5-3
後部座席とトランクが荷物で埋め尽くされた車は、アクセルを踏み込んだ反応が鈍い。
カイは、スピードに乗るまでに時間がかかるのを気に留めず、助手席に収まって大人しくしているクルミを一瞥した。
「で・・・俺は今日、夜勤なんだけど・・・クルミ?」
「・・・ん・・・?」
彼女の反応の鈍さに苦笑を浮かべたカイが、喉の奥で笑う。
張り切る店員の持ってくるものに、カイがなかなか首を縦に振らず、店のほとんどの服を試着させられる羽目になったのだ。
「いや、何でもない。
眠かったら寝てて。着いたら起こすから」
そう言って視線を前に戻した彼に、クルミは目を擦って首を振った。
「ん、ううん・・・」
「じゃあ、ちょっとだけ聞いてて」
「はい」
頬を抓ってカイの横顔をちらりと見たクルミは、欠伸を噛み殺して耳を傾ける。
西日の差す街には、仕事帰りなのかスーツ姿の男性や、ハイヒールを履いた女性の姿がある。
流れる景色の一つ一つに視線を投げていたクルミは、目の回りそうな感覚に思わず目を閉じた。
「荷物を下ろしに家に寄って、夕飯とシャワーを済ませたら出勤するから。
・・・朝の、そうだな・・・6時には帰れると思うんだけど・・・」
目を閉じた途端に沈みそうになる意識の中、カイの言葉を聞いたクルミは我に返った。
翌朝まで自分が1人にされる現実に、不安になる。
クルミは思わず、運転しているカイの服の裾を掴んで、その横顔を見つめた。
「・・・あの・・・」
咄嗟にカイの服の裾を掴んだクルミは、視線を彷徨わせた。
寂しいのには慣れている。
小さな頃から、両親が家に帰るまでは広い家に1人きりで家事をしながら、2人の帰りを待っていたのだから。
けれど、今回は違う。
知らない街で、ひと晩自分1人で留守番をすることに不安を感じたクルミは、しかしそれをどう言葉にすればいいのかと黙り込んだ。
頭の大部分を占めるのは、カイを困らせることで放り出されたらどうしよう、という別の不安。
赤信号に当たった車が、沈むように停止線に合わせて停車する。
ハンドルを握った腕が、くい、と引っ張られた感覚に、カイはちらりと隣を一瞥した。
すると、服の裾を掴んだまま固まっているクルミと、目が合う。
薄紫の瞳が、行ったり来たりを繰り返して、なかなか自分の方を見ようとしない。
カイは、目の前を横切る道路の歩行者信号の色を気にしながら、クルミに向かって口を開いた。
「クルミ?」
穏やかな声に呼ばれて、クルミは視線を上げる。
その視線が自分に向けられたと分かったカイは、歩行者信号が点滅していたのに気づいて、いくらか早口で囁いた。
「1人でいるのが怖いなら、少佐に相談してみようか?」
言い終わるのとほとんど同時に、視線を前へと戻す。
その途中、視界の端に頷くような仕草をしている彼女の姿を見て、彼は頬を緩めた。
「正直俺も、今のクルミに、ひと晩1人で留守番させるのは心配だったからさ」
クルミはカイの服の裾から手を離して、そっと息を吐いた。
とりあえず、夜通しテレビの前で不安と戦うことにはならずに済みそうだと、安堵して。
役所機能が営業時間を終えたレインは、正面玄関が閉ざされていた。
この時間からは、執政機能と駐留軍の区画へ立ち入る関係者は、専用の通用口を使う必要がある。
カイはクルミを伴って、通用口へ向かっていた。
向かう方向からは、退勤したらしい軍服姿の男女がちらほらと歩いてくる。
中にはカイに声をかける者もいて、クルミはそれに応える彼を横目に見ながら歩いていた。
車の中で眺めていた横顔とは、雰囲気が違うことに内心驚きながら。
・・・氷ヶ原で会った時と同じカオしてる。
・・・そりゃそうか、カイさんも軍人なんだもんね。
・・・でももう、カイさんは軍人だけど怖くない。
ぼんやりと考えながらカイについて歩いていたクルミは、ふいに視線を感じて振り返る。
そこには数秒前に擦れ違ったばかりの男性軍人がいて、彼女を見ていた。
「ん・・・?」
一瞬、視線の主と目が合ったものの、クルミが小首を傾げた途端に相手は踵を返す。
そそくさと立ち去る軍人の背を見ていると、頭上で息を吐く気配がする。
何だろうかとクルミがカイを見上げるものの、彼は肩を竦めるだけで何も言おうとしなかった。
