閑話 ある夜の出来事
「う、んぅ・・・」
腕の中で身じろぎしたクルミに、カイの心臓が跳ねる。
眉根を寄せたまま、時折不快そうに息を吐いていたのは見て分かっていたものの、まさか目を覚ますことはないだろうと思っていたのだ。
「・・・ふ、ぅ・・・んん・・・」
彼女はどうやら、寝返りを打ちたいらしい。
軍服で包まれ、膝を抱えられて体が思うように動かないのが不快なのだろう。
口元が歪んで、瞼がぴくぴくと動いている。
カイは変に跳ねまわる鼓動を鎮めようと、呼吸を深くして息を整えた。
・・・普通に、普通に・・・。
頭の中では、大佐から聞かされた話が渦を巻いている。
彼は、目を覚ましたクルミの前で、普段通りの顔が出来るようにと心の中で唱えていた。
するとクルミの瞼が、ゆっくりと開いていく。
明け方の駐車場は静まり返っていて、夏の朝の湿った空気は、草の匂いがする。
空はうっすらと明るくなっていて、太陽の昇る方向には、雲がオレンジ色のグラデーションを湛えて輝いていた。
「・・・ん・・・」
わずかに開いた唇から、吐息と一緒に掠れた声が漏れる。
薄紫の瞳は気だるげに曇っていて、固唾を飲んで彼女の顔を覗きこんでいるカイを、ぼんやりと映しだしていた。
クルミが何かを言うのを待てないカイは、堪らず口を開く。
訊きたいことは、決まっていた。
「体、辛くないか・・・?」
起きぬけの霞みがかった意識の中、至近距離で囁き程度に問いかけられたクルミは、視線を右へ左へ彷徨わせる。
・・・ん、と・・・カイさん・・・?
・・・え・・・わたし、大佐の所で・・・?
精一杯頭を働かせたクルミは、ふいに自分の身に起きたことを思い出して鼓動が跳ねた。
その瞬間に自分の中から、どろり、と粘着質な何かが流れ出る感覚を味わう。
クルミは、ぎゅっと体の中が縮むような痛みを感じて、息を飲んだ。
するとカイが、固まった彼女を見下ろして、もう一度尋ねた。
「クルミ?
体は大丈夫か・・・?」
「・・・だ、いじょぶ、です」
落ち着いたカイの声に、クルミのたどたどしい言葉が応える。
朝を告げる鳥の鳴き声が聞こえる中、彼女は気だるげに瞼を持ち上げていた。
頭が酷く重く、時折鈍い痛みが響く。
「薬を飲んだって聞いたけど・・・どこが痛むんだ?」
「あたま・・・でも、ちょっとだけ」
「・・・24時間開いてるドラッグストアに寄るよ。
そこで、必要な物を買って帰ろう」
「・・・はい・・・」
・・・大佐から聞いたんだ・・・。
起こったことを知っているふうな口ぶりのカイを前に、クルミは半ば諦めに似た気持ちを抱く。
本当は隠しておきたいけれど、彼は半分保護者のようなものだ。
自分の体の変化を隠し続けて暮らすことは、きっと無理だ・・・クルミは自分にそう言い聞かせることにした。
・・・わたしも恥ずかしいけど、カイさんも恥ずかしいよね・・・。
・・・普通にしてくれてるってこと、だよね。
だんだんとハッキリしてきた頭で考えたクルミは、はた、と我に返る。
痛いとか、気持ち悪いとか、そんなことに構っている場合ではなかったのだ。
「あ、あのカイ、」
「ん?」
がんじがらめ、と形容したくなるような、身動きの取れない格好のままのクルミがカイを見上げて切り出すと、彼は視線を前に投げたまま続きを促した。
規則正しく、わずかに伝わってくる振動を感じながら、クルミは少し早口になって言う。
子どものように扱われるのは、恥ずかしかった。
「もう下ろしてくださ、」
「どうして?」
体の変化に対するそれとは別の恥ずかしさが込み上げたせいなのか、少し上ずった声になったクルミを、カイは喉の奥で笑い飛ばした。
「気にすることないだろ。
別に誰が見てるわけでもないし・・・それに、」
真っ赤になって訴えたものの、一笑に付されたクルミは口をぱくぱくさせる。
そんな彼女を一瞥して苦笑したカイは、ダメ押しとばかりに、そっと囁いた。
「こういう時は、男に甘えてもいいと思うけどな」
結局クルミは、カイの言葉に真っ赤になったまま沈黙している間に車に乗せられて、ドラッグストアを経由して帰路についたのだった。
そして、数日後の夜。
ごきごき。
「・・・何、今の音・・・」
コーヒーを片手に新聞を読んでいたカイは、ぎょっとして顔を上げた。
テレビは小さな音でニュースを伝えているから、おそらく効果音の類ではないはずだ。
そう見当をつけたカイが背後を振り返れば、そこには首を回しているクルミの姿があった。
「ちょ、クルミ?」
思わず声をかけて立ち上がると、彼女が振り返る。
「はい・・・?」
きょとん、とした表情を浮かべているけれど、その顔色があまりよくないことに、カイはすぐに気づいた。
無意識に速足になってダイニングテーブルに近づくと、ノートと参考書、筆記用具が転がっているのが目に飛び込んでくる。
初潮を迎えたクルミは、その日から今日まで家に引きこもっていた。
必要なものはレインからの帰りに買いこんでいたから、外に出る理由もない。
だるさと痛みの合間に、勉強に励む数日間だった。
今日も、朝カイが出勤するのを気だるげに見送って、日中は家事をして参考書を開いて・・・。
「ちょっと頑張り過ぎなんじゃないか?」
