8-5
画面の中で、穏やかに微笑む両親。
彼らと対面したクルミは、不思議な気持ちで満たされていた。
喜びは、もちろんある・・・けれど、現実味がない。
画面の彼らには白髪が混じり、皺が刻まれている。
それはクルミの遠い記憶から、ずいぶんとかけ離れた姿だった。
・・・あれ・・・涙、出ない・・・。
感慨はある。
けれど、心の奥が揺さぶられるような悲しさや、恋しさが湧きあがってこない。
迷子になった子が心細さに堪らなくなって泣いてしまうような、あの気持ちが湧かない。
両親の温かな眼差しを見つめても、理由は分からなかった。
・・・あの時は、涙、出たのにな。
目覚めた日、墓地のベンチから茜色の空を見上げて心が震えたのを思い出す。
穏やかになった世界で生き延びることが、両親の望んでいたことだったと思い出した、あの時。
おはよう、と微笑んでくれる両親は、もういないのだと分かった。
・・・ああ、そっか。
漠然とした考えを巡らせていたクルミは、ゆっくりと瞬きをする。
ほんの一瞬、瞼を固く閉じた。
そして真っすぐに、画面を見つめる。
目覚めてから、慌ただしい日々に流されるように生きてきたけれど。
・・・お父さんとお母さんよりも、わたし、今、カイさんに会いたいんだ・・・。
クルミが自分の中のぼんやりしたものを掴んだのと同時に、統治官は口を開いた。
「彼らは、世界大戦が終結してすぐに護り木を造り始めた。
そして、回収したオルタル兵士に、中和剤の投与を試みたそうだよ」
真っすぐに画面を見つめていた彼女は、統治官の言葉に思わず振り返る。
その目は、力を取り戻して光を湛えていた。
「中和剤?」
「そう。
おそらく、君に投与したものはオルタルに中和剤を少量混ぜたものだろうね」
ハリのある声を発した彼女に違和感を覚えつつも、彼は頷いて続ける。
「おかげで、君は人の形を留めることが出来た」
統治官の言葉に、クルミは息を詰めた。
思い当たる節があるのだ。
「・・・そっか・・・だから、何日かで体が元に戻って・・・。
目覚めたら人間に戻ってるって・・・そういうこと・・・?」
自分自身に問いかけたクルミの言葉に、間髪入れず彼が問いかける。
「でもまだ、人間なのは見た目だけ・・・でしょう?」
頭の中が真っ白になった彼女は、ただ息を飲んで、手を握りしめた。
そして、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「・・・そんなの、もう見たんでしょ」
答えたところで、言葉尻りを捕まえられて、脅かし半分の台詞を吐かれるだけ。
そんな展開がなんとなく想像出来るほどには落ち着いたクルミは、統治官の言葉には取り合わず、静かに視線を返した。
すると、おどおどした様子の消えた彼女に、統治官が目を細める。
「ああ、見たよ。
君の中には、まだオルタルが残ってる。それも殺傷能力が保たれたまま。
・・・だから、その血を分けてもらうことにしたんだよ」
彼の言葉に、クルミは訝しげに眉根を寄せた。
「どういう、こと・・・?
わたしの血を、どうする気なの?」
言いながら、背中に寒いものが走る。
彼女は腕を擦って、統治官から一歩離れた。
彼は、そんな彼女を鼻で笑って言う。
「これだけオルタルの話をしてるんだから、分かるでしょう?」
小首を傾げた彼に、クルミは目を見開いて息を飲んだ。
「・・・オルタルを探してたの・・・?!」
無邪気とも思えるような顔をした彼に、戦慄を覚える。
クルミは、体から血の気が引いてゆくのを感じていた。
「そうだよ。
あれが欲しくて、君の正体を掴もうと動いてた。
私が保護しようかと思った時には、少佐が養育者になってしまっていて、手こずったけど。
君の体に残ってるオルタルの成分が分かれば、私の手で新しいものを作ることが出来る。
まあ、時間はかかるだろうけど・・・そんなことは大した問題じゃない」
・・・この人、狂ってる。
彼の欲するものを知って、クルミは胸の中で苦々しく呟いた。
あの薬の使い道など、たかが知れている。
人でも動物でも、末路は同じだ。
投与された日のうちに高熱が出て意識が朦朧として、容体が持ち直した時にはすでに、元々の命の形が歪められていて・・・。
そうやって、死ぬことにも、殺すことにも恐怖しないモノが生み出されるのだ。
「こんな辺境の統治官になるだなんて、なんて運がないんだろうと思ったけど、」
自分の友人達が辿った道を思って体の芯が震えたクルミは、統治官の言葉に我に返った。
「何か功績になりそうなものを探して、たまたまオルタルの存在を見つけるなんてねぇ。
驚いたけど、そのおかげでセントラルに戻れそうだよ」
微笑みすら浮かべる彼を見て、クルミは小刻みに震え始めた手を握りしめる。
「・・・オルタルを作って、どうするの?