「あの、少佐・・・?」
部屋の中へ招き入れた2人を見た瞬間、少佐は握っていたペンを取り落としていた。
パスをかざして通用口から入った2人は、少佐のもとを訪ねたのだ。
「少佐?」
反応のない上司に、カイが訝しげに尋ねる。
隣に立っていたはずのクルミは、いつの間にか彼の背中に隠れていた。
目を見開いて凝視され、彼女は一度は萎んだはずの少佐への苦手意識が、またしても膨らみつつあることに戸惑ってしまう。
悪いと思っていても、彼女はやはり軍服姿の男性が苦手だった。
軍服に強面、さらに鋭い視線で刺されるような感覚は、どうしても耐えられない。
カイが背中に隠れた彼女を、目だけで振り返った時、ふいに少佐が口を開いた。
「・・・その服は、誰が選んだ?」
冷たい口調に、クルミの背中にも冷たいものが走る。
思わず背筋を伸ばした瞬間、目の前のカイが少佐の問いに答えた。
「店員に任せました」
彼の声を後ろに立って聞いていたクルミは、その言葉を聞いて黙り込んだ少佐の顔を見ようと、ゆっくりとカイの隣に並んだ。
少佐は取り落としたペンを握り、手の中で弄んでいる。
そして、カイの隣に並んだクルミを一瞥した。
その瞬間に彼女の心臓が、きゅうぅ、と縮む。
鋭い目つきはそのままに、少佐は口を開いた。
「・・・心配だ」
すっと目を細めた少佐が言い放って、カイが頷く。
「同感です」
軍人同士の短い言葉のやり取りについていけず、クルミは内心首を捻る。
そして、少佐が多くのものを自分に与えてくれたことを思い出した。
「あのぅ・・・少佐、」
「少佐?」
声をかけられた少佐の片方の眉が、ぴくりと跳ね上がる。
さらに険しい表情を目の当たりにしたクルミは、喉元まで出かかっていた言葉を飲みこんで、立ちつくした。
・・・何、なんで怒ってるの・・・?!
ただ呼んだだけで睨まれた、と思ったクルミが言葉を失っていると、少佐がきっぱりと言い放つ。
「お父さんだ。
お前に少佐と呼ばれるいわれはない」
「お、おおお・・・?!」
言いたい言葉が、彼女の口の中で空回りしている。
隣ではカイが、くっ、と喉を鳴らす。
驚きと恥ずかしさでいっぱいになったクルミは、ぶんぶんと首を振った。
「む、」
「今は無理でも、慣れろ」
無理だと言おうとしたクルミを制した少佐が、言葉を続ける。
「で、私に何か言いたいことでもあったか」
無表情に先を促した少佐に、彼女は気を取り直して口を開いた。
口の中がカラカラなのは、この際気づかない振りをすることにして。
「・・・あの、いろいろ買ってもらって。
その、ありがとうございました」
そう言って、ぺこりと頭を下げたクルミは気づかなかった。
少佐が目元を和らげて、それを見たカイが息を飲んで固まっていたことに。
顔を上げたクルミは、少佐が無表情に頷いているのを見て、ほっとしていた。
とりあえず怒ってはいないらしい、と受け取ったからだ。
そして、カイが思い出したように言った。
「それで少佐、本題なのですが・・・。
私が夜勤の間、クルミを、」
「預かろう」
彼の言葉を遮るようにして申し出た少佐を、クルミが凝視する。
まさかの展開に、言葉も出ない。
カイは、そんなクルミの様子を盗み見て、どうしたものかと胸の中で苦笑してしまった。
このままの流れで話が進むと、どうやらレイン内に用意された少佐の個室で、クルミはひと晩過ごすことになりそうだ。
階級が上になればなるほど、拘束時間が長くなる。
緊急時になればなおさらだ。
そういった時のために、レイン内には大佐や少佐のための個室が用意されている。
キッチンこそついてはいないけれど、基本的に生活するのに困らない程度には設備が整えられた、シティホテルのような部屋だ。
1人で過ごす不安は拭ってやれそうだけれど、そうなると今度は緊張感を強いてしまうことになるのも目に見えている。
自分を見上げて不安そうに揺れる薄紫の瞳に感情をくすぐられつつ、カイは考えあぐねていた。
本人が嫌がったとしても、今のところ少佐の個室にいるほかに、選択肢が思いつかないのだ。
「・・・うぅ・・・」
隣でクルミが俯いて、小さく呻き声を上げている。
それを聞いて、彼女の頭に手を伸ばしかけたカイは、少佐の視線を感じて手を下ろす。
