・・」
「ああ、うん。いいよ。
その場面は、ツヴァルグ君から押収したもので確認させてもらったし。
・・・あれは正当防衛ってことで、何とでも出来るでしょう。
問題はね、今の君が、アレを制御出来るのかどうかってことなの」
「制御・・・」
「そう。
どうかな、出来る?」
総官が、クルミの顔を覗き込む。
彼女はカイの手を握りしめて、歯を食いしばった。
どういう意図があって確認されているのかが、なんとなく分かったのだ。
セントラルから来た、統治官達の親玉だという言葉を、クルミは思い出す。
そして考えを巡らせる。
オルタルの制御を心配しているとなれば、“出来ない”と言った自分に何が起こるかは火を見るよりも明らかだ。
きっと、統治総官のもとで管理される身になるのだろう。
・・・ここに、いたいのに。
想像して、クルミは顔をしかめた。
そして、背中を這う嫌な予感に呼吸を整えたクルミは、口を開く。
「・・・します。制御。
もう暴走させたり、しません」
クルミの視線の強さに、その横顔を見つめていたカイは、わずかに目を瞠る。
自分を突き飛ばした時に、ほんの一瞬垣間見た彼女を思い出していた。
「・・・現時点で出来ているかどうか、を知りたいんだけどなぁ・・・」
一瞬気圧されたのか言葉に詰まった総官が、息を吹き返してぼやく。
「ま、いいや。
意志は強そうだし、大丈夫か・・・」
「・・・いし?」
話が見えなくなりそうな気配に、クルミは首を捻った。
教えて、と視線に込めて投げる。
すると、総官が言葉を選びながら言った。
「なんていうか、気持ちの問題ってことだよ。
ナラズモノ・・・兵器は本能が優先されるように出来てる。
でも、君の場合はその辺りが曖昧なんだよね。
暴漢に対しては、身の危険を感じて本能的に・・・ってとこかな」
「あの時は、怖くて何も考えられなくて・・・」
知らない男の手に肩を掴まれ、口を塞がれた記憶がぶり返して、クルミは俯く。
「うん、だからそういうことだね。
君が自分を見失いそうになると、オルタルが暴れ出す。
・・・そうならないように、約束出来るかい?」
総官が穏やかな口調で問いかけた。
重ねられたカイの手に、わずかに力が込められたのを感じて、クルミは我に返る。
そして目にした、総官の強い眼差しに、息を飲む。
頭のどこかで、試されているのだと分かった彼女は、そっと、口を開いた。
乾いてしまった唇で、ちゃんと言葉を紡げるだろうかと、少し不安になりながら。
「・・・します。頑張ります」
小さな声を聞き取った総官が、ほぅ、と息をついた。
続けて、ため息混じりに言う。
「仕方ないねぇ・・・。
ああもう、私もずいぶんと年を取ったもんだね、ダリア。
遺児がこんなに可愛いなんて、クルミ博士夫妻も意地悪だよ」
「そうですね。年です。すでに老人の域に片足突っ込んでます。
ちなみにクルたんが可愛いのは、おじさまのためじゃないですからね。断じて」
「相変わらず容赦ないね」
大佐に冷たくあしらわれて、総官が項垂れる。
この2人は一体何なのだろうかと、彼女は小首を傾げた。
「大佐は、そーかんさん、と知り合いなんですか?」
「・・・ええ」
何気ない、当然といえば当然の質問に、大佐の表情が曇る。
尋ねるべきではなかったのか、と視線を彷徨わせたクルミに、大佐は眉を八の字にして言った。
「わたくしね、おじさまの養子なんです。
小さい頃に拾われて、教育を受けさせてもらったんですよ。
・・・おじさま、お話しても?」
大佐の言葉に、総官が肩を竦める。
それに頷いた彼女を見て、クルミはそれが了解の意を示していたことに気づいた。
「おじさまのお手伝いをしたくて、統治官になる勉強をしてました。
統治官には、養成校を卒業した後に役所で実務経験を積んで・・・、
