8-6
鼓動の音が、全身に響いている。
体の中心が震えて、耳たぶが熱い。
頭の中は真っ白なのに、色彩豊かな感情が、溢れ出そうだ。
こんな自分がいたことを、クルミは今まで知らなかった。
【・・・クルミ?】
声に呼ばれて、彼女は我に返る。
けれどすぐには反応出来ずに、スピーカーを見つめたまま、固まった。
すると、そんな彼女の姿を察したのか、カイが申し訳なさそうに語りかけてくる。
【あー・・・うん、ごめん・・・】
「・・・ど、して・・・?
どうして、ごめんなの・・・?」
好きだと言われた矢先に謝られて、クルミは半ば呆然と呟いた。
途端に、揺さぶられた感情が、行き場を失って落ち着いていく。
あの力強い言葉は本意ではなかったのか、と勘繰ってしまう。
【いや、急にあんなこと言って、困らせたんだろうなと思って・・・。
本当は、無事にここから連れ出せたら話そうと思ってたんだけどな。
クルミがうじうじしてるから、つい焦って・・・】
「う、うじうじ・・・」
鼻声のまま、カイの言葉を繰り返した。
クルミの口は、素直な思いを紡ぎ始める。
「うじうじなんか、してないもん。
わたしはただ、」
【だったら、】
自分の思いを主張しようとしていた彼女を遮って、カイは言った。
【素直に、帰りたいって言えばいいだろ】
「・・・そんなこと・・・」
スピーカーに向かって、クルミはカイの台詞に堰き止められた思いを口にする。
「出来ないよ・・・。
わたしが逃げたりしたら、統治官、カイさんも少佐も、傷つけるに決まってる。
あの人おかしいの。狂ってるの。
きっとオルタルのためなら、誰でも、何人でも傷つける・・・」
穏やかに微笑む表情に垣間見えた狂気を思い出して、彼女は青ざめた。
花火の夜に襲いかかってきた暴漢達。
統治官は彼らに金を渡して、クルミにオルタルの能力を使わせ、それを録画していた。
結果的に2人組を凍死させたことを意にも介さない様子に、彼女は閉口するしかなかった。
思い出した言い知れぬ不気味さに、クルミが沈黙する。
すると、カイがため息をついた。
【やっぱり脅されてたか・・・。
俺達に危害が加えられると思ったから、何も言わなかったんだな】
「・・・でも、」
【俺が聞きたいのは、クルミの気持ち】
ため息混じりの言葉で遮られて、クルミは押し黙る。
その気配にカイが、言った。
【俺は、クルミのことが好きだから、もっと一緒にいたいと思ってる。
でもクルミが嫌なら、仕方ないだろ。
・・・だから、出来る出来ないじゃなくて、気持ちを、教えて。
クルミの気持ちを邪魔するものは、一緒になんとかすればいいだけの話だ】
「それ、は・・・」
迷いのないカイの台詞に、クルミの鼓動が大きく跳ねる。
目の前に彼がいるわけではないのに、まっすぐに視線を投げられている気がして、俯いてしまう。
言ってもいいんだろうか。
本当に、普通の人に混じって生活しても大丈夫なんだろうか。
独りじゃないなんて、なんて幸せなんだろう・・・と思った瞬間に、自分の手で木っ端みじんに壊してしまわないだろうか。
カイを、傷つけたりしないだろうか。
カイに、傷つけられたりしないだろうか。
さまざまな思いが頭の中を駆け巡って、クルミは手のひらを固く握り込む。
すると、ほんの少しの間ですら待てない、というように、カイが口を開いた。
【素直に言ってごらん。
ちゃんと言えたら、あのパンケーキの店、また連れてってあげるよ】
「・・・もう。子どもじゃないんですけど」
むっとして、思わずクルミは口を尖らせる。
そこに返ってきた言葉は、苦笑を含んでいた。
【分かってるよ。
・・・とっくに、子どもには見えなくなってた】
ふた言目が耳に入った瞬間、クルミは目を見開いた。
どういうわけか、胸の辺りが痛痒い。
ただの痛みではない。
甘く、深追いしたくなるような、クセになりそうな痛みだ。
クルミは、じくじくと胸の辺りを侵食し始めたものを感じながら、口を開いた。
「わたしだって、一緒にいたいよ・・・でも、怖くて」
【うん。
一緒にいたいなら、そうしよう】
「でも怖いんだもん。
どうしたらいいの?
