8-1
明るくなったリビングのカーテンを開け、窓から風を入れる。
クルミは鼻唄混じりで、家の中をひと回りして戻ってくると、ソファで唸りながら寝返りを打っているカイの傍へ寄る。
「起きてー、カイさーん」
ゆっさゆっさと彼の肩を揺すったクルミは、テレビをつけてニュースを流す。
ちょうど天気図の解説が始めるところで、彼女はカイの横に腰掛けてその画面を眺めた。
「・・・今日も暑いのかぁ・・・。
あっ、そういえば昨日、かき氷食べるの忘れてた・・・!」
しまった、と独り言を呟いたクルミの背後で、カイがもぞもぞと動く。
「なら、アイスでも食べるか?」
明らかに寝起きの目と声で、ぼそりと囁かれて、クルミが飛び上がった。
肩をびくりと震わせて、振り返る。
「び、っくりした・・・起きてたんだ、カイさん」
横になったまま腕をついて上半身を起こした彼は、むすっとした表情を向ける。
「そりゃ起きるだろ、クルミが・・・」
「わたしが?」
半目になってぼそぼそと口を動かしていたカイが言葉を切って、クルミが小首を傾げる。
何かしたか、と考えを巡らせた彼女は、唐突に腕を引かれて倒れ込む。
「ひぁっ?!」
べしゃん。
なんとも痛そうな音と共に、クルミが倒れた先は、カイの腕の中だった。
「っ、痛ぅ・・・」
「わたしも痛い・・・」
くぐもった声で腕の中から主張した彼女の頭を、カイがぽふぽふと叩く。
心情的には、よしよし、である。
何が伝わったのかはさておき、クルミがおとなしくなったのを感じ取って、カイは目を閉じた。
腕の中から漂う、甘い匂いを吸い込んで口を開く。
「目の前に座ってたら、さ。目も覚めるよな。
・・・おはよ、クルミ」
「ん、おはよう、カイさん」
「・・・このまま、二度寝も悪くないよなぁ・・・」
抱き枕代わりの温もりに息をついて、呟く。
エアコンを強めにつけて、一緒にまどろんでいられたら・・・と、天井を見つめたカイは、内心でため息混じりに零す。
するとクルミがもがいて、カイの腕から抜けだそうとした。
「カ、イ、さんっ!」
ぐいぐい、と腕を突き出してもがくクルミに噴き出したカイは、笑い声を上げて起き上がった。
朝の光で明るくなったリビングに、2人の声が響く。
「失礼します」
「・・・シツレイします」
ぱたん、とドアの閉まる音と同時に、クルミが詰めていた息を吐き出した。
廊下にため息が響く。
「ま、これからは慎重に・・・ってことだ。
少佐も、クルミのことが心配なんだよ」
こってり絞られて落ち込んでいる彼女の背を擦り、カイが囁いた。
かくかく頭を上下させて、クルミが頷く。
どうやら相当に少佐が怖かったらしい、と受け取ったカイは、彼女の背を押してゆっくりと歩き出した。
2人の足が、同じ速さで前へと出される。
少しの間無言で歩いていると、ふいにカイが口を開いた。
「・・・今日は、」
沈んだ気分のまま、クルミは彼を見上げる。
若干目を潤ませている彼女に苦笑を浮かべ、彼は続きを口にした。
「そっち行くよ」
「・・・ほ、ほんと・・・?」
昨夜の記憶に自信が持てなかったクルミは、その言葉に思わずカイの服の裾を掴む。
すると彼は、縋るような目を向けてくる彼女の頭を撫で、頷いた。
「本当。
・・・たぶん、6時を過ぎるくらいになると思う」
「うん、うんうんうんっ」
嬉しさに、足取りが軽くなる。
クルミは勢いよく何度も頷いて、笑みを浮かべた。
頭の中ではすでに、部屋の掃除をして・・・と、カイを迎える準備が始まっている。
鼻唄混じりになった彼女の姿に、彼は頬を緩めて仕事の段取りを考えた。
階段に差し掛かり、どちらからともなく足を止める。
ここから先、カイは下にある部隊室へ。
クルミは、上にある少佐の個室へと向かうのだ。
掴んでいた服の裾を、きゅっ、と握りしめたクルミは、ゆっくりと息を吸い込んだ。
・・・大丈夫、また会えるんだから。
離れがたい気持ちを自覚した彼女は、子どもみたいなこと言ってちゃダメだ、と頭の隅で自分に言い聞かせる。
「・・・わたし。
勉強、頑張るね」
「うん」
カイの手が、服の裾を掴んで離さない彼女の手を包む。
触れた瞬間に、わずかに強張った手を服から剥がした彼は、ひと回り大きな手で絡め取る。
そして、口を開く前に、ぎゅ、と絡めた手に力をこめた。
「・・・今度は、ちゃんと会いに行くよ。待ってて」
ゆらゆらと揺れる薄紫の瞳を覗き込んだカイが言うと、彼女はこくりと頷いた。
その様子を見届けて、彼が手を離そうとした時だ。
「・・・あ」
「え?」「あっ」
それぞれの声が、重なった。
「スバル!