その後の試験を通過したら、今度は軍部で実務を経験して、初めてなれるんです」
「ふぅん・・・なんか、すごい・・・」
「逆に、軍で下積みをしてきた人間は、役所で実務経験を積むことになってて。
で、わたくしは、この街の軍部に所属することになったんです」
大佐の話に、クルミが相槌を打つ。
すると、少佐が口を開いた。
その表情は、どこか憮然としている。
「本来なら、下っ端になるところだ。
・・・だが体力がなさ過ぎて、機関銃を担いで走ることも出来なくてな。
いろいろさせて、いきついたところが大佐の椅子だ」
「・・・ええっと・・・申し訳ないとは思ってます」
えへへ、とはにかんだ大佐が、ため息混じりに言った少佐に頭を下げた。
そして、呆然と話を聞いているクルミとカイに向かって、話を続けた。
「本当は、大佐なんて恐れ多いんです。
でも軍に細かい指示を出す少佐の仕事は、わたくしには出来なくって。
代わりに統治部との関わりが主な仕事の、大佐になっちゃいました」
「ああ・・・それで・・・」
何かが腑に堕ちたカイが、呟く。
不思議な人員配置に、当時は皆してざわめいたのを思い出したのだ。
小さな声を聞き洩らすことのなかった大佐が、むっとして言った。
「・・・でもっ。
ツヴァルグの相手は、わたくしの方が良かったと自負してるんです。
実際、軍部と統治部の衝突は少なかったと思いますしね。
少佐が大佐だったら、きっと真っ向から・・・」
「ダリア、その辺でね」
苦笑を浮かべた総官が口を挟んで、熱を帯び始めた大佐を落ち着かせる。
一応は仕事が出来ないのを負い目に感じていたのか、となんとなく感じ取ったクルミは、総官が口を開くのを眺めていた。
「彼女をこの街に派遣したのは、私の裁量なの。
クルミちゃん、君が目覚めるかも知れないと思ったからだよ」
「・・・ご存じだったのですか」
思わず口を挟んだカイに、総官が首を傾げる。
「んー・・・少し違うか。
ツヴァルグ君が、この街の統治官になった。
・・・当時の彼は、辺境に飛ばされたことに、衝撃を受けていた。
氷ヶ原にはオルタルの遺児が眠っている。
何とかしてセントラルに返り咲こうとする彼、眠る遺児。
・・・なんか嫌な予感がしたから・・・というのが、正しいかな・・・」
「ダリアから、少佐が養育者になったというのは聞いていてね。
ひとまず安心だと、目先の仕事を片づけてからやって来たら、まあ大変なことに」
苦い顔をして、総官が肩を竦めた。
「嫌な予感が、こうも的中するなんて思いもしなかったよ。
自分が総官を務めている間に、君が目覚めるとも思ってなかったし・・・。
すまない、これは言い訳だね」
そう言って困ったように微笑んだ壮年の男性に、クルミは静かに首を振る。
今さら、自分の境遇を何かのせいにしても、いいことはないと分かっているのだ。
「・・・そこの彼、それから少佐」
総官が、声を硬くして2人を呼んだ。
「ここで聞いた話も、クルミちゃんに関することも、秘密だからね」
人差し指を口元に当てる仕草も、言葉も軽いけれど。
その瞳に宿ったものの強さに気圧されて、2人は頷く。
それを見届けた総官の視線が、再びクルミに向けられた。
「さあ・・・今度は、君が私に訊きたいことがあれば答えるよ」
唐突に話を振られ、一瞬面喰ったクルミは、言葉を選んで尋ねる。
「オルタル兵士になったみんなが、どうなったのか知ってますか・・・?」
「・・・回収出来た分は、中和剤を投与したらしい。
姿かたちは元に戻った者がほとんどだと聞いてるけどね・・・実際は分からない」
注意深く彼の回答を聞いていた彼女は、言葉に引っかかりを感じた。
「戻らなかった子もいたんですか・・・?!」
自分がオルタルを投与された頃には、友人は皆、戦場へと送られていたのだ。