人に、注射するの・・・?!」
足の震えをかき消すように、床を踏みしめる。
そんな彼女の、全身が強張るほどの恐怖を小さく笑った統治官は、口を開いた。
「そうだね、人に投与してみるのもいいかも知れないけど・・・。
それをやると、さすがにセントラルのウケは良くないだろうからね。
とりあえず作るだけ作って、報告してみてから・・・かな」
「セントラルに戻れればいいんでしょ・・・だったらオルタルじゃなくたって・・・」
呟きに、彼の笑みが深くなる。
「今さら、なかったことには出来ないよ。
この街は退屈過ぎる。
せっかく見つけた、あんなに素晴らしいものを放っておくなんて、ありえない」
「素晴らしい・・・?」
聞き捨てならない台詞に、血の気の引いた彼女の顔が、しかめられた。
訝しげに言葉を繰り返したクルミに向けて、統治官は笑みを零す。
「何言ってるの。
君の能力で凍死した2人組、忘れちゃった?」
「それは・・・っ」
襲われたからだと言おうとして、彼女は言葉を失った。
始終笑みを張り付けたような表情を崩さない統治官に、ぞっとして。
タイミングよく撮影された動画に、戦慄したきり考えもしなかった。
けれど、統治官の執着は自分ではなくオルタルに向けられているのだ。
そのために手段を厭わないくらいに、狂っていることも十分、分かった。
「・・・あなたが命令したの・・・?!」
脳裏を掠めたことを尋ねると、彼が困ったように微笑んだ。
それを見て、この人は笑顔以外の表情を持ち合わせていないのではないかと、クルミは思う。
「命令はしてないよ。ただ、お金に困っていたようだからね。
もし良かったら・・・って、話をしてお札を少し渡しただけ」
嫌な想像が肯定されて、クルミは唇を戦慄かせた。
「そんな顔しないでもいいのに。
彼らは最近、引ったくりで逮捕されてた2人組だったんだよ。
ニュースになっていたでしょう?気を付けなさいって、毎日テレビで。
だから別に、君が気に病むようなことじゃないと思うんだけどなぁ・・・」
その言葉に、彼女は統治官から目を逸らせた。
相対して言葉を交わしたところで、彼と会話がまともに成り立つことはないように思えたのだ。
そんなクルミに、彼はなおも言う。
「正当防衛だったんだし、仕方のない末路なんだよ。
私は良かれと思って現金を渡しただけで、命令などしていないしね。
・・・ほら、誰も悪くないと思わない?」
肩を竦めた統治官を一瞥した彼女は、小さく頭を振った。
自分では彼を止められないのだと、半ば絶望に似た気持ちを抱えて。
「・・・も、いい・・・。
血でも何でも、採って・・・」
視界に飛び込んできたデジタル時計は、午前4時を表示していた。
「・・・ん、ぅ・・・?」
右肩が痛い。
注射針を刺された左腕をかばっていたからなのか、横向きに体を投げ出したまま、ソファで寝入ってしまったらしい。
起きあがったクルミは、痛む右肩を回しながら何度か瞬きする。
クルミから採取した血液の入った試験管を、統治官は大事そうに抱えて出て行った。
「良い子にしてるんだよ」という台詞を残して。
血液の採取が終われば解放されるのではないのか、と心の中で呟いた彼女は、統治官の言葉に顔を上げることはなかった。
そして、そのままソファに体を投げ出して、今に至る。
「・・・夢じゃ、ないんだ・・・」
言葉が、重く床に落ちていく。
彼女はため息をついて、膝を抱えた。
「・・・こんなところに?」
短い囁きに、イヤフォンから言葉が返ってくる。
それを聞いたカイは、頷いて手を伸ばした。
管理室の奥、緊急時用と注意書きのされた配電盤を開け、指示された順番の通りにボタンを押し、レバーを下げる。
そして、物資の詰まった箱が積み上げられて出来た山の裏へまわる。
一緒にやって来ていたコウとウェッジに手で合図を送ったカイは、床に現れたハッチを開け、その身を滑り込ませた。
