7-4
花火大会のために照明の落とされた街を走り、車は路地へ滑りこむ。
カイは無意識にため息をつきながら車を停め、ステレオの音量を下げてサイドブレーキを引いた。
バタン
車のドアを閉める重い音が空気を揺らし、温い風が腕に纏わりつく。
ロックを確認して歩き出した彼の靴音が、静まり返った住宅街に響いている。
そして、駐車スペースから玄関へ続く短い通路を抜けたカイは、自分の目を疑った。
玄関の前に、少女が蹲っていたのである。
「クルミ・・・?!」
駆け寄ったカイは膝をついて、顔を伏せて小さくなっている少女の肩に手をかけた。
そしてそのまま、そっと揺する。
「おい、クルミ?!」
反応のない少女に不安になったカイは、もう一度その細い肩を揺すろうとして、顔を強張らせた。
「なんだよ、これ・・・」
己の手が触れているものが、クルミのむき出しになった肩だったことに気づいて、カイは頭が真っ白になってしまったのだ。
驚愕と困惑に、言葉を詰まらせていると、ふいにクルミがのろのろと顔を上げる。
綺麗に整えられていたはずの髪は乱れ、その目は虚ろにカイを見上げて。
混乱している彼が、自分を見上げる瞳を心配そうに覗き込んだ瞬間。
彼女は我に返り、嗚咽を漏らし始めた。
「・・・ぅ・・・ふ、ぇ・・・っ」
表情のなかった顔が歪み、目から涙が溢れる。
「か・・・っ、カイ、さ・・・っ」
ひくひくと喉を痙攣させながらも、クルミは弾かれたようにカイの胸に飛び込む。
その瞬間に、咽返りそうな香水の匂いが鼻をついて、彼は思わず顔をしかめた。
けれど飛び込んできたクルミをそのままにしておくわけにもいかず、カイはその背中に腕を回して抱き留める。
その瞬間、指先がするりと柔らかいものを撫でた感触に、彼は目を瞠る。
背中も、素肌が晒された状態であることに気がついたのだ。
カイは少し手を上下に動かして、布の部分を探す。
背中を撫で、泣き続ける彼女を宥めるようにしながらも、彼は手探りでクルミが傷つけられていないかを確認する。
そして彼は、どうやら彼女は、服だけを切り裂かれたのだと思い至った。
その時だ。
考えたくもない光景が脳裏をよぎり、息を詰める。
だとすれば、このきつい香水はその何者かの残り香なのか、と想像して、どす黒い怒りが腹の奥をぐるぐると渦を巻いてゆくのを感じていた。
今すぐに何があったのかを問いただしたいのを堪えたカイは、泣きじゃくるクルミを宥めようと声をかける。
「大丈夫だ・・・もう大丈夫・・・」
囁く声に安堵したクルミは、嗚咽を漏らしながら泣き続けた。
家の中に入り照明をつけると、その惨状がくっきりと映し出される。
「・・・酷いな・・・」
カイが思わず零した台詞に、クルミは肩を震わせた。
玄関から一歩も動けなくなった彼女を抱き上げて、奥へと連れて行く。
道すがら、2人分の体重がかかった床が、ぎしぎしと軋む。
ここ数日ろくに掃除もしない生活を続けて、床には綿埃が転がるようになっていた。
目に映るものを虚ろな目で見つめているクルミをバスルームで下ろして、カイは噛んで含むように、言葉を紡ぐ。
「クルミ・・・?」
自分が呼ばれたことに、クルミは肩を揺らす。
そして、顔を上げた彼女の肩に、バスタオルをかけてやったカイは、そっと尋ねた。
「ごめん。
訊かなきゃと思うから、訊くよ。
・・・何があって、こんなふうに・・・?」
真っ白なタオルで包まれた肩を掴まれて、クルミがびくりと震える。
小刻みに揺れる薄紫の瞳が、必死さの滲むカイの瞳を見つめる。
「・・・あ、の・・・」
バスタオルの端を掴んで握った彼女は、目じりに涙を浮かべて口を開いた。
「うん」
カイが、先を促すように相槌を打つ。
するとクルミは、震える息を吐きだしてから、言葉を紡ぎ始めた。
「く、くち、押さえられ、て。
あ、あば、暴れ、たら、ビンタ、されて」
言葉が口から零れるほどに、彼女の膝が笑う。
小さな振動だったそれは、最後には彼女の体重を支えられなくなって、がくがくと崩れた。
