6-4
手が冷たい。
心臓が痛い。
クルミは、自分が首を締め上げられているのではないか、と錯覚していた。
「今日は忙しくて、昼食を食べ損ねてしまってね。
しかし、たまにはフードコートにも来てみるものだなぁ・・・」
言いながら、声をかけてきた統治官がクルミの隣の椅子を引く。
独り言にしては大きな声を発した彼は、完全に息を詰めて固まっている彼女を一瞥した。
統治官は腰を下ろし、テーブルの上に置かれていた参考書を手に取る。
開かれていたページにざっと目を通した彼は、小さく笑った。
「・・・ふぅん、」
聞いたことのない低い声に、クルミの肩が跳ねる。
言い知れないものの気配が、彼女から思考を奪っていく。
「勉強、してるんだ」
彼女は、統治官の言葉に何の反応も返せなかった。
目を合わせることすら出来ずに、ペンだこが痛かったはずの手を握りしめる。
その握りこまれた手を眺めていた彼は、クルミの様子など気に留めたふうもなく続けた。
「君が苦手なのは、数学?」
ぱらぱらとページを捲り、何気ない雰囲気を纏って尋ねた統治官に、クルミは頷く。
かくん、とクルミの頭が上下したのを見た彼は、にっこり微笑んだ。
「そう、数学は苦手なんだ・・・。
ああ、それじゃあ得意なのは“歴史”・・・かな?」
「・・・っ」
その言葉は、絶大な威力を含んでいた。
きゅぅぅ、と喉が絞まる。
その感覚に、草原で第8部隊の面々に囲まれた時のことが思いだされたクルミは、一度だけ目をきつく閉じた。
・・・この人・・・?!
追い詰められたのを自覚した彼女は、小刻みに震える膝とは裏腹に、頭の芯が冷えていくのを感じて、ゆっくりと震える息を吐きだした。
その様子に、統治官は目を細める。
そして、ふいに脳裏を駆け抜けて行ったカイの軍服姿に、クルミは心の中で独りごちる。
・・・違う。今のわたしが怖いのは、軍服なんかじゃない。
・・・わたしが怖いのは・・・。
クルミは潮が引いていくような感覚に酔いながら、目を開けた。
あんなに力を入れていたのに、不思議なほどに視界がくっきりとしている。
彼女は呼吸を整えて、静かに統治官を振り返った。
薄紫の瞳が揺らぎもせずに自分を見据えたことに、彼は少なからず驚いた。
気弱な、自分を怖がって避けていた少女が毛を逆立てようとしているのを見て、思わず気分が高揚しそうになる。
「歴史も、得意じゃありません」
抑揚のない声で尋ねたクルミに、統治官は小首を傾げた。
「そうなんだ・・・じゃあ、勉強することが沢山だね」
同じように静かな口調で返した統治官を、彼女はじっと見つめる。
けれど、統治官の内心を探ろうとしたものの、中身が16歳に満たない少女には難しかった。
すぐに彼の眼力に負けて、視線を逸らしてしまう。
すると統治官はにっこり微笑んだその口元を解いて、すっと目を細めた。
「ところで君、少佐の養女になったんだってね」
クルミは、話題が変わったことに視線を上げる。
その瞬間、再び彼女の視線が自分に向いたのを感じた彼は、目元を和らげた。
「知らなかったよ。
ダリア君に聞いたら、君の件はまだ進展がないと言っていたのに・・・驚いた」
「わたしのこと、気にしてくれてたんですか」
穏やかな物言いに合わせたクルミの険のない声音に、彼は頷く。
「当然です。
一応、私は統治官だからね。
普通と違うことがあれば、気に留めておくに決まっているでしょう?」
言葉の最後にくすくすと笑い声をあげた統治官は、訝しげに自分を見ている彼女に向かって、わずかに顔をしかめた。
「・・・それにしても、あの少佐が君を養女にするなんてね。
それに第8部隊の、カイ君、だったっけ?