心配そうにクルミを見下ろしたカイが言うと、彼女は小さく首を振った。
「ううん、違うんです。
今日はちょっと、肩とか首が・・・」
「肩と首?」
椅子に腰かけたまま、クルミが首を回す。
すると、ぱき、と音がした。
「そんなことして・・・」
乾いた音に、カイは思わず手を伸ばした。
クルミの首を撫で、その細さに少し驚く。
そして、そっと指先に力を入れて、こり、と引っかかる部分を揉んでみる。
「・・・あー・・・」
老人のような声がクルミの口から飛び出したことに、カイは小さく噴き出すと言った。
「こっちおいで。
マッサージしてやるから」
クルミをラグの上に座らせて、カイはソファに腰掛ける。
「・・・よし」
自分の両足の間に収まった小さな背中が丸まっているのを見て、彼は手を伸ばした。
細い肩をやんわり掴むと、クルミの喉がわずかに強張る。
それを背後から見つめていた彼は、そっと息を吐いた。
「力、抜いて」
言い聞かせるように、言葉を噛みしめながらクルミの肩を撫でる。
クルミは、生地の薄いTシャツ越しにカイの手のひらから熱が伝わるのを感じて、ゆっくりと息を吐いて力を抜いた。
すると、大きな手のひらが蠢いて、ぐい、と指先で痛くて気持ちの良い場所を探り当てる。
「・・・あー・・・きもちー・・・」
「・・・おばあちゃんみたいだな」
小さく笑うカイは、けれど凝り固まった肩を揉む手から力を抜かずに囁く。
彼が身を屈めて、耳元を囁いたのを聞いたクルミは、胃の辺りが落ち着かない自分に違和感を感じて黙り込んだ。
戸惑っていると言い換えてもいい。
「・・・わ、わたし・・・」
そうしてしばらくの間、ぐいぐい、と肩を揉まれていたクルミは口を開いた。
「う、生まれて、初めて、肩、が、凝りました・・・」
ゆっくり言葉を紡がないと、肩揉みの振動で舌を噛みそうだ。
呟いたクルミに、カイが「そっか」と漏らす。
その声に、何とも言えない感慨を含んでいることに、本人も気づかずに。
「少し前まで13歳だったんだもんな・・・初めてか・・・」
「ぅ、ん・・・」
「痛く、ない?
いまいち力加減が分からないんだけど」
「きもちーです・・・」
念のために尋ねたカイに、クルミがうっとりと返す。
体の力がだんだんと抜けていく背中を眺めて、彼は両手を肩から離した。
「・・・おしまいですか?」
振り返ったクルミの顔に、「もう?」と書いてあるのを見たカイが、苦笑する。
そして、一度離した手を彼女の首に添えて囁いた。
「次は首な」
「ん・・・」
・・・何だろ、この感じ。
カイの声が耳元で聞こえると、胃の辺りや腰の辺りがむず痒くなる。
そんな自分の体の変調を不思議に思いつつも、クルミは彼の手が首の後ろをゆっくり揉み始めると、思わず目を閉じた。
首の付け根から頭の付け根まで、そっと力を加えて揉みほぐしてくれる手は、温かい。
夏の夜には暑いくらいの体温のはずなのに、彼の気配が近くにあることに安心する。
・・・お父さんもお母さんもいないけど、カイさんに会えて良かった・・・。
ふいに湧きあがった気持ちに、堪らず息を吐く。
ここしばらく思い出さなかった光景が、脳裏を掠めた。
鼻の先が、つんと痺れる感覚をやり過ごして、クルミは口を開いた。
「・・・ありがと・・・」
小さな声が聞こえたかと思えば、彼女の頭がかくん、と前に倒れる。
「え?」
突然のことに驚いたカイが、手を止めて覗きこむ。
すると、そこには目を閉じて寝息を立てるクルミの顔があった。
一瞬何事かと焦った彼は、彼女の様子を見て頬を緩めながら、そっと息を吐く。
そして、ゆっくりと腕を伸ばして、そのほっそりした体を抱き上げた。
「よ、っと・・・。
どうするかな・・・」
決して短くはない時間を一緒に過ごして、彼はクルミが突然眠ってしまうことがあることを、すでに知っている。
それが、本人の意思とは無関係に起こるということも。
おそらく、まだ眠りから覚めた体が本調子ではない、ということなのだろう。
生理のせいなのか夏バテなのか、食の細くなったクルミは数日の間に軽くなったらしい。
・・・もしかして、食ってないから血の巡りが悪いんじゃないのか・・・?
そんなことを考えながらも、彼は決めあぐねていた。
このまま寝室へ運ぶべきか、それともソファで様子を見るべきか。
時計の示す時間はまだ、就寝するには早い気がする。
「ん・・・」
小さく吐息を漏らしたクルミを抱えたままソファに座りこんだ彼は、そっと息を吐いた。
彼女の手が、自分の服の裾を掴んでいるのを見てしまったのだ。
「・・・参ったな」
ため息混じりに呟いたカイの口元には、笑みが浮かんでいる。
裾を握りしめる手から視線を外せば、その目じりに、うっすら涙が滲んでいることに気づいた。
「クルミ・・・?」
目を閉じた彼女の顔は、年相応だ。
滲んだ涙が、そう見せているのかも知れないけれど。
カイはゆっくり息を吐いて、彼女の目じりを指先でなぞった。
「守るって、言ったのにな」
指先についたものを、舐め取る。
「・・・しょっぱ・・・」
思わず呟いたカイの手が、クルミの髪の上を滑り降りていく。
「ん・・・」
身じろぎした彼女に吸い寄せられるようにして、カイはクルミの目じりに唇を寄せた。