7-2
大佐の出て行った部屋から、だんだんと人の温もりが消えていくのを感じたクルミは、ソファの上で膝を抱えていた。
カイに触れられて感情が揺さぶられても、自分の中に潜むものが暴れ出さないのは何故なのかと考えを巡らせても、全く見当が付かなかった。
そのうちに、そんなことを考えることすら、悲しくなってきたのだ。
考えたところで、肝心のカイが自分に寄りつかないのだから、無意味だと。
すっかり捨てられた感を背負ってしまったクルミは、抱えていた膝から手を離して、ごろん、とソファに寝転がる。
行儀が悪いとか、何か掛けないと体が冷えるとか、そういうことを言う人間は今、傍にいない。
「・・・カイさんの、ばか・・・」
ぶつけるように呟いた彼女は、そっと目を閉じた。
瞼の裏に現れる彼の姿が何かに溶けて、おぼろげになる。
それすら、ささくれ立った感情に引っかかり、クルミはそっと目を開けた。
目に映るのは、夕方のニュースと大佐の残したペンネだ。
「射撃の腕には自信がある」と言い放って出て行った彼女が、そのうち戻ってくるのではないかと、期待に似た心づもりで置いてあるものだった。
けれど、もうこの時間になれば、それはない、ということくらいクルミにも分かる。
彼女はあれでも、大佐なのだ。
「もう、来なくてもいいもん」
ぽつりと零した言葉の虚しさに、クルミは逃げるようにして目を閉じた。
コンコンコンッ
コンコンコンッ
規則正しいリズムで繰り返されたノックは、返事がないことを訝しんだのか、二度目の響きに苛立ちを含んでいるようだった。
繰り返しの呼びかけにドアが開かないことに痺れを切らせたのか、その人物はドアノブに手をかける。
キィ・・・
躊躇いがちに開けられたドアから、小さな音が漏れる。
それに息を飲んだ彼は、部屋の中をそっと覗き見た。
「・・・クルミ・・・?」
小声で問いかけたカイは、きっと飛んで来て出迎えるであろうと思っていた少女が、いっこうに現れないことに首を捻る。
「不用心だな・・・」
鍵もチェーンもかけられていなかったことに呟くと、彼は一歩踏み出した。
頭の隅で、クルミが倒れているかも知れないし、と言い訳を囁いて。
「クルミ?
勝手に入らせてもら、」
ドアに鍵もチェーンもかけたカイは、さして広くはない個室のリビングを訪ねた。
きっとそこにいるであろうクルミを思い浮かべ、言葉を紡ぎかけて、彼は口を噤む。
ソファに投げ出された足、散らばる髪、少し寒そうに小さくなった肩。
カイはソファに横になった彼女を見て、小さくため息をつく。
そして、ベッドに畳んで置かれていたタオルケットを持ってきて、彼女に掛けてやる。
「・・・ったく・・・」
呆れ半分で肩から膝までを隠して、カイはエアコンの温度設定を1度上げた。
数日会わずにいただけだというのに、眠りこけている横顔が急に大人びたような気がしてしまう。
ぼさぼさ頭で保護した時とはえらい違いだと、カイは半ば騙されたような気持ちになった。
膝を折り、彼女の寝顔を覗きこむ。
まつ毛が時折震えるのは、彼女の眠りが浅いからなのか、それとも深い夢の底にいるからなのか。
目を開けて欲しいと思う気持ちと、そのまま眠っていて欲しいと思う気持ちが交互に入れ替わる。
くるくると落ち着かないそれは、彼の鼓動を速くした。
クルミの少しだけ日に焼けた首筋に、ひと筋の黒髪が流れ落ちている。
それを指先で払ってやると、わずかに彼女が身じろぎをした。
閉じた唇の隙間から漏れた吐息に、彼の指先が硬直する。
家に帰るたびに、静かなリビングのソファに横になり、目を閉じる。
そんな時に思い出すのは、共に食卓を囲んだこと。
それから、眠ってしまった彼女を抱きかかえたまま、ソファで眠ったことだった。
カイは自分の体が、クルミの作る料理を欲していることを自覚している。
けれどその他にも、自分の体が欲しているものがあることに気が付いていた。
だから、眠っている少女を見下ろす自分が、汚い人間のような気がしてならないのだ。
テレビを消し、カーテンを閉める。
そして彼女の睡眠を妨げないようにと、照明の強さを一段階下げた。
出来ればこのまま、目を覚まさないで欲しい。
そう思いながら、カイは手近にあったメモ用紙にペンを走らせる。
「・・・ごめんな」
囁いて、振り返る。
ソファの上で気持ちよさそうに寝息を立てるクルミは、カイの声に反応するようにまつ毛を震わせた。
一瞬息を詰めて、彼女が起きる気配がないことを確認した彼は、安堵の息を吐く。
もう少しだけ・・・と、すっかり寝入って筋肉が緩んでいるのか、わずかに開いた彼女の唇を見つめていた彼は、その手をそっと伸ばした。
彼女の小さな耳の後ろに長い黒髪をかけると、その頬が空気に晒される。
滑らかなそこを撫でた指で、首筋を辿っていく。
今クルミが起きたらどんな顔をするのだろう・・・そんなことが彼の脳裏をよぎる。
「ん、ん・・・ぅ・・・」
彼女が吐息を漏らし、それに反応してカイの指先がぴくりと震えた。
触れ過ぎたかと思うものの、クルミの目が覚めない気配に、彼は詰めた息を吐き出す。
そして肌に触れていた手で、彼女の黒髪をゆっくりと撫で始める。
・・・ほんと、どうしようもないな・・・。
