6-2
「ああ、これは・・・」
カイの武骨な手がペンを滑らせて、ノートに数字や記号を書いていく。
夕飯を済ませた2人は、ダイニングテーブルに問題集とノートを広げた。
スクールの卒業認定試験は、12月と6月・・・年に2回。
今は夏の暑さが厳しくなりつつある7月。
12月の試験まで時間はあるものの、100年単位で現役から遠ざかっていたクルミにとっては、やり直しの必要な個所がたくさんある。
そのせいなのか元来の真面目な性格の賜物なのか、彼女はスポンジが水を吸収するかのように、知識を自分のものにしていった。
それはカイが見ていても明らかで、内心驚いている。
今はまだ自分が勉強をみているけれど、そのうちに本当に家庭教師が必要なのではないかと、少佐に相談しようと思っているほどだ。
「あ、そっか。分かったかも」
カイの説明に顔を上げ、笑顔を作ったクルミがさらさらとペンを走らせた。
そして、書き終えたものを彼に見せる。
「・・・うん、合ってる。
もう1人で解けそうだな」
解答とノートに書かれたものを交互に見遣ったカイが言うと、クルミは嬉しそうに頷いた。
「数学って、解けると楽しいかも」
「それは良かった」
囁いたカイは、解答を伏せると立ち上がる。
大きな手で頭を撫でられたクルミは、彼がその場を離れようとしたのを見て、咄嗟に手を伸ばした。
くい、と服の裾が引っかかった感触に、彼は手にしていたカップをテーブルに戻して、クルミを見下ろす。
「ん?
どうした?」
「あの・・・」
クルミは、自分の手が勝手にカイを引きとめたことに戸惑っていた。
特に何かがあったわけではない。
言いたいことがあるわけでも、訊きたいことがあるわけでも。
それなのに勝手に伸びた手は、勝手にカイの視線を自分に向けさせた。
彼女はそんな自分にすら戸惑って、視線を泳がせる。
「えっと・・・」
するとカイは、頬を緩めて笑みを浮かべた。
困っているのか呆れているのか、判断のつかない彼の表情を見たクルミは俯く。
なんだか自分が子ども扱いされたような、からかわれたような・・・そんな気持ちが不快感を伴って胃に重りをぶら下げたようで。
「クルミ?」
彼は、服の裾を掴んだ彼女の手を剥がし、そっと握る。
彼女が握っていた箇所が若干しわになっているのを見て、無意識に口の端が上がってしまう。
そんなふうにして、16歳になったのだという小さな手は、成長期を養成校で過ごしたカイの大きな手に埋もれるようにして包まれた。
「冷たくなってるな・・・」
カイの素直な反応に、クルミは自分の背中が寒くなるのを感じて息を飲んだ。
手を握られたからではない。
自分の体が冷たいことを知られるのは、良くないと思うのだ。
一瞬、氷の蔦が足元から壁のように這い上がる光景を思い浮かべた彼女は、俯いたまま、ぎゅっと目を閉じた。
・・・でも・・・。
手を離さなくては、と思うのに、クルミにはそれが出来なかった。
大きなカイの手に触れる心地よさが、彼女の判断を鈍らせる。
・・・カイさんなら、平気なのかな。
ひんやりしたクルミの手をもう片方の手で擦って、カイは口を開いた。
「もしかして体調、悪い・・・?」
「・・・そんなことは・・・」
彼女の隣に腰掛けて、擦っていた方の手を持ち上げる。
クルミは、手の冷たさをそういうことにしておこうかと思いつつも、正直に首を振った。
けれどカイは、そのまま前髪をよけて額に手を当てた。
じわじわと温かくなる額に、うっとりと目を閉じたクルミは、そっと息を吐く。
・・・やっぱり、大丈夫みたい・・・。
自分の中に眠るものが起きないことを確信した彼女は、大きな手が視界を少し邪魔しているのも気に留めず、カイを見上げた。
どんな顔をして自分を見ているのか、知りたくて。
「・・・熱は、なさそう・・・だよな」
きつく目を閉じたせいなのか、視界がぼやけるのが不快で、クルミは何度も瞬きした。
それでも視界がぼやけたままで、彼女は目を擦る。
そのうちに、だんだんと意識に霞がかかったようになる。
そんな意識も視界もはっきりさせようと、クルミはさらに目を擦った。
それを見ていたカイは、あまりに無頓着に目を擦る彼女に苦笑して、その手を掴んでゆっくりと下ろさせる。
「ほら、目元が赤くなって・・・」
言いながら額に当てた手を頬に添え、今度は赤くなった目じりと親指でなぞった。
何してるんだ、と自分に問いかけるもう1人の自分のことは、この際棚の上に放り投げて。
「・・・ん、なんか、急に・・・」
