8-4
「・・・リク?」
「統治官です、きっと・・・彼が、クルミを・・・」
訝しげに眉根を寄せたカイに、リクは額に手を当てて俯いた。
「すみません、カイさん・・・俺、あなたとクルミを裏切りました・・・!」
押し殺した声で紡がれた言葉に、カイが動いた。
そして。
ガシャンッ
派手な音を立てて、リクの体がパイプ椅子と一緒に床に倒れ込む。
タスクが思わず腰を浮かせた。
けれどカイの一瞥を受けた彼は、一瞬体を強張らせた後にパソコンの画面へと視線を戻し、キーボードを叩き始める。
「・・・立て」
こぶしを握り込んだまま、カイが低い声で言う。
その瞳は険しく、明確な怒りを宿していた。
倒れ込んだリクは、顔だけを起こして口元を拭った。
口の中に広がった錆びた鉄の味に、自分がカイに殴られたことを自覚する。
一緒くたになったパイプ椅子を元に戻したリクは、ゆっくりを立ち上がった。
そして、口を開こうとした時だ。
「俺は今ので気が済んだけど、許されたと思うなよ。
・・・クルミが戻ったら、彼女に許しを請うんだな」
リクが言葉を紡ごうとするのを遮って言い放ったカイは、そのまま椅子を引いて腰掛ける。
「情報を整理したい。
・・・きっちり説明しろ」
「最初に声をかけられたのは、カイさんの家にお邪魔した日です」
「・・・ああ、あの日か」
説明を求められたリクが静かな口調で語り、カイが相槌を打つ。
「あの日、俺は歩いて帰るつもりでカイさんの家を出ました。
混乱してたから、少し飲んで帰るつもりで・・・そんな時に、統治官に声をかけられて。
・・・いろいろと、話を。
クルミのこと、カイさんのこと、少佐のこと・・・部隊の話も、世間話もしました」
机の上で手を組んでいたリクが、視線を彷徨わせる。
カイは、何も言わずに彼の話に耳を傾けた。
「本当に、何でもない話をしていたはずなんです。
だけど、あの人は俺がカイさんの家に行って、クルミと話をしたことに気づいていて・・・。
協力しろと、脅してきたんです」
「脅し・・・か。
一体どんな・・・?」
敢えて淡々と先を促したカイに、リクは頷いて答える。
「弟が、役所の方で働いてるんですよ。
あいつ、結婚が決まってて・・・統治官はそれに目をつけたようで・・・。
言葉は穏やかでしたけど、あれは脅しでした。
少なくとも俺は、断った時に起きる事態を想像したら、彼に従うしかないと思いましたから」
「なるほどな・・・。
それで、弟さんは?」
「今のところ、何も起きてません。
・・・婚約している彼女の方も、変わらず過ごしてます」
とりあえずリクの懸念していることが起きていないことを確認して、カイはゆっくりと詰めていた息を吐き出した。
「それは、まあ・・・良かったと言うべきか・・・」
「はい・・・すみません・・・。
それからクルミについて、いろいろと質問を受けました。
・・・それで、」
リクの声が、強張る。
殴られた痛みが、もう一度チクリと彼の頬を刺して、一瞬言葉に詰まった。
「・・・すみません。
カイさんの家で聞いたこと、話してしまいました」
リクの言葉に、カイは言葉を失った。
「・・・それで、統治官は彼女に執着してたのか・・・?」
統治官が、クルミが数百年前の生まれであることを知っている。
そのことが、今、彼女の行方が分からなくなっていることと大いに関係があるように思える。
カイが呟いて、頭の中を整理しようと黙り込んでいると、リクが口を開いた。
「でも、あの人があんな話を信じるとは思えません。
その後だって・・・」
「その、後?」
言いかけたリクが、カイの声色に視線を揺らして俯く。
「クルミが、俺達の昼の休憩に合わせてフードコートで勉強してることとか・・・。
花火大会に、スバルと行くこととか・・・。
大佐、少佐、それからカイさんと離れて行動する時には、知らせるように言われてて。
でもあの話に関しては、あれ以来、一度も触れなかったんです。
探ってこいとも、言われませんでしたし・・・」
「まあ、彼があの話をどう思っているかは置いておくとして・・・。
どうりで、やたらとクルミに接触出来たわけだ。
部隊の誰かが内通してるだなんて、思いもしなかった・・・」
カイは、ぼそりと呟いて額に手を当てた。
事態は思っているよりも悪い方へ転がっていたらしいことに、なんとなく気づいてしまって。
「なるほどね。
詳しい事情は分からないけど、リク君が絶妙に統治官を助けちゃったわけか」
それまで無言でキーボードを叩き続けていたタスクが口を挟んで、カイは頷いた。
「・・・の、ようですね。
やっぱり、統治官がクルミの居場所を知っていると考えるのが妥当、か・・・」
「あ、ウェッジ君、上手くやってくれたみたいだよ」
苦々しい表情を浮かべて独りごちたカイに、タスクが画面から目を上げて言う。
カイを手招きした彼は、キーボードを叩く。
顔を歪めていたカイと、俯いて小さくなっていたリクが立ち上がって、画面を覗き込んだ。
「ただいま~」
鼻唄混じりの声が重々しい音を紛らわすように入り込んでくる様子に、クルミは何の感慨も宿らない視線を向ける。
音のない真っ白な部屋では、時計だけが感覚を保つ支えだった。
朝日を受けて飛ぶ鳥の鳴き声も、暑い最中に聞こえる蝉の声も、夕方少し気温が下がって感じる心地よい風も存在しない部屋。