自分の貪欲さに呆れながらも、カイはその手を止めることが出来ずにいた。
これでは、いよいよ噂が嘘で出来ているとも言えない。
それに気づいているのに、もう少しだけ、と自分を甘やかしてしまう。
薄紫の瞳が自分を映したら、この唇はどんな言葉を紡ぐのだろうかと期待してしまうのだ。
・・・でも、今は駄目だ。
彼女が目を覚ますまで触れていようかと揺らぎ始めた心に、自ら釘を刺す。
カイは名残惜しそうに、彼女の半開きの唇を指でなぞり、立ち上がった。
「風邪、引くなよ」
そっと閉められたドアの音が、クルミの意識を浮上させる。
寝入る時は肌寒かったはずなのに、どういうわけか、ほんのり温かい。
「ん~・・・う~・・・?」
だんだんとはっきりしてきた意識を、体と一緒に伸ばす。
爪先まで酸素がまわる気配に、彼女はそっと体を起こした。
「あれぇ・・・?」
肩から、タオルケットがずれ落ちる。
自分で掛けた記憶のない彼女は、ただ首を捻るばかりだ。
「・・・大佐かな?」
薄暗くなった部屋も、どうしてなのか分からない。
カーテンを閉めた記憶も、テレビを消した記憶もないのだ。
クルミは物騒なことを口走った彼女が戻って来たのかと思いつつも、テーブルに残された食事の形跡に、それを否定するしかない。
「・・・じゃ、ないか・・・。
じゃあ誰・・・?」
ぽつりと零して、照明を明るく設定する。
そしてタオルケットを畳もうと立ち上がった時、テーブルの上に置かれたメモに気が付いた。
ルームシューズを履くのも忘れ、裸足のまま廊下へ飛び出して、スカートの裾が大きく揺れる。
けれどそこには、誰の気配もない。
左右を見渡したクルミは、肩を落として呟いた。
「なんで・・・?」
落胆と、その中に少しの憤りが混じる。
彼女は手にしたメモに視線を落とし、小さく息を吐いた。
「カイさんのばか。ばかばかばか」
ソファに腰掛け、残されていたメモに向かって怒りをぶつける。
「なんで起こしてくれなかったの?
待ってたのに。
・・・待ってたんだからね、ばかやろーっ」
最後に思い切り罵り、彼女は息をつく。
全くもってすっきりしないけれど、とりあえずは一度カイがここへ来たのだと、肯定的に受け取って気を取り直す。
「・・・ま、いいや・・・」
呟きと共にメモを放り出して、彼女は立ち上がる。
大佐の残したものを片づけて勉強しよう、と気持ちを切り替えた。
テレビの音を小さくし、参考書を開く。
苦手な理科の説明ページにアンダーラインを引き、読みこむ。
どうしても分からないところは、スバルに聞くつもりで。
カイの残したメモは、約束を守れずにいることを申し訳なく、残念に思っていることを告げる文章から始まっていた。
続いて、花火大会関連の仕事が割り込んで忙しいこと。
だから、花火大会には連れて行けないこと。
その代わり、スバルに話をしてみるつもりでいること。
最後に、勉強を頑張っていることを大佐から聞いていること。
応援していることと、頑張りすぎていないか心配していること。
そして、花火大会では夜風で体を冷やさないため、肌をあまり出さない格好で行くこと・・・という趣旨の、心配にかこつけた注文。
ひとりぼっちの部屋、というものに、クルミは何の感慨も抱かない。
小さな頃から両親の帰りを1人で待っていた彼女は、この種類の孤独には慣れっこだ。
けれど、会いに来てくれると約束した人が一向に現れない、という孤独には正直なところ参ってしまっていた。
・・・今日は来るかも知れない。
・・・明日は来るかも知れない。
そう思いながら、コツコツと勉強するのは苦行だ。
今も、説明ページを読みながら、視界の隅にあるメモが気になって仕方がなかった。
そうしてここ数日、クルミの頭の中の半分は、カイのことで占められている。
「・・・ダメだ、シャワーシャワー。
シャワー浴びてさっぱりしよう」
参考書をそのままに、彼女は立ち上がった。
バスルームのドアを開けて、歯ブラシを手に取る。
爪先から頭の先まで綺麗にしなくては、もやもやと居座るものを追い出すことが出来そうになかった。
クルミは時折脳裏をよぎるカイの姿をかき消すように、何度か瞬きをして鏡の中の自分を、まじまじと見つめる。
すると、髪のひと房が三つ編みにされていることに気が付いた。
「ん?」
歯ブラシを戻し、指先で毛先を摘まむ。
「なんじゃこりゃ」
小首を傾げ、三つ編みの部分を凝視したクルミは、思わず呟いた。
自分で編んだ記憶はない。
大佐が髪に触れた記憶もない。
「・・・カイさんがやったの?」
訝しげに眉根を寄せた彼女は、摘まんだ三つ編みの部分をさっと解いた。
きつく編まれたわけではないのに、その部分だけがうねりを持って広がる。
そして、クルミは息を飲んだ。
「み、見られちゃったんだ・・・寝顔・・・!」
洗面台の一点を見つめた彼女は、頬を押さえて小さな悲鳴を上げた。
涎が出ていた形跡はなかったけれど、いびきを掻いたりはしていなかっただろうか。
不安になって、顔に熱が集まってきてしまう。
せっかくカイが来てくれても自分の姿にがっかりして、余計に足が遠のくのではないか。
クルミは内心焦った。
そんな彼女が、カイの付けていった痕の意味を知るのは、もう少し先のことである。