彼は確か天涯孤独の身だったね・・・ま、寂しい気持ちは理解の範疇だけど・・・」
「え・・・?」
統治官の話し始めた内容に、クルミは再び言葉を失った。
自分のことを根掘り葉掘り聞き出すつもりで、声をかけてきたのかと思っていたのだ。
だから、腹を括って演技をしようと決めたところだった。
それなのに話題があらぬ方へ進んでいくことに、戸惑ってしまう。
しかも、話題は少佐とカイのことだ。
ひと言声を上げたきり黙ったクルミを見て、統治官はさらに言い募る。
「まさか犬猫同様に人を拾うなんて・・・呆れてものも言えないよ」
彼女の瞳が揺らぐ。
その表情を見ていた統治官は、そっと口の端を持ち上げた。
「保護だけならまだしも、拾いものを養女にだなんて・・・」
「やめて下さい」
がたん、と音を立ててクルミが立ち上がる。
手早くテーブルの上に散乱したものを集めて、カバンにしまいこんだ。
「少佐のことも、カイさんのことも悪く言わないで下さい。
・・・それに・・・」
逃げようとするかのようなクルミの動きを黙って眺めていた統治官は、目を細める。
「それに?」
恩人たる2人を馬鹿にされたと感じた彼女の頭は、静かに沸騰していた。
自分が追い込まれるのなら、なんとか切り抜けようと思って腹を括ったのだ。
今や表現しようのない、感じたことのない屈辱感に、彼女は言葉を見失っていた。
「確かにわたし、拾われましたけど・・・でも、犬でも猫でもないし・・・」
目元を険しくしたクルミの言葉に、統治官は謝るでもなく、かといって驚くでもなく。
むしろ彼は口元に笑みすら浮かべ、カバンを持って立つ彼女を見上げた。
「それじゃ君は、何なのかな?」
「・・・え・・・?!」
クルミは統治官の表情を目の前に、体を硬直させた。
何を言っているのか、とすぐに言い返し、その勢いのままにフードコートから逃げ出せば良かった、と思っても後の祭りだ。
背中を冷たいものが這うのを感じた彼女は、一歩、後ろへ退いた。
けれどそれ以上、足が動かない。
見えない糸に絡め取られたように、足も、視線も、全神経が統治官へと向けられたままだ。
そんなクルミを、統治官はテーブルに頬杖をついて興味深そうに見つめていた。
「・・・ね、クルミ?」
穏やかな口調は、真綿で首を絞めるように彼女を追い詰めていく。
クルミは統治官の視線を正面から受け止めながらも、どんな言葉を選べばいいのか分からなくなってしまっていた。
動揺に呼吸が乱れ、喉の奥から小さく、ひっ、という音が漏れる。
・・・どうしよう、どうしようどうしようどうしよう・・・!
恐怖と焦りに頭の中が支配されたクルミが、あまりの息苦しさに、胸の辺りを掻き毟るように手で押さえた。
その時だ。
「ツヴァルグ統治官」
少し離れた所から声が聞こえて、クルミは急いで視線を投げ、そして目を見開いた。
「・・・おや、少佐」
声に呼ばれた統治官が、片方の眉を跳ね上げる。
「あなたも、昼食を摂り損ねたクチですか?」
「いえ。私は、」
軍服に身を包み、眉間にしわを寄せた少佐は、つかつかとクルミの隣へやって来た。
そして、そのまま彼女のカバンを取り上げ、背に手を添える。
それはクルミが瞬きをしている間の出来事で、彼を“軍服を着た男性”として意識するだけの余裕はなかった。
「娘を迎えに」
・・・む・・・?!