具体的に思い浮かんだ友人達の顔に、クルミの声が震える。
「いた、らしい。私も、その場にいたわけじゃないから。
オルタルが体に定着してしまっていた者は、中和剤が効かなかったそうだよ。
・・・末路は、まあ、聞かなくてもいいよね?」
淡々とした総官の言葉の端々に、苦いものが混じる。
「そんなぁ・・・」
呆然と呟いたクルミの手を強く握ったカイは、口を開いた。
「街の外にいるナラズモノは、そういった経緯で?」
「いや、」
総官が首を振る。
「彼らは、意図的に残したオルタル兵士だと言われてる・・・。
・・・世界が、二度と分裂しないように」
「どういう意味でしょうか」
それまで沈黙を貫いていた少佐の言葉に、総官が言った。
「統一統治が始まってから、世界は安定した。
だからセントラルは、その安定を崩す可能性を摘み取る方法を探したんだ。
大戦の原因と、国家間で問題になっていたことを、ひたすら挙げて。
そうして至った結論が、世界を“箱庭”にして管理することだった」
「はこにわ・・・って?」
言葉の意味が理解出来なかったクルミが、カイに尋ねる。
少しの間をおいて、彼は言葉を選ぶ。
「・・・箱の中に、小さな庭を作るんだ。
草花だけじゃなくて、人形とか建物を入れて、本物みたいに」
「うん。そういうこと。
セントラルは、人の移動を管理するために街同士を離れた場所に造った。
周りにはナラズモノを配置してあるから、レインの飛行機でなければ移動は不可能。
月に数本しかない便の高価いチケットを手配して、やっと他の街へ行ける。
それだって、レインに申請しなければいけない。
・・・箱庭の中の人間達は、その違和感に気づかないまま生きてる。
それでも、今の平和が続くならそれでいいか、ってセントラルは考えてきたわけ」
それが良いとか悪いとか、っていう話は今日は勘弁してくれるかな・・・と曖昧に微笑んだ総官は、続きを口にした。
「だけどレインの関係者は、異動と称して別の勤務地へ送られることがあるんだ。
数年ごとの、大移動。
・・・街の血が濃くなりすぎると、いろいろ不都合が生じるからね」
「なるほど」
頷いた少佐に、総官は視線を投げた。
クルミもそれに倣い、小首を傾げる。
「それで、この街には“芽”を持つ者が多いのですね・・・」
「・・・何、それ・・・?」
だんだんと話の内容が難しくなってきたからなのか、クルミが目を擦りながら尋ねた。
瞼が重力に負けそうになるのを、懸命に堪えて。
「感覚や、身体能力が平均よりもずば抜けて高い者を指す言葉だ。
そうか・・・薬の影響を受けたものの子孫に現れるのが“芽”だとすれば、
クルミの生まれた時代には、いなかったはず・・・知らなくて当然か」
「・・・んんー・・・?」
少佐の低い声と難しい言葉に、クルミの中の何かが途切れそうになる。
耳から入る声が、遠のいて囁きのようになっていく。
手の甲を撫でるカイの指が心地よかった。
「“芽”がオルタルに由来するのだとすれば、合点がいくね。
オルタルから解放された子どもたちの子孫が、この街にはたくさんいる。
さすがは少佐・・・でも、この話も内緒にしておいてね。
今回だけだよ、こんな極秘事項・・・」
「あら?おじさま?
それじゃあクルたんが子どもを産むとなったら、問題になるんでしょうか?」
「・・・こ・・・っ?!」
「いや、まだ睨まないで下さい少佐」
「まだ・・・?
まだとは、どういう意味だ・・・?!」
うつらうつらと船をこぎ始めたクルミをよそに、大人達は話を続ける。
話題が自分に関係ないことになったのを、薄れゆく意識の中で聞き届けたクルミは、引っ張られるままに眠りに堕ちていった。
そんな彼女に大人達が気づくのは、もう少し先のこと。