膝が床に着く寸前で、カイはクルミの体を抱き留める。
そのまま思い切り抱きしめて、彼女の、解けた髪がばらばらと流れ落ちる首元に、鼻先を埋めた。
きつい香水の匂いは、いまだにそこに残っている。
カイは、クルミの震えを止めようと腕に力をこめ、頭の隅で、嫌なこの匂いを塗り替えてやりたい、と乱暴なことを考えていた。
「カイ、さん・・・くる、し・・・」
そんな彼の胸の内など露知らず、彼女も腕を回して彼の背にしがみつく。
背中を叩かれたカイは、頭の中を埋め尽くしていた想像を飲みこんで口を開いた。
「それだけで済んだのか・・・?」
声を落としたカイは、次の言葉を口にしようと呼吸を整える。
そして、考えたくもないけど・・・と、心の中で苦々しく呟いてから、彼は言った。
「もしかして無理やり・・・?」
想像するだけで怒り狂ってしまいそうな自分を抑えて、カイは状況を把握しようと必死だった。
花火大会の警備に動員されるか、本部で細々とした仕事をこなすか。
その二者択一を迫られた時、彼は迷わず本部待機を選んだ。
理由は簡単で、街中で“スバルと楽しそうにしているクルミ”を見たくなかったからだ。
けれど今は、それが功を奏したと言ってもいいと、カイは思っている。
現場警備をしていれば、クルミを玄関の前に長いこと放置することになっていただろう。
おそらく帰りは、深夜になっていたはずだから。
それにしても一緒にいたはずのスバルはどうなったのか・・・と考えながらも、カイはクルミの状態を正しく把握することにした。
服を酷く切り裂かれ、殴られたのだという頬は、赤くなっている。
身に纏う布地の状態からして、強姦紛いの犯罪に巻き込まれた可能性がまだ否定出来ない。
クルミの口から飛び出す言葉如何によっては、今すぐに病院へ連れて行く必要だってある。
思い出させたくない、と聞き出すことをしなければ、あとになって取り返しのつかない傷を負うのは彼女なのだ。
何よりもまず、何があったのかを知らなくては。
カイは、静かに彼女の言葉を待つ。
クルミが、カイの問いかけに首を振る。
いかに鈍感で世間知らずな彼女でも、彼の言葉が何を指しているのかは、理解しているのだ。
彼女が胸の辺りに、頭を擦りつけるようにして否定したのを見て、カイはほっと息を吐きだした。
「そっか・・・良かった・・・」
不幸中の幸いだ、とばかりに胸を撫で下ろした彼は、そっと腕の力を緩める。
そして、腕の中でじっとしているクルミの顔に手を伸ばし、顔を上げさせた。
わずかに顔をしかめた彼女に、カイが囁く。
「痛い・・・?」
「・・・ひりひりする・・・」
「どのあたり?」
顔の隅々にまで視線を走らせた彼に、クルミが指を指す。
「ここ・・・」
「ん・・・あとで冷やそうな」
ぎし、と床の軋む音にカイが振り返ると、そこにはシャワーを浴びて、裂かれた服の代わりにカイのTシャツを着たクルミが立っていた。
なんとなく入りづらそうに視線を彷徨わせている彼女に、カイは声をかけた。
「・・・落ち着いた?」
クルミがこくりと頷く。
カイは、頷いてもなお立ち尽くしている彼女を手招きした。
「おいで」
その表情が和らいでいることに気づいたクルミは、キッチンに立つカイのもとへと走り寄ってくる。
そして、その勢いのまま彼に抱きついた。
「ちょ、おい・・・っ」
彼女の頬を冷やすために、保冷材を用意していたカイは、横からやってきた衝撃に上体が傾ぐのを感じつつ、思わず笑みを零す。
経緯はよろしくないし、事情もこれから聞く必要があるけれど、クルミがそばにいるのはやはり心地良いものだと、頭の隅で思う。
半乾きの髪から立ち昇る甘い香りを吸い込んで、カイは彼女の頭を撫でた。
「スバルにも、少佐にも連絡しておいたよ」
「・・・あ・・・」
カイの言葉に、クルミは思わず声を漏らした。
・・・すっかり忘れてた・・・!
・・・ああそういえば、あの女の人は大丈夫だったの・・・?!