さらりと、臆面もなく少佐が言いのけ、勢いよく振り返ったクルミは驚きをもって凝視する。
確かに彼女は、書類上では少佐の娘である。
それは、彼女にもよく分かっているし、感謝もしているのだ。
けれど本人の口から自分に向けて“娘”という単語が飛び出すと、それはまた相当な衝撃を放つらしかった。
何か言うべきだ、と思ったクルミが口を開きかけた時、少佐がちらりと視線を寄越した。
・・・だ、黙ってます・・・。
刹那の間に向けられた眼差しから少佐の言いたいことを読み取ったクルミは、ただ黙って俯いたのだった。
どうしたものかと、軽くなった両手を握っては開きながら、クルミは口を開いた。
「どうして、あそこに・・・?」
「統治官宛ての書類を持って行った大佐が、彼が席を外していると戻ってきた。
それで、嫌な予感がしたんだ。
だからお前の居場所を第8の連中に問い合わせて、一応確認に行った」
動悸や息苦しさから解放されたクルミの背には、まだ少佐の手が添えられている。
その温もりが薄いシャツ越しに感じられて、ほんの少し戸惑いながらも、彼女は少佐の話に相槌を打っていた。
「そっか・・・」
「何を訊かれた?」
温かい手とは真逆の、冷たい声が飛んでくる。
クルミは少佐に視線を遣ると、小さく首を振った。
「特に・・・ただ、わたしを養子にしたことが信じられない、って・・・。
拾いものを養子にするなんて・・・って」
無機質な廊下を歩きながら呟いた彼女を、少佐は静かに見下ろす。
自分の胸にも届かない場所で揺れる黒髪に、そっと手を伸ばした。
「気にするな。
・・・あれは、私に先手を打たれたのが癪だったんだろう」
統治官を“あれ”呼わばりした少佐に、クルミが頷く。
「わたしは気にしてません。
でも、少佐とカイさんのこと、馬鹿にしてたみたいだからムカついちゃって・・・っ」
統治官とのやり取りを思い出して、彼女は拳を握りこんだ。
空恐ろしい思いもしたけれど、印象に残るのは2人を小馬鹿にしたような、統治官の微笑みだった。
胃の辺りに黒いものが渦を巻いているのを抑えたクルミは、少佐が息を吐く気配に顔を上げる。
「何を言われても、受け流しておけ」
「・・・はい」
「それから、」
言いかけて言葉を止めた少佐に、彼女は小首を傾げる。
すると、彼はわずかに視線を彷徨わせてから、言った。
「これからしばらく、勉強は私の個室ですること」
「う、えぇ・・・?」
「・・・少佐の庇護を受けるなんて、少し厄介だな・・・」
ぽつりと零した統治官は、小さくため息を吐いて立ち上がる。
もとより、クルミと接触する以外の目的はなかったのだ。
早々に執務室へ戻って、秘書達の小言を聞かなくてはならない。
「仕方ないか・・・あ・・・?」
溜まっている仕事を思い出してぼやいた彼は、ふと目に入ったものに手を伸ばした。
「これは・・・?」
先ほどまでクルミが座っていた椅子の上に、きらりと光るものが置いてあったのだ。
それは、彼の指先ほどの大きさの・・・。
「氷・・・?」
呟いて、摘まみあげたそれを目の前にかざず。
氷かと思ったけれど、一向に冷たく感じないし、溶けもしない。
そして、照明の光を受けた透明な石を訝しげに見つめていた統治官は、唐突な出来事に目を疑った。
「・・・え・・・?!」
透明な石が、音もなく空気に溶けて消えたのだ。
驚いて当たりを見回すも、水滴が垂れた様子も見受けられない。
もちろん、透明な石を摘まんでいた彼の指も、濡れてなどいない。
彼は、自分の身に起きたことに目を瞬かせたすぐあと、はっと我に返って、そして口角を上げた。
「・・・なるほど・・・」
呟いた彼は、何かに吹っ切れたように颯爽と動いた。
クルミの残して行ったアイスココアのグラスを持って、返却口へと急ぐ。
たまたま残されていた食器を親切にも届けてくれた統治官・・・そんな彼になら、従業員達は快く話をしてくれるに違いないのだ。