4-2
「おい、」
鋭い目つきを少しも和らげることなく、少佐は声をかけた。
その低い声に、浅い呼吸を繰り返していたクルミの鼓動が跳ねる。
彼女の反応をつぶさに観察していた少佐は、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
「聞こえなかったなら、もう一度言うが・・・」
ソファに背中を預けていた少佐が、ゆっくりと組んでいた足を解いて体を前に傾ける。
保たれていた距離が急に詰められた感覚に、クルミは圧倒されてしまう。
そして、動悸のする胸を押さえて必死に首を振った。
もう結構です、と心の中で叫ぶのと同時に、カイが早く戻りますように、と願う。
けれどその一方で、カイの目の前で同じことを突きつけられたら、と考えたクルミは、体の奥が震えた気がして息を詰めた。
すると固まったクルミを見ていた少佐が大きく息を吐き、額に手をやった。
「じゃあどうして、何も言わないんだ。
・・・というか、何故そんなに怯える」
一瞬手の向こうに見えた表情が、どうしたらいいんだ、と言っているように見えてしまって、クルミはようやく自然と口を開く。
「・・・だって、怖い・・・」
そうしてクルミがやっとの思いで素直に呟いた言葉を聞いた少佐は、ぴくりと眉を跳ね上げる。
「怖い?」
額を押さえる手の隙間から垣間見える目が、これ以上ないくらいの迫力を伴って自分に向けられているのを見た彼女は、思わず頷いてしまった。
どうやら彼女は、追い詰められると感情に嘘がつけなくなるらしい。
こくこく、と何度も首を縦に揺さぶるクルミに、少佐のこめかみが引き攣った。
「・・・そんなわけあるか」
地を這う声が、彼女の感想をはね付けて、言葉を続ける。
「これでも、かなり気を遣って喋ってるんだぞ・・・これ以上どうしろって言うんだ」
・・・嘘。気を遣ってるの。これで。
少佐の独白を信じられない思いで聞いたクルミは、心の中で呟いた。
そして、どう考えても自分は脅されていたような気がしてならない・・・そんな、納得のいかない気持ちになって口を開く。
「・・・じゃあ、怒ってない・・・?」
「ない」
恐る恐るの質問に、少佐はきっぱり短く言い放つ。
その言い方がすでに怒りに満ちていると思う・・・という心の内を隠して、クルミは息を吐いた。
すると、少佐が彼女が胸を撫で下ろしているのを見て言う。
「大体、明らかに自分より弱い者を威圧してどうする」
ため息混じりの言葉に、クルミは手をきつく握りしめて、そっと少佐の瞳を覗きこんだ。
静かに彼女を見下ろす瞳は、ほんの1ミリも動かない。
瞬きもせず、ただ、静かに彼女が何か言うのを待っている。
刹那の間視線を交えたクルミは、目を伏せて口を開いた。
「・・・ごめんなさい」
ぽつりと呟いた彼女に、少佐はわずかに目を見開く。
彼女が、何かを肯定したのだと気づいて。
その瞬間、少佐は思わず言葉を紡いでいた。
「迷子を保護するのは、レインとして当然だ」
クルミが、その言葉に伏せていた目を上げる。
薄紫の瞳が縋りつくように揺れているのを、見ない振りをして、少佐は続きを口にした。
今は、彼女が本当のことを話そうと思えるように背中を押そうと、その一心で。
「だが、お前の場合は特殊過ぎる。
・・・この街の住人ではないかも知れないなんて、あり得ないことだ。
街の外に、人は住めない。街から街へ移動するのに、あの草原は通れない。
正直、あの場所に人が、しかも子どもが倒れていること自体が不自然で不審だ。
・・・つまり、普通ではない事情で、あの場所にいた可能性が高い。
・・・万が一、危険因子だとしたら、保護するわけにはいかない。」
矢継ぎ早に並べられる言葉に、クルミは息を詰める。
それは、彼の言うことが図星だったからだ。
けれど、それまでと違って、彼女の耳には少佐の声がいくらか柔らかく聞こえていた。
耳を傾けていても、動悸もしないし息苦しくもならない。
目を見ても、次の瞬間にその力のある腕が自分を捕まえにやって来るような、そんな錯覚を起こすこともなかった。