自分を探しているだろうスバルのことも、悲鳴を上げていた女性のことも、すっかり頭から抜け落ちてしまっていた。
クルミはひりひりと熱を持つ頬から、血の気が引いていくのを感じて目を見開く。
隣に座って唖然としている彼女に苦笑を向けて、カイは言葉を続けた。
「スバルは、悪酔いした男に絡まれていた女性を保護したらしい。
・・・その人を女性の警備担当に頼んで、さっきまでクルミを探してたってさ」
「・・・謝ります、あとで・・・」
小さく、早口で申し訳なさそうに呟いたクルミに、彼が頷く。
「それから少佐は・・・うん、まあ、あとで一緒に怒られようか」
「う」
気が重そうに囁いたのを聞いた彼女は、声を詰まらせて俯いた。
「ごめんなさい・・・」
自分が愚かで無鉄砲なせいで、スバルにもカイにも迷惑をかけているのだと身に沁みているクルミは、ただひと言紡いだきり、口を閉ざしてしまう。
突然のことに動転していたけれど、果たして自分はここへ来てしまって良かったのだろうかと、ただそれだけを考えて。
「うん、実は俺も怒ってる」
淡々と突き付けられた言葉に、クルミは息を飲んだ。
そして、がばりと顔を上げてカイを見つめる。
2人がこのソファに並んで座るのは久しぶりのことで、こうしてお互い顔を見合わせていると、時間が巻戻されたのかと錯覚してしまう。
分かっているのだ、それを望んでいる自分がいることに。
零れんばかりに目を見開いているクルミをじっと見つめて、彼は内心自嘲して口を開いた。
「・・・自分の立場を理解出来てない。
エアコンをつけっ放しで体を冷やして寝てる。
短いスカートは何回注意しても止めない。
今回はスバルから離れたら、案の定これだ・・・。
・・・ほんと、もう、いろいろ頭にきてる」
「・・・ご、」
「でも、」
その真剣な瞳に気圧されて、クルミが咄嗟に言いかけたのと、ほとんど同時だった。
カイが、言い放つ。
「一番、こんな自分に腹が立ってる。
どうして一緒に居なかったんだろうって、そればっかりだ」
クルミは瞬きもせず、真っすぐに自分を射抜く視線を受け止めていた。
自分に腹が立つ、と言い切るカイの心の内を、ひとつでも多く拾おうと意識を緊張させて。
「カイさん・・・?」
見つめ合うだけで何も言わない彼に、クルミは思い切って声をかける。
するとカイは、目元を和らげて口を開いた。
「・・・さん付け」
「あ、え・・・と・・・」
何度も小言のように言われたことを思い出して、口ごもる。
そんな彼女を見て頬を緩め、手を伸ばしたカイが言った。
「うん、いいや。
それはもうちょっと、俺が頑張ることにする」
「う、うん・・・?」
半乾きの髪を掬って、その指に絡めた彼の仕草に戸惑いながら、クルミが小首を傾げる。
「クルミ」
「ん?」
「おいで」
「え?」
クルミがカイの言葉に首を捻ると、彼は自分の膝をぱしぱし叩いてみせた。
「ここ。
・・・ほら、おいで」
「えええ?」
その意味を理解した彼女は、頬を赤く染めて顔をしかめる。
「だから、子どもじゃないんだってば!」
「・・・恥ずかしがる方向が違うんだよなぁ・・・」
くすくす笑いながら、カイは渋るクルミを強引に自分の膝に座らせた。
向かい合うようにしてカイの膝に着地したクルミは、不可抗力にしばらくジタバタと抵抗していたけれど、やがて無駄だと観念したのか静かになった。
そして、カイが口を開く。
「これくらいしないと、意識改革は難しそうだよな」
「なにそれ?」
子どもが父親の膝の上であやされているようだ、と胸の内で自分の格好を表現したクルミは、短く問い返す。
カイはその問いには答えずに、彼女の頭を撫でた。
「それはまた今度な。
・・・とりあえず、落ち着いたみたいで良かった」
はぐらかされたのを分かっていながらも、彼女はふた言目を聞いて黙り込む。
ずっと自分のことを心配してくれていたのだと思うと、ぞんざいな態度も取れない。
心配ばかりされて、まるで本当に子どものようだと気まずい思いで、クルミは視線を彷徨わせた。
すると、そんな彼女の様子にカイは頃合いかと、話を切り出す。
「それでクルミを襲ったのは、どんな奴らだった?」
余計な言葉のない質問。
クルミは自分が可笑しな格好で、カイの膝の上にいることも忘れて、息を詰めた。
そして、脳裏に翻る光景に震えないようにと手を握りしめて、言葉を紡ぐ。
「・・・カイさんよりも、年上だと思う・・・。
2人、いて・・・わたし、後ろから口を塞がれて、それで、引き摺られて」
思い出してしまうのは、襲われた恐怖ではない。
それが分かるから、クルミは慎重に言葉を選んだ。
カイが、彼女の手を握る。
「どこに連れてかれたのかは、よく分からない。
手が離れたから、暴れて、叫んだら、ビンタされて・・・。
それで、ナイフで服、切られて・・・それで・・・」
「もういいよ。
何をされたのかは、明日でも大丈夫だから・・・」
熱に浮かされたように記憶を吐きだすクルミの背を、あやすようにカイが撫でる。
それに頷いた彼女に、彼は別の質問を投げかけた。
「その2人組は結局、何も盗らず、無理やり、その、そういうことはせず・・・?」
最後は曖昧な言葉選びになったけれど、それでもカイの意味したいことが分かるクルミは、静かに頷いた。
「うん、それは本当に良かった・・・けど、」
きちんと確認して胸を撫で下ろした彼は、ふと気づく。
「誰かが助けてくれたのか?