連れてって欲しいけど、ここから出してもらってもいいの?
さっきも言ったけど、わたし、普通じゃないんだよ。
録音したの、聴いたでしょ・・・?」
泣き出しそうに震えた声に、カイは静かに応える。
【クルミが望んでくれたら、今すぐここから連れ出すよ。
ここから出たあとは、俺がずっと一緒にいる。約束する。
必要なら、少佐に周りを固めてもらうことだって出来る。
・・・それでも、まだ怖い?】
「ずっと一緒?」
【うん】
「約束?」
【うん】
「絶対・・・?」
【・・・クルミ、】
短い言葉のやり取りに痺れを切らせたカイが、彼女を呼ぶ。
ややあってから、彼女はそっと囁いた。
「うん・・・カイさん、わたし、あのうちに帰りたい」
「・・・クルミ」
重い音と一緒に、ドアが開く。
クルミは、姿が見えるよりも早く聞こえてきた声に反応して、飛び出した。
「カイさんっ」
「・・・、っと・・・」
ばふ、と勢いよく飛び付いてきたクルミを抱き留めて、カイは大きな息を吐き出す。
柔らかな彼女から漂う、似つかわしくない薬品の香りにわずかに顔をしかめる。
嗅覚を刺激されて、よくない想像が頭の中を飛び交った。
「ほんとに無事?」
思わず尋ねれば、腕の中で小さく身じろぎしたクルミが、彼を見上げる。
「だいじょぶ。
・・・ごめんなさい、来てくれて、ありが、っぷ!」
薄紫の瞳が揺れるさまに、カイは感情のままにクルミを抱きしめた。
その腕の強さに、自分の肺がぺしゃんこになるのを想像してしまった彼女は、カイの背中を思い切り叩いたのだった。
「さ、行こう」
固く手を繋ぎ、カイが緊張を纏う。
その様子に、クルミも強張った顔で頷いた。
真っ白な壁が、気を遠のかせる。
・・・だいじょぶ。カイさんがいるもん。
自分に言い聞かせたクルミは、カイに導かれるままに部屋をあとにした。
ちらりとだけ、数時間前まで両親の顔を映し出していたスクリーンを、一瞥してから。
2人は出口を目指して、歩いていた。
並んで歩くには、ずいぶんと速足だ。
カイは大股で、それについていくクルミは、否応なしに半ば小走りになる。
そんな中、クルミは繋がれた手をじっと見つめて、カイの足が向かう方へと歩いていた。
「・・・ん、何?」
ふいに声をかけられて、クルミは顔を上げた。
見れば、カイが目を細めて彼女を一瞥するところだった。
「ずっと手を見てるから」
そう言った声はいくらか弾んでいる。
それが、急いで歩いているせいではないことは、彼の表情を見れば明らかだ。
クルミは機嫌の良さそうなカイに、自分の内に湧いた感情を零し始めた。
「・・・わたしね、お父さんとお母さんの写真、見たんだ」
「うん」
カイは視線だけは前に向けたまま、相槌を打った。
クルミは、淡々と続きを口にする。
「統治官がね、スクリーンに映したの。
・・・皺とか、白髪とかあって。わたしの知ってるお父さん達じゃなかった」
「うん」
繋いだ手が、力を込めた。
それを感じ取って頬を緩めたクルミは、しっかり繋がった手を見つめて、静かに言う。
「泣かなかったんだ、わたし。
どうしてわたしだけ未来に置いていっちゃったの、って思ってたのに。
わたしね、お父さん達の顔を見て、カイさんのこと思い出してた」
「・・・うん」
「ああ、わたし、カイさんに会いたいんだ・・・って。思ったの。
そしたら、ほんとに来てくれた」
「そっか」
カイが歩を緩めて、クルミを振り返った。
その瞳が、柔らかく細められる。
「来て“くれた”・・・ってことは、待ってたんだ?」
「う・・・。
違うもん」
楽しそうに口を開いたカイに、クルミは口を尖らせる。
言葉の端々に、甘い棘があるような気がして、視線を彼の瞳に定めることが出来なかった。
・・・なんか、カイさんが変だ・・・。
表現出来ないむず痒さを覚えたクルミは、胸の中で独りごちて俯く。
すると、いつの間にか彼女の耳元に口を寄せたカイが、囁いた。
「素直に言えないんなら、パンケーキの話はなかったことにするけど」
「やだ・・・!」
「冗談。