クルミが、小さな声を絞り出す。
その声を聞き取ろうと、カイは自分の耳を彼女の口元に近づけた。
「どうした?」
もごもごと、はっきりしない発音を聞き取りながら、その声を催促する。
「眠いのか?」
同じように小さな声で問いかければ、クルミが「ん」と吐息に似た声を漏らす。
「・・・でも、だいじょぶ・・・」
クルミは目に力を入れ、掠れた声で言った。
その声を耳元で聞いていたカイは、苦笑しながらも彼女の顔を覗きこむ。
「・・・うん、ならいいけど。
喉は、痛くない?」
彼女の掠れた声を自分の言い訳に、カイはその頬に添えた手をゆっくりと下ろしていく。
たまにぷくっと膨れる、軽く抓るとよく伸びる部分を名残惜しそうになぞって、首の付け根に手のひらを当てた。
「腫れてはないな・・・」
呟いたカイを、クルミは下火になった眠気を抑えて、じっと見つめる。
けれど見つめているつもりなのは本人だけで、カイの目には、彼女がぼんやりと自分を眺めているようにしか見えなかった。
「眠かったら、寝ちゃってもいいのに」
外見と中身のバランスの悪さに、胸の内で悪態をついていたのは、つい最近のことのはずだ。
それなのに、今はそんなクルミの姿をスバルが独占したのかと思うと、なんだか癪な気分になってしまう。
はっきり言葉にするなら、苛立ち、という感情。
それが嫉妬に変わる日も、そう遠くないのかも知れない・・・そう思いながら、カイは小さくため息を吐いた。
まだ感情に名前をつけていられる自分に、少し安心しながら。
「ほら、」
冷静に自分を見つめたカイは、それに反して思わず手を出していた。
もはや半目になったクルミの両腕を掴んで、自分の首に回す。
むー、と可笑しな声を発した彼女のことは無視して、そのまま抱き上げ、ソファに運んで横たえ・・・ることは出来なかった。
「・・・ちょ、」
下ろそうとした格好のまま、カイが声を上げる。
クルミが、彼が予想もしなかった力でしがみついているのだ。
「えー・・・っと・・・」
彼女を抱え直して視線を彷徨わせると、彼は苦い表情を浮かべて呟く。
「・・・意地悪してる?」
もちろん、返事はなかった。
代わりに、規則正しい寝息が聞こえただけで。
「ん・・・」
寝息に混じって、彼女の声が聞こえる。
自分に重なるようにして眠っているクルミに、苦い感情を抱きながらも、カイは目を閉じて眠ろうとしていた。
明日は、いつもよりも早い時間に出勤しなくてはいけないのだ。
それはクルミにも伝えてあって、だから早く寝ようとは話していた。
・・・いたのだけれど。
「おと・・・さ・・・か・・・さん・・・」
時折胸の辺りでクルミが囁く寝言のせいで、眠れないのだ。
いや、寝言のせいなのかその柔らかさのせいなのか、もはやよく分からなくなっている。
・・・なんだこれ。
必死にしがみついたクルミを引き剥がすのも可哀相で、カイは仕方なく彼女の抱き枕になったまま、ソファに横になっていた。
クルミが可哀相で仕方ないはずなのに、実際は悪くないと思ってしまう自分に、若干複雑な心境にもなっていた。
寝言で両親を呼ぶ彼女の声に、思わず彼は手を伸ばす。
天井を見上げながら、胸の辺りにある小さな頭を撫でて、息を吐いた。
「頑張ってるんだよな、きっと・・・」
寂しいと、彼女は言わない。
苦しいとも、嫌だとも。
放り込まれた環境に、屈しないように踏ん張っている。
それくらいのことは、一緒に過ごして察することが出来るようになった。
だから、馬鹿馬鹿しいような話も信じようと思ったのだ。
傍から見れば、ただの同情かも知れないけれど、それでも構わないと思えた。
それは、カイ自身が孤独を味わったことが、あるからだ。
小さな頭が震えた。
「ん・・・すば、る・・・」
「は?
ちょっと待て」
しんみりと、いろいろなことに考えを巡らせていたカイは、一瞬頭の中が真っ白になった。
この状況で、自分以外の男の名前があがるとは思わなかったのだ。
ただ意外で、そして、自分でも意外なほどにショック。
カイは、悪気もなく部下の名前を呼んだ彼女の頬を探りあて、軽く抓る。
「お前が一緒に寝てるのは、誰なんだ、つーの・・・」
「む、ぅぅ・・・カイさ・・・っ」
決して耳に入らないように囁いたのに、クルミがカイの名を呼んで、しがみ付いた。
同時に、きゅ、と体のどこかが締め付けられる。
「・・・っ。
さん、は禁止だって言っただろ・・・」
まったく、と息を吐いた彼は、天井を見上げたまま独りごちた。
「・・・なんなんだよ、もう・・・」