それとも、クルミが自力で逃げ出したの?」
「・・・それは・・・」
口を噤んだクルミは、暴れる鼓動の音がカイに聞こえていないか、気が気でならなかった。
核心をつく質問に、背中を冷たいものが流れる。
2人組の男に襲われた時も確かに恐怖を感じたけれど、そんなものは過ぎてみれば大したことはなかったのだ。
どう説明するべきかとクルミが迷っていると、テレビの電源すら入っていないリビングに、インターホンが響いた。
「・・・こんな時間に誰だ・・・?」
唐突な訪問に、カイは眉根を寄せた。
訪問者がツヴァルグと名乗ったのをインターホン越しに聞いたクルミは、体を強張らせる。
ちらりと視線を送れば、応対しているカイが、そっと首を横に振った。
そして、彼が唇に人差し指を当てているのを見て、彼女は頷きを返す。
「この時間に、一体何のご用でしょうか」
感情も何もこもらない言葉に、統治官は小さく笑ったのが聞こえてくる。
『申し訳ないね。
一刻を争う事態が発生したもので、一応耳に入れておこうかと思って』
「・・・一刻を、争う・・・?」
尋常ではない発言に、カイは自分の耳を疑った。
呆然と言葉を反芻した彼の声を聞いて、ドアの外に佇んでいるであろう統治官は、くすくす笑いを漏らす。
クルミはそんな統治官に、不快感を隠さず顔をしかめた。
「もしそうだとしても、こんな時間にわざわざ出向いていただかなくても・・・」
受話器に向かって舌を出していた彼女の頭をひと撫でしたカイは、統治官の言葉をそれなりに受け止めて、その目を細め、苦笑を浮かべる。
すると、統治官は声を少し落として囁いた。
『カイ君、君のためなんかじゃないよ』
その声には、どこか嘲りのような色が含まれている。
そして、彼は小さく笑ってから言った。
『クルミ、そこにいるんだろう?
・・・私は彼女のために来たんだよ・・・花火を見た帰りに、道草をしようと思ってね』
「え・・・?」
思わぬ告白に、カイが言葉を失う。
その一瞬を狙ったかのように、統治官はクルミに呼びかけた。
『そこにいるんだよね、クルミ』
思わず声を上げそうになるのを堪えた彼女は、激しく暴れる心臓を宥めるために、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
その息遣いまでもが受話器から伝わってしまうのかと思うと、呼吸すらまともに出来ない。
カイは動揺しきっているクルミの肩を抱き、時折背中を撫でる。
「・・・クルミに、何の話でしょうか。
あとで伝えておきますから、この場でどうぞ」
硬い声で言葉を紡いだカイに、統治官が小さくため息をついた。
『本当は、顔を見て話したかったんだけどなぁ・・・仕方ないか』
彼は声のトーンを落として呟いたあと、じゃあ、と言葉をつづけた。
『それなら、伝えておいて』
その喋り出しに、クルミの方が震える。
カイの手がゆっくりと彼女の背や肩、腰を撫でた。
その温もりに緊張が少し解けるのを感じて、クルミは口角をわずかに上げて微笑む。
そしてわずかな時間を空けて、統治官が言葉の続きを紡いだ。
『路地で、男性の変死体が2体見つかった』
「・・・っ」
「な・・・っ?!」
クルミが声にならない声を上げ、カイが驚きのあまりに言葉を失う。
けれどそれは、驚愕の序の口だった。
統治官の声がねっとりと、絡みつくような雰囲気を放っていた。
『しかもその遺体、凍死したみたいなんだ』
「・・・っ!」
もったいぶった物言いに憮然と受話器を掴んでいるカイと、対照的に息を飲んで視線を彷徨わせるクルミ。
彼女はカイの服の裾を握りしめる。
『それを、クルミに伝えておこうと思って。
・・・女の子の一人歩きは危ないからね』
そう言って締めくくった統治官の声は、どこか楽しそうな色を含んでいた。