そんな自分に気づいて、クルミは詰めていた息を吐く。
すると、少佐がもう一度口を開いた。
「・・・だが、セントラルの統一統治を覆そうという組織は、もうこの島には存在しない。
まあ、大戦中から属国だったから、そういう動きは当時からほとんどなかったが・・・。
ともかく、不審な迷子が街に悪さをしようと企んでいる可能性は、低いわけだ。
そこで、誘拐やそれに伴う監禁や人身売買、家出、夜逃げ・・・思いつく限り調べた。
でも、そういった案件で、クルミが該当するようなものはない。
・・・となると、私達の常識からかけ離れた事情があるのではないか・・・。
そう、結論付けることにしたんだが・・・クルミ、」
言葉の最後に彼女の名を呼んだ少佐は、わずかに目を細めて力を込める。
「そうなると、私達は得体の知れない迷子を保護することになるわけだ。
それでも今、きちんと事情を説明してくれさえすれば、必要な措置をとることも出来る。
平たく言えば、セントラルに報告せず、この街に溶け込むことが出来るんだ。
だが、私達が正しく事情を知り、保護するに値すると判断しない限りは無理なんだ。
得体の知れないたった1人のために、街の平和が脅かされるかも知れない・・・」
そこまで一気に並べ立てた少佐は、息継ぎをしながらクルミを一瞥した。
薄紫の瞳はわずかに揺らいだものの、きちんと彼の言葉を理解して受け止めようと、力を込めて瞬きをする。
そんな彼女の様子に、最後のダメ押しとばかりに、少佐は言葉を紡いだ。
「そんなことは許されない。
だからクルミの言葉で、私の疑いを晴らして欲しい。
それが出来なければ、セントラルレインに報告・・・おそらく移送になるだろうな。
こちらの事情を理解して欲しいとは言わないが・・・」
「・・・はい・・・」
淡々と語られた内容に、静かにクルミは頷いた。
少佐は、頷きを返しながら彼女を見る。
真剣な色を灯した瞳を瞬かせる彼女からは、怯えた様子はなくなっていた。
自然光が窓から差し込んで、再び部屋の中が柔らかい光に満たされる。
やっと会話が成り立ち始めた気配に安堵して、少佐は思わず胸の内でそっと嘆息したのだった。
そしてクルミもまた、そっと息を吐く。
少佐は基本的に怖いけれど、怖いだけで悪い人ではないかも知れない。
彼に対する印象が少しだけ変わった彼女は、思いきって口を開いた。
・・・黙ってても、移送。
・・・話したって、信じてもらえなかったらアルメリア送りになるってことでしょ。
反応を怖がる気持ちは、顔に出さないと決めて。
「・・・話は分かった・・・が・・・」
視線を彷徨わせた少佐が口ごもる。
思うように言葉が出てこないなど、これまでにない経験にも戸惑ってしまう。
まるで脳と口とが別々の意識の元で動いているかのように、ちぐはぐなのだ。
「カイにも、同じ話を・・・?」
「はい」
昨晩、カイとリクに話した内容を少佐に伝えたクルミは、強張りそうになる頬に力を入れて、ゆっくりと頷いた。
嘘をついていないと信じてもらえるよう、なるべく堂々と。
すると、そんな彼女に戸惑いながら少佐は問いかける。
「あいつは、信じたか?」
頬がぴくぴくしている少佐を目の当たりにして、思わず声が出そうなくらいに驚いたクルミは、一瞬言葉に詰まったものの、勢いよく頷いた。何度も。
決してにやけてしまいそうな頬を、誤魔化すためではない・・・と自分に言い聞かせながら。
その必死さが影響したのか、少佐は少し間を置いてから我に返ったように、いや、と首を振った。
「そんなわけないだろう。
大体、人間が数百年も仮死状態で氷ヶ原に眠っていたなどと・・・信じるなんて、」
「カイさんは、信じてくれたもん」
予想通りで正常な反応をした少佐から、クルミは、ぷいっと顔を背けた。
しかも、彼の言葉を遮るように。
そんな彼女が意外だった少佐は、驚いて自分が言おうとしていたことを忘れてしまう。
・・・ほらね、信じなかった。
・・・もういいよ。最初から、信じられるような話じゃないもん。
話しても話さなくても、クルミが疑わしいならセントラルへ連絡する必要があるのだ。