視線がまるで、鋭利な刃物のようだ。
少佐は鋭利な視線をカイから剥がし、クルミを見つめた。
その柔らかい目つきにカイが言葉を失って瞬きをしていると、少佐がクルミの名を呼んだ。
「クルミ」
どうしようどうしよう、と頭の中で同じ言葉を延々と呟いていたクルミが顔を上げる。
その刹那、ドアのノックされる音が響いた。
「わぁ・・・」
感嘆が、思わず口から洩れる。
暖色系でまとめられた部屋は、それまでの不安を包むようにクルミを迎え入れた。
「あ、靴はそのままでよろしいですよー」
ほんわりした声に頬を緩めた彼女は、頷いてそのまま部屋の主に続く。
ミルクティー色をした髪が楽しげに揺れているのを見て、クルミはほっと息を吐いた。
「クルたん、声が出るようになって良かったですねぇ。
心配していたんですよ」
ゆったりとした喋り方は、少佐とは真逆だ。
空気に溶けるような声に、クルミは頷いた。
突然のノックをしたのは、ダリア大佐だった。
仕事が一区切りして、次の指示を仰ぎにやって来たのだそうだ。
そして、16歳の少女らしく変身したクルミを目の当たりにし、さらに事情をカイから聞いたダリアは、喜んで自分の個室へ案内すると申し出た。
クルミにとっては、まさに渡りに船である。
もちろん彼女は、事情を説明したカイが少佐に思い切り睨まれていたことなど、気づくはずもなく・・・。
「ほんと、ありがとうございます」
鼻唄混じりで紅茶を淹れているダリアに、クルミは勧められたソファに腰掛けて頭を下げた。
置いてあるハートのクッションを抱きしめると、ふんわりと花の香りが漂う。
それに目を細めていると、ダリアはにっこり微笑んだ。
「いいえいいえー。
どうぞ寛いで下さいね」
楽しそうなダリアに微笑み返して、クルミは部屋をぐるっと見回す。
可愛らしい部屋だ。
「はい、どうぞ」
「いただきます」
紅茶をテーブルに置いた彼女は、クルミと同じようにハートのクッションを抱きしめた。
「なんだか、雰囲気が変わりました?」
「そう、ですか・・・?」
小首を傾げたダリアに見つめられたクルミは、照れ隠しに前髪を触りながら言葉を濁す。
「その服、とっても似合ってますね」
「えっと、ありがとうございます・・・?」
直球で褒められたことに顔を赤くして言うと、ダリアがソファを、ばふばふっ、と叩いた。
「可愛いです、クルたん!」
「く、くるたん・・・」
「あら、お嫌でした?」
「いえ、そうじゃ・・・」
少佐と顔を突き合わせているのとは、別の疲れを感じたクルミが、曖昧に話を途切れさせて紅茶を啜って喉を潤す。
丁寧に淹れられたそれは、ふんわりと良い香りがした。
「おいし・・・」
ほぅ、と息を吐いて思わず呟くと、隣でも同じように息を漏らす気配がする。
「ほっと、しますでしょう?
仕事の合間にも、ここで休憩してますの」
「へぇ・・・いいですね」
彼女の言葉に相槌を打っていたクルミは、ふいにやってきた痛みに、顔をしかめた。
ずきん、と鈍い痛みだ。
「あれ・・・」
持っていたカップを置いて、痛む場所に手を伸ばす。
足の付け根や、下腹部を擦って、首を捻る。
クルミが前屈みになっていく様子を見て、ダリアが声をかけた。
「どうしました?」
背中に手を当てて、次に額に手を当てる。
熱がないらしいことを確認して、彼女は絨毯に膝をついてクルミの顔を覗きこんだ。
「なんか、痛くて・・・」
けれど、耐えられないような痛みではない。
クルミは心配そうなダリアに向かって、口を開いた。
「いったたた・・・」
バスルームに駆け込んだ彼女は、おかしなものでも食べただろうか・・・と、昨日と今日の食事を思い出す。
幸か不幸か、思い当たることはなかった。
とにかく、と下着に手をかける。
痛みに脂汗が伝うのが分かって、クルミは浅い呼吸を繰り返した。
息を吸うと、下腹部に痛みが走るのだ。
つきん、と刺したり、どくん、と脈打つように痛む。
・・・わたしが何したっていうの・・・?!
半ば投げやりな気持ちになって下着を下ろしたクルミは、絶句した。
「え・・・?!」
頭の中が、真っ白になる。
真っ赤なものが目に入った瞬間、彼女は下腹部の痛みなど忘れて息を詰めた。