「カイさん・・・」
起きぬけに思い浮かべたのは、統治官の顔ではなく、彼の顔だった。
絶望を抱いたはずの心が、小さく震える。
きゅっ、と縮んで、苦しい。
疲労感が一瞬霞んで、鼻の奥がつんと痛くなった。
「・・・でももう、会えないもん」
全てを打ち明けて、彼女はそう思っていた。
ナラズモノと同じだと知っても、彼が自分を受け入れてくれるとは到底思えないのだ。
抱えた膝に顔を埋めたクルミは、固く目を閉じた。
最後に見たカイの顔は、甘く微笑んでいた。
忘れるはずもない。
彼は絡めた手を引き寄せて、額にキスをした。
思い出すたびに、「また、あとでな」と、彼の声が耳の奥で囁く。
動揺して呼吸が乱れた時とは違って、今は思い出すと胸の奥が軋むように痛い。
積み上げた物が音を立てて、ぶつかり合って、ひしゃげて、突き刺さる。
「分かってるもん・・・でも・・・」
蚊の鳴くような声で呟いて、ぎゅっと体を小さくする。
内側から何かが零れていってしまいそうな頼りなさに、少しの間呼吸を止めた。
その、刹那。
ジリリリリリ、ジリリリリリ
けたたましいベルの音が部屋中に響いて、クルミは膝を抱えたまま、体を震わせた。
「や、何これ・・・っ」
咄嗟に顔を上げて、音の出所を探す。
その間にも、煩いくらいの音量でベルは鳴り続けている。
「どこ・・・?!」
顔をしかめたクルミは、立ち上がって音のひと際大きく聞こえる方へと歩いて行く。
そして探り探り近づいた場所に、小さなスピーカーと赤く光るボタンがあることに気がついた。
「押して大丈夫なのかな」
そう呟きながらも、ベルの音に煩わされた彼女はすぐにボタンへ手を伸ばす。
カチ、という手ごたえと同時に、ボタンの赤い光が消えてベルが鳴り止んだ。
「・・・ふぅ・・・」
息を吐いて、頭の中に残るベルの音をかき消そうと瞬きを繰り返す。
すると次の瞬間、スピーカーから声が流れ始めた。
【・・・クルミ、いるか?】
「っ?!」
絶句して、クルミは思わず口を押さえる。
そして真っ白になった頭で必死に考えを巡らせている間にも、その声は再び彼女に語りかけた。
【クルミ?
・・・ここじゃないのか・・・?】
訝しげに潜められた声が、迷いを見せる。
【おかしいな・・・すみません、ハズレかも知れません】
彼が自分以外の人物に話しかけているのを聞きながら、彼女は無意識に、ぽつりと呟いた。
「うそ・・・」
信じられない、という思いで。
【いや、ちょっと待って・・・クルミ、いるのか?!】
彼女の呟きを捉えたのか、彼が声を張り上げた。
焦りを含んで響いたそれに、クルミは声を出すことが出来ずに立ち竦む。
頭が真っ白のまま喉が引き攣って、泣き出したい気持ちになる。
【統治官か・・・?!】
彼女がそんなふうに黙りこくっている間に、彼は別の可能性を考えたらしい。
一転して敵意を含んだ声が、スピーカー越しに響く。
咄嗟に、クルミは口を開いていた。
「ちがっ、」
【クルミなんだな・・・?!】
唇から零れかかった言葉を食いちぎるような荒々しさに、クルミはたじろぐ。
そして、ゆっくりと口を開いた。
彼の前に自分を晒す勇気は、持てないまま。
「カイさん、」
【無事なのか?】
震える声で呼びかけた彼女に、カイの声が食いつくように迫って来る。
スピーカー越しだというのに、詰め寄られている気持ちになったクルミは、手をもじもじと落ち着きなく動かした。
「ぶ、無事。だい、じょぶ」
彼女がようやく押し出した言葉に、カイが吐息を漏らして言う。
【・・・そ、っか・・・良かった・・・ほんとに、良かった】
今までに聞いたことのない声色に、クルミの鼓動が跳ねる。
穏やかなのに、どこか切望を含んでいるような声に、泣きたくなってしまう。
【・・・ったく、あんまり心配させるなよ。寿命が縮むだろ】
ため息混じりの小言すら、今の彼女には甘く響く。
