6-3
・・・なんか、ごつっとする・・・。
・・・でも、いいにおい・・・。
頬に当たる、熱を含んだ硬いもの。
手のひらが、滑らかな布地をくしゃりと掴んでいる。
混濁する意識が浮き沈みする合間に、酸素と一緒に匂いを吸い込む。
・・・ほっぺ、いたいなぁ・・・。
頬の痛みと、浮き沈みしていた意識が輪郭をはっきりさせていくのを感じたクルミは、ぼんやりと目を開けた。
カーテンの向こうが、薄明るくなっている。
真っ黒なテレビの画面が視界に入り、自分がリビングで目を覚ましたことに気づいた彼女は、そっと息を吐き出した。
「・・・ん、ぅぅ・・・」
欠伸を噛み殺して、気だるいまま目を閉じる。
朝は苦手ではないのに、パッと起き上がることが出来なかった。
頬に、腰に、肩にも何だか違和感を感じるのだ。
酷く心地よいのに、何かおかしい。
耳から流れ込む鼓動の音が、ゆったりと静かで、力強いのも不思議だ。
うつ伏せで眠りに入る少し前に聞こえる、自分の鼓動の音とは違う気がした。
目を閉じ、暗闇の中でいろいろなことを感じ取ったクルミは、その違和感の正体に思い当たって、はた、と我に返った。
正確には、目が覚めた。
・・・えー・・・?!
ぱちぱち、と何度も瞬きをしてみる。
もはや眠気やだるさなど、感じている余裕はない。
驚いて動悸のするのをそのままに、クルミは息を詰めて考えた。
・・・なんで、なんでなんでなんで?!
カイの上に重なるようにして寝転がっている自分が、理解出来ない。
こうなる前のことを思い出そうとしても、記憶が曖昧で、混乱を極めるばかりだった。
思い出すことを諦めたクルミは、詰めていた息をこっそりゆっくり吐き出して、視線を投げる。
すると、視界が上下に規則正しく、一定の間隔で揺れていることに気がついた。
・・・わたしのこと乗っけて、よく潰れないで寝れるなぁ・・・。
・・・ごめんね、カイさん。
感嘆と、自分の体重に耐えて眠っているカイへの申し訳ない気持ちで、彼女はため息を吐く。
もう一度視線を投げて時計を見れば、これから日が昇ろうとしているくらいの時間だった。
今朝は早く家を出るのだと聞いていたクルミは、予定の時間に十分間に合うのを確認して、これからどうしようかと考えを巡らせる。
その時だ。
ぴったりくっつけたままの耳が、カイの声にびりびりと揺らされた。
「・・・もう時間?」
突然聞こえた声に、クルミは「ひっ」と可笑しな声を上げつつ息を飲んだ。
すると、カイがくすくすと笑い声を漏らす。
「さっきから、何やってるんだ?
・・・ずいぶん挙動が可笑しかったけど」
自分の寝起きをカイが見ていたことに憤った途端に、密着していることへの抵抗はどこかへ消えてしまったらしい。
カイの普段通りの口調に、彼女は頬を膨らませた。
「・・・カイさん、意地悪です」
「うーん・・・クルミがそれを言うのか・・・」
言われたことの意味が全く分からなかったクルミが小首を傾げると、呆れ半分な声と一緒に、ぽふ、と大きな手が頭に降ってくる。
そうしてクルミの滑らかな髪を撫でたカイは、欠伸を噛み殺して言った。
「見た感じ、ぐっすり寝てたみたいだけど・・・体調は?」
「元気ですよ?
・・・カイさんは眠れなかったでしょ。
わたし、上の部屋に・・・って・・・」
そう言って体を起こそうとしたクルミは、自分の背中がカイの腕に阻まれているのに気がついて、眉根を寄せた。
「・・・カイさん」
半ば非難めいた声色になった彼女を、カイは喉の奥で笑う。
それは自嘲を含んでいたけれど、クルミはもちろんそんなことには気づかない。
「また言ったな?」
「はい?」
訝しげに聞き返した彼女に、カイはため息を吐いて言った。
「だから、さん、は要らないって言ったろ。
・・・なんだろうな、数学は出来るようになったのになー・・・」
ちくりと嫌味を織り交ぜれば、クルミが押し黙る。
「だって、」
やっと開いた口からは、言い訳じみた言葉が飛び出した。
「うん?」
彼女の言葉を、カイがそっと促す。
小さな頭を撫でていた手が、指先に黒髪を絡ませている。
「カイさんは、大人だもん・・・わたしまだ、16歳にも成れてない」
「大人か・・・どうだろうな・・・」
つるりと逃げる黒髪を、何度も絡め直しながらカイは言う。
昨夜の自分を省みると、クルミの言葉が皮肉に聞こえてしまう。
そっと息を吐いた彼は、むくれる彼女の頭を軽く叩いて目を閉じた。
自分が大人になりきれないことも、意外にもクルミが16歳になろうと努力しているらしいことも、とりあえずは棚上げしておきたいところだ。
「もういいから、目瞑って。まだ、あと少しは眠れる時間だろ」
「・・・え、だって」
「いいから」
クルミの反論を遮るように、またしても大きな手が、ぽふ、と頭に降ってくる。
その手は、幼子を寝かしつけるような仕草で、どこか懐かしさを含んでいた。
「あのね、カイ・・・」
「・・・うん?」
薄明るい部屋に、囁きが響く。
クルミは言った。
少し硬いカイの胸にぴったりついた耳から、その鼓動が聞こえることに安心して。
カイは、クルミが名前の呼び方に拘らないことにしたらしいことに、内心苦笑する。
そして、静かにその声に耳を傾けた。
「こうやってると、ほっとする・・・かも」
「そっか」