昨日は、ごめんなさい!」
一番最初に我に返ったのはクルミだった。
彼女は頭を下げ、呆然としている彼に向かって謝る。
「いや、ええと・・・うん、大丈夫・・・」
勢いよく頭を下げたクルミに、スバルは違和感を感じて瞬きをした。
口が勝手に“大丈夫”と紡いでいたのは、ひとえに母親の女性至上主義教育の賜物である。
内心首を捻っていた彼は、違和感の正体に気づいて息を飲んだ。
・・・クルミが、カイと手を繋いでいるのだ。しかも指を絡めて。
これは情からくる行為ではないはずだ、と結論付けたスバルは、そっと視線を上げた。
すると、いくらか険しい目つきをしているカイと、視線が合う。
「・・・お、おはようございます」
何故自分が睨まれているのか、という疑問はなかったことにして、いつもの挨拶を紡いだスバルに、カイが頷く。
「ああ、おはよう。
・・・少佐のところか?」
「ええ。
昨日保護した女性の件を花火大会の記録に載せるそうなので、報告書を・・・」
「そうか」
仕事の顔なのか、それとも別の顔なのか。
不機嫌さを含んだ声色に晒されて、スバルは背中が冷たくなる。
花火大会の雰囲気に流されて、クルミにちょっかいを出してしまったことは記憶に新しい。
未遂とはいえ、まさか上司に知られているのかと、心臓が鈍い音を立てて跳ねた。
そんな中、2人が硬い空気を漂わせていることには気づかないクルミは、口を開いた。
「カイさん、わたし行くね。
お仕事の話みたいだし・・・」
くい、とカイの手を引いて意識を自分に向けさせた彼女は、スバルを一瞥した。
「スバルも。また今度、勉強お願いします」
「あ、うん」
ぺこりと頭を下げられ、思わず頷いたスバルに、カイが一瞥をくれる。
何か言われるのかと思ったスバルは、思わず息を詰めて動きを止めた。
けれどカイの視線は、再びクルミに注がれる。
「あんまり根詰めるなよ」
「うん、そうするー。
カイさんも無理、しないでね」
穏やかな口調に、彼女が頬を緩めた。
するとカイは、繋がったままの手が離れる前に、クルミを引き寄せる。
「っ、と・・・」
たたらを踏んだ彼女を受け止めたカイの顔が、彼女に近づく。
スバルが、気を飲んで目を見開いた。
「・・・、カイさん?」
引き寄せられ、ふいに柔らかいものが額に触れた感触。
そして、それが音を立て、次の瞬間には離れていったことに、小首を傾げる。
自分を引き寄せた張本人の顔を見上げても、そこには曖昧な微笑みがあるだけだった。
困ったように微笑まれたクルミは、ややあってから、それがカイの唇であったことに気が付いた。
驚いて、目を大きく見開く。
するとカイは、そんな彼女に目元を和らげて囁いた。
「また、あとでな」
・・・ど、どどどどどうしよう?!
階段を上りながら、動悸のする胸を押さえる。
顔が熱く、動揺している自分が恥ずかしい。
・・・だ、だだ、だって、アレってアレって・・・!
脳裏に翻った光景に、鼓動がひときわ跳ねる。
彼女の記憶の中では、額にキスをする場面など、ひとつしかなかったのだ。
・・・お父さんが、お母さんに朝の挨拶で!
・・・お母さん、恥ずかしそうにしてたし・・・っ。
それは、子どもの頃から見てきた光景だった。
朝起きたクルミがリビングに行くと、同じように起きてきたばかりの父親が、朝食の支度をする忙しい母親をその腕の中に捕まえて、額や頬にキスを降らせていて。
母親は照れながらも嬉しそうに、はにかんでいた。
それは、クルミにとって幸せな家庭の象徴でもあった。
いつかは自分も、と夢見たこともある。
・・・だ、だからその・・・ど、どうしよう!
・・・仕事が終わったら、来るって、来るって・・・!