自分は生かされているだけなのだと、それだけをはっきりと自覚していた。
「・・・クルミ?」
穏やかな声が、彼女を呼ぶ。
けれど、クルミは返事もせずに、じっと統治官を見つめるだけだ。
表情を読むでもなく、ただ、じっと。
「夕飯を持ってきたよ」
にこやかに手に持った物を見せた統治官は、彼女の反応を気にするふうもなく、隣に腰掛けた。
そして、食事を広げながら言う。
「食事が終わったら、血液を採取させてもらうね」
「血・・・?」
その言葉が耳に引っかかった彼女は、静かに尋ねた。
すると統治官は、何でもないことのように頷いてみせる。
「そう、血だよ」
彼女の前にフォークとスプーンを置いて、微笑んだ。
「・・・血なんか、何に使うの?」
クルミは顔をしかめた。
得体の知れない気味悪さのようなものを感じて、腰を浮かせる。
「やだなぁ・・・」
けれど彼は、そんな彼女に浮かべて微笑みを消すことなく言った。
口角が、吊り上がる。
「協力してね、って言ったでしょう?」
「・・・分かってる・・・。
血でも何でも、好きに持っていけば」
ぽつりと呟いたクルミを見て、統治官はくすくすと笑みを漏らした。
「ずいぶんと不貞腐れた態度を取るんだね」
その言葉に、クルミは苛立った。
一体何がそんなに愉快なのかと、心に波が立つ。
「これだけ面白くて可愛いと、意地悪したくなっちゃうな。
うん、カイ部隊長の気持ち、良く分かる」
「カイさんの、気持ち・・・?」
思わぬ言葉が耳を打ち、クルミは目を見開いた。
統治官の言うそれに、ただならぬ興味が湧いてくる。
知りたい。
けれど、そんなことを言ったら、つけ込まれるかも知れない。
彼女は統治官へと向けていた視線を、宙へと放り投げた。
そんなクルミの気持ちを知ってか知らずか、彼は何気なく続きを口にする。
「うん?だって、君たちは恋人同士なんじゃないのかい?」
「こ・・・っ?」
「違うの?・・・少なくとも、お互い好き合ってるんだと思っていたけど?
好きなコを守ってあげたい、傍にいたい・・・まったく、初々しいじゃないか」
彼女は、統治官の言葉に息を飲んで絶句していた。
もう、長いこと呼吸をしていないような気がする。
だからなのか、心臓が煩く波打ち、耳の辺りから火が出ているのかと思うくらいに顔が熱い。
そんな変化に翻弄されて、クルミは何も考えることが出来ないまま、ただじっとしていた。
体の中を嵐のように駆け巡る感情を、どうやり過ごせばいいのかが、分からなかった。
するすると流れるように喋り終えた統治官は、ちらりとクルミを一瞥した。
真っ赤になって、じっと何かに耐えているらしい彼女を眺めて、目を細める。
そして、微動だにしない彼女に向かって、そっと言葉を紡ぐ。
「そうやって、赤くなったり青くなったり・・・本当に面白い子だよね、」
統治官の視線が、鋭利な刃物のような鋭さを含んだ。
「チトセちゃん、って」
「・・・っ?!」
目を瞠ったクルミが、飛び退いた。
たたらを踏みながら、統治官と距離を取る。
膝が笑い、両手で口元を押さえた。
「ど、」
「あ、やっぱり」
どうして、と言おうとした彼女を遮って、統治官がにっこり微笑む。
その笑みの不気味さに、クルミは数歩、後ろへ退いた。
けれど、彼の声は彼女を放すまいと追ってくる。
「クルミ・チトセ。
クルミ博士夫妻の、ひとり娘。
オルタルを投与されてなお、ヒトの形を保つことが出来た、たったひとりの人間」
ソファに腰掛けたまま足を組んだ統治官が、悠然と微笑む。
絡みつくような声に、クルミは身動きが取れないまま、彼を見つめた。
本当は、視界に入れていたくもないけれど、目を離したら彼の気味悪い何かに囚われてしまうような、そんな気がして。
「やっぱり存在してたんだね。
遺されてた資料、処分しなくて正解だったな」
半ば独り言のように呟いて、統治官が小首を傾げる。
クルミは、そんな仕草にすら肩をそびやかして息を飲んでしまう。
「・・・驚いた?
でもね、チトセちゃん」
音もなく、ゆっくりと彼が立ち上がり、立ち竦む彼女へと向き直る。
そして、一歩踏み出した。
「や・・・やだ・・・っ」
何を拒否しているのかも自分で分からないまま、クルミは後ずさった。
怖い。
近づかないで欲しい。
けれど、踵を返して背後に統治官の気配を感じるのは、もっと怖かった。
「全てを知っているのが当事者だけとは、限らないんだよ」
「・・・っ」
声だけは穏やかなままの統治官が、彼女の目の前に立つ。
「いい機会だから、教えてあげようか。
・・・君の知らない、彼らのこと」
「あ・・・っ!」
大型のスクリーンを見つめ、クルミは絶句した。
そんな彼女を見て、統治官は口を開く。
「君の両親。クルミ博士夫妻だね。
彼らは世界大戦のあと、ナラズモノから人の住む集落を守るために、護り木を作った。
ナラズモノを造り出したのは彼らなんだから、それくらいのことはお手の物だっただろうねぇ」
画面には、穏やかそうな顔つきをした、壮年の男女が映しだされている。
「・・・お父さん・・・お母さん・・・」
ぽつりと呟いたクルミは、画面に吸い寄せられるように手を伸ばした。
けれどその手が、画面の中で微笑む彼らに、届くことはない。
老いて皺を刻んだ目元を見つめて、彼女は呟いた。
「老けちゃった、ね・・・」