重くてごめんなさい、と付け足された声を聞こえないふりで通したカイは、ひと言相槌を打ったきり、口を閉じた。
するとクルミが、ぽつりと。
「なんか・・・お父さんとお母さんが、半分ずつになったみたいな感じ・・・。
カイって、不思議・・・」
・・・それは、俺のいろんな部分が貶されてると思っていいんだろうか・・・。
彼女の台詞に、カイが困惑したのは言うまでもない。
「うっわ迷子、お前めちゃくちゃ勉強してるじゃねぇか」
テーブルに広げられた参考書に目を丸くしたコウが、思わず感嘆の声を上げた。
昼時で混み始めたフードコートで勉強していたクルミは、咄嗟に顔を上げる。
目の前に、数回会ったことのある強面の軍人が立っているのに気づいて、思わず息を飲む。
「・・・えと、あの・・・」
体格が良いせいなのか、それとも目つきの問題なのか。
見下ろされると、威圧感があって言葉に詰まる。
そんなクルミを、きょとんとした表情で見ていたコウは、ふっと息を吐いて腰に手を当てた。
そして何かを言おうとして、口を開いた刹那、後ろから声がかかる。
「コウ、」
「・・・あ?」
「カイっ」
やって来たのはカイで、クルミは顔をぱっと輝かせてノートを閉じた。
「へー、試験受けんのか」
豪快に大盛りのピラフとスペアリブを平らげたコウが、参考書を手に呟く。
彼はパラパラと数ページ目を通したかと思えば、すぐに本を閉じた。
「えっと、12月に」
「おー、がんばれ」
激励というよりも、ただの相槌に近いものを投げかけた彼に、カイがため息を吐く。
するとクルミの向かいに座ったスバルが、上品に口元を拭きながら言った。
「困ったことがあったら、いつでも声かけて。
・・・それなりには、役に立てると思うから」
「ありがと」
クルミはフレンチフライを摘まみながら、ありがたい申し出に礼を返す。
「今のところは、困ったら家でカイに教わってるんだけど・・・。
もしかしたら、そのうちスバルにもお願いするかも」
「うん、いつでもどうぞ」
食器を重ねながら頷いたスバルは、水を飲んで息をついた。
「でも勉強ばかりしててストレス、溜まらない?」
次に声をかけてきたのはタスクだ。
彼は自分の読んでいた本を閉じて、クルミに向かって微笑む。
「適度に遊んだ方がいいと思うよ。
ね、カイ君。たまにはガス抜きも必要だと思うんだけどな」
「そうですね・・・まあ、そのうちにでも」
ちらりとクルミを一瞥したカイは、呟いた。
その視線を受けたクルミが小首を傾げ、すると向かいからスバルが「あ」と声を上げる。
「そういえば、もう少ししたら花火大会がありますね」
「花火かぁ・・・」
クルミが打ち上げ花火を見たのは、もうずいぶん昔のことだ。
両親に手を引かれて、金魚の尾ひれのように鮮やかでふんわりした浴衣の帯を締めて、ぴこぴこ音の鳴るサンダルを履いて。
あまりに幼くて、花火が怖かったのを思い出す。
「うん。
行ってみたかったら、付き合うよ」
「・・・えと、行ってもいいの・・・かな?」
親切心で申し出たスバルに、クルミは戸惑いながらカイを見上げた。
すると彼は、渋い顔をして彼女に言う。
「勉強の進み具合にもよるし・・・予定は未定だな」
「・・・はい」
その声が、クルミとスバルどちらに向けられたのか理解した部下達は、それぞれ胸の内でこっそりため息を吐いたのだった。
カイ達が昼食を終えて仕事に戻ると、またクルミは勉強を始めた。
昼のピークを過ぎたフードコートは、それなりに人がいるものの、食事以外のことをしていても特に非難の目を向けられることはないらしい。
クルミは勉強のお供にアイスココアを注文して、再び計算式と睨み合うのだった。
カリカリカリ・・・とペンを走らせて、頭の中で数字を入れ変えたり消したりする。
やがて答えが出ると、それまでのもやもやがスッキリと晴れる。
その繰り返しをしているうちに、彼女は自分の首が凝り固まっていることに気がついた。
「い、た・・・」
ぐぎぎ、と軋んだ音を立てる背中と首を伸ばして、深呼吸をする。
いつの間にか目も、しょぼしょぼしていて視界が悪くなっていた。
クルミは目を擦り、アイスココアをひと口含む。
氷などとうに溶けて、温く薄くなったそれに息を吐いた。
・・・今、何時だろ・・・。
霞む目を凝らして時計を見ると、勉強し始めてからずいぶん時間が経っていることに気づく。
あと1時間もすれば、カイが迎えに来るかも知れない。
そんなことを考えて、息を吐く。
・・・ひと息ついたら、もうちょっと頑張ろうかな。
花火の話をしたせいなのか、俄然やる気が衰えない自分が少し可笑しくて、頬が緩む。
彼女は右手の中指にペンだこが出来かけているのを揉みほぐして、肩から力を抜いた。
声がかかったのは、その時だった。
「やあ、クルミ」
温く、這いずってくるような声に、思わず目を見開く。
完全に気を抜いていた彼女は、彼の姿に言葉を失った。
「どうしたの?
・・・私の顔に、何かついてる?」
悪戯っぽく微笑んだ彼は、驚きに硬直しているクルミを見て囁く。
「奇遇だね、こんな所で会うなんて」
「・・・こん、にちは・・・ツヴァルグ、統治官・・・」
ひゅぅぅ、と喉から息が漏れるのを堪えたクルミは、掠れた声を振り絞った。
瞬きするのも忘れて呆然としている彼女を、統治官は小さく笑う。
そして、言った。
「・・・やっと、捕まえた」