7-1
「・・・あ」
ぼんやりテレビを見ていたクルミは、いつだったかスバルが花火大会について話していたことを思い出した。
昨年の様子が画面に映し出されて、今年も多くの人出が見込まれていることを告げる。
「きれい・・・」
本物を見たい、と思ったものの、実現しないような気がして俯く。
栞が挟まった参考書が、テーブルの片隅に追いやられているのが目に入って、ため息をついた。
「カイさん、勉強の進み具合によるって言ってたけど・・・」
画面の中の花火が、ちりちりちり、と夜の空に散る。
顔を上げたクルミの目に、花火大会の日程が映った。
正午のニュースが終わる頃、個室のドアがノックされた。
クルミは弾かれたように立ち上がり、ドアに駆け寄る。
そして、覗き穴からやって来た人物を確認して、肩を落とした。
「・・・こんにちは~・・・」
明らかに落胆した声で挨拶をしたクルミに、昼食を手にしたダリア大佐が苦笑を浮かべる。
「すみませんね、ご期待に添えなかったようで。
お昼ごはん、お持ちしましたよ~」
カイの口から別居宣言が飛び出して数日、クルミはレイン内にある少佐の個室に寝泊まりしていた。
ないのはキッチンだけで、生活するのに不便はない。
少佐がこの部屋で休むこともないので、ひとり暮らしのようなものだ。
その少佐は、部屋の説明をするために一度だけこの個室を訪れた。
けれど、それだけだ。
ダリア大佐はこうして昼時や、夕暮れ時にここへやって来る。
カイに至っては全く寄りつかず、当初の台詞は嘘だったのかと、クルミは思い始めていた。
「あら、このメモ・・・?」
招き入れられた大佐が、テーブルの上に放り出されたままのメモ用紙を見つけて手に取る。
棚からグラスを取り出していたクルミは、その存在を思い出して慌てた。
けれど、振り返った時にはもう遅い。
「そっ、それはっ・・・!」
「ああ、花火大会の日程ですね~。
今年は、今度の日曜日になったんですか・・・」
他意のない物言いに、クルミはばくばくと暴れる心臓を宥めるつもりで深く呼吸をする。
2人分のグラスをテーブルに出して勉強道具を片づけ始めた彼女に、大佐は小さな声で囁いた。
「カイ部隊長を誘うんです?
あ、それとももう誘われたとか?」
「っ?!」
悪戯心が垣間見えるような声色に、クルミが息を飲んでたじろぐ。
すると大佐は、にやりと口角を上げた。
「ふぅ~ん・・・へぇぇ・・・?」
「な、ななな、何ですか」
棒読みの台詞に、大佐がにやにやしながら頷く。
「なるほどなるほどー。
カイ部隊長の様子がおかしいの、花火と何か関係あります?」
「カイさん、具合悪いんですか?!」
クルミが慌てふためき、真っ赤になり、懸命に否定なり言い訳なりを述べると思い込んでいた大佐は、彼女の反応に目を点にした。
開いた口が塞がらないとは、このことだ。
「・・・あの、クルたん・・・」
「風邪、引いちゃったんですか?
だからここに来てくれないんですか?」
ひと呼吸おいた大佐がやっとのことで言葉を紡ぐと、クルミが矢継ぎ早に質問を浴びせる。
必死なのか声が大きく、テレビの音がかき消される。
どうやら、本当に彼が体調を崩したらしい、と心配しているらしい彼女に気づいた大佐は、瞬きを繰り返してから口を開いた。
「それは、ないと思いますよ。
・・・ああでも、そういうことなんですね」
大佐には、思い当たることと疑念があった。
少佐から、「身近な女性として何かと世話を頼むことがあると思うが、よろしく頼む」と言われていた大佐は、それなりの心づもりをもってクルミに接しているのだ。
彼女にとってクルミは、部下のような上司である少佐の養い子。
自分に訪れた体の変化にすら思い当たることがないような幼さは、正直なところ懸念の対象である。
そんな彼女と生活していたのは、第8の部隊長であるカイだ。
幼さの残るクルミのために心を砕いているのは、彼の様子を数回見ただけでも分かる。
いつだったか、ミニスカートを履いた彼女に「体が冷える」と注意する場面も見た。
その表情は兄のようでもあり、親のようでもあり。
けれど、時折カイの眼差しや仕草が、いくらかの熱を含んでいるように見えてしまうことがあったのだ。
それは、自分の目が色を纏っているからだと、思うようにしてきたのだけれど。
たった今、クルミの様子を目の当たりにして、やはり疑念は拭えなくなった。
彼女は、カイに会いたがっている。
そのカイはここへは寄りつかず、様子がおかしい。
もしかしたら、2人の関係に何かしらの変化があったのでは・・・と思うのだ。
彼女自身が、彼のことをどう思っているのかは、この際関係ない。
幼い彼女が、男女の間に芽生える感情について知っていても、実感を伴うまでには至っていないであろうことは、容易に想像出来る。
“様子がおかしい”を“体調が悪い”に変換出来るあたり。
大佐は、いろいろと考えを巡らせたあげく、日程をメモした紙をクルミに渡した。
ため息混じりに、ひと言添えて。
「はい、これ。
・・・彼に聞きたいことがあるなら、手紙でも書いてみたらどうです?