両親の触れ合いの場面を思い出し、カイが自分にしたことの意味を漠然と理解したクルミは、足早に階段を上っていく。
昨夜、カイと散々べったり触れ合い、1ミリたりとも動揺しなかったことなど、思い出しもせず。
そうして思考が堂々巡りをする間にも、足は勝手に動き、クルミは目的のフロアへと辿りついた。
「・・・はぁぁ・・・」
ため息を零して、顔を上げる。
そして、絶句。
「待ってたよ」
彼女を待ち受けていたのは、人の良い笑顔を貼りつかせた、ツヴァルグ統治官だった。
階段の手すりを掴む手が、カチカチと音を立てる。
料理をする必要がなくなったクルミの伸ばし始めた爪が、金属にぶつかる音だ。
統治官は、一歩も動けなくなった彼女に向かって、何かをちらつかせる。
「・・・君に、見て欲しいものがあるんだけど」
小首を傾げ、にっこり微笑む。
クルミは、役所ホールで統治官に初めて声をかけられた時に、大佐が“ナンパなら街で”と言い放ったのを思い出していた。
なるほど、この笑みに騙されるのか・・・と。
恐怖と不安、それから、どうしようもない嫌悪感。
堪らず踵を返して逃げ出そうと、クルミのつま先が動く。
それを見た瞬間。
「逃げるなら、」
鋭い声が飛んだ。
「傷つけるよ」
そのひと言に、彼女の足が固まる。
薄紫の瞳が、恐怖に大きく見開かれたのを見届けた統治官は、そっと口角を上げた。
「ああ、大丈夫・・・君じゃなくて、そうだね・・・誰がいいかな・・・」
噛んで含み、もったいぶった口調で告げられた言葉に、クルミは戦慄する。
鳥肌が立ち、吐き気に似た何かが喉元にせり上がった。
息が苦しくて眩暈がする。
鈍器で頭を殴られたような衝撃に、一瞬自分は銃で撃たれたのかと錯覚するほど。
そして、彼女はうわ言にも聞こえる言葉を絞り出していた。
『やっ、いやぁっ』
「おい、何だって?」
『放してよ、やだっ・・・やだぁぁっ!』
再生された動画の中、少女が身を捩りながら叫ぶ。
遠目からズームになり、画面の中の少女の顔がくっきりと映し出される。
訝しげに首を捻った男達には、少女が何を言っているのかが分からないようだ。
「錯乱してんだろ、きっと」
『いやだっ、カイさんっ・・・!』
「誰か呼んでるんじゃね?」
「あー、面倒くさいな。さくっとヤっとくかー?」
羽交い締めにされた少女が、大きく首を振りながら逃れようともがく。
男達の手が、きらりと反射した。
刃物を持っているようだ。
『助けて!・・・誰かっ!』
「うるせーよ!」
少女が横っ面を叩かれ、静かになる。
男達が笑いながら、少女の服を切り刻んでいく。
そのたびに、少女の口からは悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れた。
そして男達が、最早布切れになりつつある少女の服を引きちぎろうとした、その時だ。
『あ・・・や、だめ、やめて、お願い、だめ、だめっ』
再び首を振って拒絶した少女の足元に、何かが出現した。
「あ?」
「さむっ、何だコレ?!」
男達が戸惑い、動きを止める。
解放された少女が、その場に崩れ落ちる。
『にっ・・・逃げて、早く、お願い、や、だめ、逃げ・・・っ』
必死の形相を浮かべる少女と、その足元から伸びてきたものを交互に見て腰を抜かした男達。
誰に向かって言っているのか分からない少女の言葉など、男達の耳には入らないようだ。
何よりも、彼女が何を言っているのかなど、誰にも分からない。
『やめて、ダメ!殺さないで!
・・・逃げて、お願いだから逃げ、』
男達はあとずさり、そこへ、それは覆い被さるように絡まりながら伸びる。
『あ・・・あぁぁぁぁ・・・っ』
悲鳴と嘆きが混じり合った声。
そして氷の蔦が消える。
けれど男達は、倒れたまま動く気配もない・・・。
再生の終わった画面が、真っ黒に塗り潰される。
「・・・何か、言いたいことはあるかな」
脂汗を浮かべ、クルミは震えていた。
足も手も、頭の芯までが恐怖に侵されていた。
何も考えられず、何も言えない。
立っているのがやっとの彼女に、統治官はカメラをスーツのポケットにしまいこみながら、ほくそ笑んだ。
「あれは君だね、クルミ。
乱暴されそうになって、どうしたかは知らないけれど、彼らを、」
「やめてぇぇぇっ」
弾かれたように、彼女が声を上げた。
そして、すぐに悲鳴が啜り泣く声に変わる。
顔を覆って泣き崩れた少女に、統治官は甘い声で囁いた。
「あんなことした後に、カイ君の家にお泊りなんてしちゃって・・・。
クルミは、本当に彼のことが好きなんだね」
耳元で囁かれ、クルミの肩が大きく震える。
思わず耳を塞ごうとした手は、綺麗な顔とは無縁そうな力強さで掴まれた。
「協力、して欲しいことがあるんだ。
君にしか頼めないんだけど・・・引き受けてくれるよね、クルミ?」