クルミは、速くなる鼓動を抑えるように息を吐きだして、その声に聞き入っていた。
【・・・クルミ?】
「ん、きいてる・・・ごめんなさい」
会いたいと願った人の声が、すぐ傍にある。
彼女は、そっとスピーカーの縁を指先でなぞった。
信じられない思いと、再会を喜びたい気持ちが半分ずつ、くるくると交互に入れ替わる。
震える声で頷いた彼女に、カイは言った。
【うん。詳しいことは、また後で・・・。
とにかく今は、帰ろう。うちに】
静かな、けれど硬い声に、クルミは小さく息を飲んだ。
カイの声に胸を震わせたのも束の間、今度は絶望に似た気持ちが波を被せるようにやってきた。
そして、少しの間を置いてから、小さく首を振る。
「・・・でも、わたし・・・聴いたでしょ、あれ・・・」
声を聞くことが出来て胸が震えるほど嬉しいはずなのに、恐ろしい。
自分が何者なのかを知られてしまった今、彼女はカイの顔を見るのが怖くて堪らなかった。
【聴いたよ。だから?】
「・・・え・・・?」
返ってきた声に棘が含まれているような気がして、クルミは思わず聞き返していた。
すると、一瞬ぽかんとした彼女の様子が見えてでもいるのか、スピーカーの向こうのカイが、大きなため息をついた。
【クルミの話は全部信じるよ。
嘘みたいな話だったけど、嘘なんかつくコじゃないってことくらい、もう知ってる】
ぶつけるように紡がれる言葉に、彼女は瞬きを繰り返す。
そうしている間にも、カイは言葉を続けた。
【寂しがり屋なのも知ってるし、料理が上手なのも知ってる。
短いスカートが好きなのも、パンケーキが好きなのも知ってる。
苦手な数学を頑張ってたのも、理科が全然ダメなのも見てた。
・・・俺は知ってるのは、普通の女の子だ】
・・・ふつうの、女の子。
じわじわと胸に迫る言葉を反芻して、クルミは俯いた。
そのまま、こつん、とスピーカーに額を預ける。
【おい、クルミ?】
声の代わりに、小さな物音が聞こえたのだろう。
カイが、訝しげな声で彼女を呼ぶ。
けれどクルミは、その声にも返事をすることはなく、ただ、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えていた。
泣き切ったと思っていたのは自分だけで、涙は、まだいくらでも湧き出るらしい。
そんな自分が可笑しくて、クルミはそっと笑みを零す。
【・・・泣くなよ。
今泣かれても、何もしてやれないだろ・・・】
ぶつけるような口調を保っていたカイが、ふいに声を落とした。
泣いてない、と言おうとしたクルミよりも早く、次の囁きがやってくる。
【手の届く所で泣いてくれよ・・・。
クルミが泣いてるとか・・・想像しただけで苦しくなる・・・】
1人きり、音のなかったはずの部屋に、優しい声が流れる。
真っ白なだけの空間が、どこか、色づいて見えた。
「わたしが泣いてると、カイさん苦しいの・・・?」
スピーカーに当てた額から、振動が伝わってくる。
【違う、そうじゃない。
クルミが泣いてるからじゃなくて、そういう時に何も出来ない自分が情けなくて苦しいんだ。
・・・ああでも、それはそうなんだけど、でも、違うか・・・】
「ちがうの・・・?」
掠れた声に、クルミの鼻声が問いかける。
ひと言でも多く、カイの声が聴きたかった。
【いや、それはそうなんだけど・・・。
ああもう、とにかく、傍にいたいんだよ。
クルミの傍にいたくて、クルミに傍にいて欲しいんだ】
早口で捲し立てた彼が、スピーカーの向こうで呼吸を整える気配がする。
クルミは、彼の口から飛び出てきた言葉の速度に翻弄されつつも、その意味を少し遅れて理解した。
そして、何か言おうと口を開くのと同時に、彼が言葉を紡ぐ。
【好きなんだよ、クルミのことが】
その言葉は、泣いて緩んだクルミの耳に、すっと入り込んできた。
目を瞠った彼女は、まだ、自分が息をするのを忘れていることに気づいていない。