郵便屋さん、してあげますから」
・・・風邪引いたんじゃ、ないんだ・・・。
大佐が自分の言葉を否定して、ほっとした次の瞬間に内心肩を落とす。
クルミは、グラスにミネラルウォーターを注ぎながら、沈んだ気持ちをどうしたらいいのか、途方に暮れていた。
・・・じゃあ、どうして来てくれないの?
・・・一緒にごはん食べてくれるって、言ったのに。
「いただきましょう」
大佐の声に我に返ったクルミは、頷いてフォークを手に取る。
そしてまだ温かいペンネを突き刺した格好で、クルミは手を止めた。
「・・・カイさん、お仕事忙しそうですか・・・?」
ぽつりと零した言葉に、大佐が微笑む。
「ええ、それなりに。
花火大会の警備も軍が担当してますから、部隊長は会議が続いてます。
見回りもしてますし、夜勤もあるはずですから・・・体が1つでは足りないでしょうね」
大佐は言葉の裏に、だから他所へ行くだけの時間もないはずです、と含める。
それを読むだけの駆け引きなど、クルミには出来ないと分かっているけれど。
「そっか・・・」
トマトソースの絡んだペンネが、やけに酸っぱく感じたクルミは、わずかに顔をしかめた。
すると、それを横目に同じものを口に運んでいた大佐が、頬を緩める。
「・・・寂しいですか」
穏やかな声に、クルミは目を伏せた。
「だって、約束したんです。
一緒にごはん食べるって・・・」
彼女の言葉を肯定と受け取った大佐は、小さく息を吐く。
「きっと、彼も本当はここに来たがっていると思いますよ。
でも・・・噂もまだ下火になっていないみたいですしねぇ・・・」
そのひと言を聞いた瞬間、クルミの体が硬直した。
「う・・・」
そんな彼女に、大佐は首を捻る。
「どうしました?
噂は、あくまで噂ですよ?」
「や、あのっ」
この部屋で起きたことの一部始終を思い出してしまったクルミは、真っ赤になって首を振る。
するとトマトペンネに負けず劣らず赤くなった彼女を見て、大佐は目を細めた。
「・・・カイ部隊長と何かありましたね?
ありましたよね?
何があったんですか?!」
半目になった大佐に問い詰められたクルミは、思わず体を引いて首を振る。
・・・あんなこと、誰にも言えないよ!
物分かりが悪く我儘を言った自分に、カイが最終手段として手を出した・・・と、クルミは思っているのだ。
どうしようもなく無知な子どもの自分を知られるのも、カイにそんなことをさせてしまった自分を知られるのも、嫌だった。
・・・だってあれって・・・あんなことしてるって思われてるなんて!
クルミがぷるぷると首を振ったのに対し、大佐が距離を詰める。
ずずず、と前のめりに迫ってくる様子に、クルミの口から小さな悲鳴が漏れた。
「白状して下さい、何が、あったんですか?!」
びしっ、とフォークを突き付けられて、薄紫の瞳が零れ落ちんばかりに見開かれる。
・・・大佐こわい?!