・・・ったく、少しくらい甘えればいいのに」
くすくす笑いを零したカイが、繋いだ手を持ち上げる。
そして、彼女の手の甲へと唇を落とした。
ちゅ、と音が響いて、クルミの顔がみるみる赤くなる。
「何、なになになに・・・?!」
「いいね、その反応」
「え・・・?!」
「なんでもないよ」
赤くなったクルミにひとしきり笑みを向けたカイは、前を向く。
そして、緩めていた歩を再び速めた。
「さっきの話・・・」
「う、うん?」
甘さを含んでいたカイの表情が、いくらか真剣なそれに変わったことに、クルミは息を整える。
するとカイは、平静を保とうとしている彼女に目を向けた。
自分だけが乱れた鼓動に振り回されているのだと気づいたクルミは、思わず目を伏せる。
「クルミのこと好きなんだ、って話。
・・・真っ赤になるってことは、意味、解ってるんだよな?」
降ってきた声に、彼女は顔を上げた。
ぶつかり合った視線に、ゆっくりと頷く。
素直に、と何度も言われては、誤魔化したところで同じやり取りを繰り返すだけだと、諦めて。
「でもわたし“好き”って、まだよく分かんなくて・・・。
カイさんが言ってた“好き”って、どんな気持ちなの・・・?」
クルミのひと言に、カイの足が止まった。
手を繋いでいる彼女の足も、一拍遅れて止まる。
そして、言われた通りに素直に気持ちを吐露した彼女は、静かな眼差しを自分に向けるカイを、見上げた。
小さく息を吐いたカイが、口を開いた。
直球でいかなければ、この少女には何一つ、自分の意図するところが伝わらないのだった、と思い出して。
「クルミと離れてると苦しくて、辛い。
声とか、表情が頭の中にこびりついてて、思い出すたびに会いたくなるんだ。
だけどこうやって手を繋いでると、少し安心する。
・・・うーん・・・それよりも、こうして、」
くい、と彼が繋いだ手を引く。
思わぬ方向へ引っ張られたクルミは、力をかけられるままに数歩、カイに近づいた。
すると彼の空いている方の手が、彼女の腰を引き寄せる。
「クルミの匂いを嗅げるくらいの距離にいた方が、ほっとする、かな。
ああでも、この距離にいたら、今度はいろいろしたくなるかも・・・。
そういう欲も、俺は“好き”の一部だと思うけどさ」
ずいぶんと明け透けな言葉を選んだカイは、腕の中できょとん、としているクルミを見つめた。
そして、ため息混じりに言う。
「うん、あの・・・全部理解出来ててそのカオだったら、むしろ尊敬する。
・・・大丈夫、あとでゆっくりじっくり、ちゃんと理解するまで教えるつもりでいるから」
言い終えて、カイがおもむろにクルミのこめかみに唇を寄せた。
耳に近い場所で、キスを落とす音を聞いた彼女の頬が、赤く染まる。
まるで不意打ちだと詰りたい気持ちと、どうしようもなく高揚してしまう気持ち。
2つがくるくると入れ替わり、結局クルミは何も言うことが出来ずにカイを見つめた。
複雑に絡んだ、初めて味わう気持ちをどうしたらいいのか分からず、瞳が揺れる。
クルミは、自分の眼差しがカイが抑えているものを揺るがす力を含んでいることなど、露ほども思わないのだった。
手はクルミの腰を引き寄せたままで、カイは彼女の薄紫の瞳に吸い込まれるように、瞬きもせずに見入っていた。
繋いでいる方の手を、クルミの手が力いっぱい握りしめているのが分かる。
その力は、何かをカイに伝えようとしていると推し量ることが出来るのに、伝えたいことが何なのかまで、気を回すことが出来ない。
カイは、自分の鼓動の音が全身を駆け巡っているのを感じながら、自分を見つめて瞳を揺らす彼女に、唇を落とそうとしていた。
彼女のまつ毛が小刻みに震えている様子までが、しっかり見てとれるほど、お互いの距離がゆっくりと縮まっていく。
もう少しで、その緊張に張り詰めた吐息を感じることが出来る。
本能的に目を閉じたクルミの、下ろされた瞼の中で瞳が揺れているのが分かって、カイは胸の内で小さく笑った。
その時だ。
「そういうことは、他所でお願い出来るかな」
統治官の声が、響いた。