絶句したまま心の中で悲鳴を上げ、クルミは体を強張らせた。
そして、これはもう逃げられないと悟り、口を開く。
「わたしが、噂の中身、よく分かんなくて一緒にいたくて・・・それで・・・。
カイさんが、あの、わたしに、」
「結構です。
理解しました。
いえ、察しました。
クルたんの綺麗なお口から、下世話な単語が飛び出すのはやっぱり嫌です」
支離滅裂な言葉に端的な台詞を残して、大佐がクルミから離れる。
その気配に、ほっと息を吐きだしたクルミは大佐の目を見て驚いた。
目が据わっているのだ。
「ちょっと、失礼しますね」
「あ、あの・・・っ?」
戸惑った声を上げたクルミが、ソファから立ち上がった大佐を見上げる。
やはり目は据わったままで、そこには静かな怒りが燻っていた。
それに気づいてしまったクルミは、慌てて大佐の服の裾を掴む。
「ごめんなさいっ、わたし、」
気持ちに言葉が追いつかない彼女を振り返った大佐は、据わりっぱなしの目を元に戻して微笑んだ。
「クルたんのせいじゃ、ないですよ」
そして、その微笑みが翳る。
「こんなに幼いあなたに、理由はどうあれ手を出した彼に非があります」
「ひっ?!」
大佐の低い声に、クルミは反射的に悲鳴を上げた。
「な、なんで知って・・・?!」
そんなことはひと言も言っていないはずなのに、と真っ赤になった彼女を見た途端、大佐の怒りが頂点に達した。
「噂が本当になるだなんて、笑えません。
たとえ当人が、自分を害されたと思わなくとも」
沸々と湧きあがる怒りを撒き散らし、大佐が鋭い言葉を放つ。
幸いなことは、その怒りがクルミに向けられてはいないことだ。
そして、彼女が静かに怒るタイプの人間だったことくらいか。
「・・・失礼しますね」
クルミが掴んでいた服の裾が、するりと手から抜けていく。
一瞬呆けてしまった彼女は、ドアの近くまで行ってしまった大佐を呼びとめた。
「どこ、行くんですか?!」
すると大佐は足を止め、ドアノブに手をかけながら振り返る。
「ちょっとそこまで。
大丈夫ですよ。私、射撃の腕には自信がありますから」
そう言い放った大佐は、するりとドアを開けて外へ出て行った。
静まり返った部屋に、しばらくしてゆっくりとドアが閉まる。
大佐がすり抜けた場所が、重い音を響かせた。
そこでやっと、クルミは我に返る。
「・・・射撃?!」
耳を疑うも、その言葉を放った本人はもういない。
まさかそんなことを本気でするわけがない、と思うものの、大佐の据わり切った目をみてしまった彼女の中には、拭いきれない不安が残る。
・・・大丈夫だよね。大丈夫だよね?
自分のせいで、自分が手のかかる子どもなせいで、彼に迷惑をかけている。
そう思うと、不安が悲しみに変わった。
「カイさん・・・」
来て欲しいと思う反面、それなら来ない方が彼にとってはいいのかも知れない、と思う。
思わずその名前を呟いた時、クルミの脳裏を彼の顔が横切った。
この部屋で最後に交わした会話。
カイは、クルミの唇に指で触れた。
他愛もない場面を思い出した彼女は、無意識のうちに自分の唇に手を伸ばす。
ふに、と指先を押し返した唇は、温度を感じることはなかった。
・・・あの時は、すっごく熱いと思ったのに。
その指先は、熱を孕んでいた気がする。
何度も頭を撫でた手の温かさとは、違う熱だった。
目が覚めてからのいろいろな記憶はおぼろげになるのに、あの場面だけは鮮明なまま。
それが不思議で、クルミは小首を傾げる。
・・・嫌じゃなかったんだよね。
・・・カイさんは、がっかりしてたけど・・・。
台詞の断片を思い出し、息を吐く。
唇に触れたままの指先が、熱い息を受けて、じんじんする。
・・・でも、カイさんで良かった。他の人に教えてもらってたら、きっとアレが・・・。
・・・あれ?
脳裏に蘇る、彼の台詞に違和感を覚えて、クルミは眉根を寄せる。
そして、ある疑問に辿りついた。
・・・どうしてカイさんだと、嫌じゃないんだろ・・・?
彼相手だと、どんな場面であっても内に眠るものが出張ってこないことに、クルミはようやく気が付いて首を捻った。