信じてもらえない可能性の方が高いのは彼女自身、良く分かっていた。
「・・・もん、って・・・お前な・・・」
とりあえず言おうとしていたことは置いておくことにした少佐が呟くと、彼女は息を吐く。
口を尖らせる姿は、自称13歳だ。子どもそのもの。
「声は、最初は本当に出せなかったんです。
・・・たぶん、目が覚めたばかりで、体がちゃんと動かなかったんだと思います。
最初の日から何日か、突然充電が切れたみたいに眠くなったし・・・」
思い出しながら、決まり悪そうに呟いたクルミに目を遣りつつ、少佐はその言葉に耳を傾けた。
少佐は時計を一瞥した。
カイはまだ戻らない。
それはそうだ。自分が医務室に手をまわして、30分ほど彼を足止めするようにと、指示を出しておいたのだから。
もともと子どもと接することが得意でない少佐は、30分は長すぎたか、などと苦虫を噛み潰したような気持ちになった。
けれど、カイ抜きで事情を聴く必要があったのだ。
彼はきっと、クルミが傷つかないように盾となる。
妹をそうして守ることが出来なかった自分を、悔み続けているから。
「・・・あ、と、記憶は・・・目が覚めて、車に乗って氷ヶ原を見たら、思い出して。
わたしも、自分に何が起きたのか、頭の中で整理出来るまで言えなかったんです。
それに・・・本当のこと、話したって・・・」
少佐から顔を背けながら、言い訳をするように話をするクルミは、そこまで話すと言葉を切る。
そして、膝の上で両手を握りしめて、歯を食いしばった。
言葉にするには、勇気が要る。
寂しいと、認めたくない。
「・・・誰も、わたしのこと知らないし。
わたしも、誰のことも知らない。
話したって・・・頭がおかしいと思われるだけだって、そんなの分かってたもん・・・」
クルミの頬に、ぐっと力が入ったのを、少佐は複雑な心境で見つめていた。
そんな少佐の胸の内を知る由もなく、彼女はゆっくり息を吐いて、言葉を吐き出す。
「でも、カイさんが・・・味方になるって、言ってくれたから・・・」
言葉の最後に張り詰めていた声が震えてしまったクルミは、呼吸を深くして少佐に向き直った。
瞬きは、極力しないようにと瞳に力を入れながら。
「だから、少佐には信じてもらえなくてもいいです。
アルメ・・・じゃ、なくて・・・セントラルに移送でも何でも、して下さい」
ともすれば怒っているかのような強い口調に、少佐がわずかに目を見開いた。
ひと呼吸遅れて、彼は、それが彼女の強がりなのだと気づく。
すると、クルミが声を漏らした。
「あ、でもあの・・・」
ノックの音に続いて、ドアが開く。
顔を覗かせたカイは、恨みがましそうな表情を浮かべている。
それを見た少佐が、苦笑いをしながら彼を手招きした。
「・・・クルミ、お前が開けるんだ」
カイに封筒を差し出された少佐は、クルミを見て言った。
「・・・いいんですか?」
大判の封筒をカイから受け取りながら、彼女は無表情な少佐に視線を投げる。
控えめに、窺うように問いかけた彼女に、少佐は鼻を鳴らした。
「いいも何も、お前の診断結果なんだが・・・」
「そうですけど・・・じゃあ・・・」
ベリベリ、と接着部分を剥がす音が、静かな部屋に響く。
クルミの隣では、カイが腰掛けて彼女が封を切るのを見守っていた。
そのカイは、部屋に戻った時から・・・いや、医務室を出た時から顰め面をしている。
一体誰が、医務室で自分を引きとめるように命じたのか、確認しなくとも分かりきっているからだ。
少佐は、クルミの告白に戸惑ったものの、とりあえずカイからも話を聞くつもりでいた。
幸か不幸か、話の途中でカイが戻ってきたことで、彼女の話を信じるかどうか、という結論を出すまでには至らなかったのだ。
そしてクルミは、自分の話が少佐に信じてもらえたのか、釈然としないものを抱えながらも、カイが顔を覗かせたことに安堵した。
ただ、その表情を見ると、なんだか雲行きが怪しい気がして、気が重くなったのだけれど。
カサ、と紙の擦れる音と一緒に、クルミの小さな指先が1枚の薄い用紙を封筒から引っ張り出す。
透かしの入った紙の一番上に“KURUMI”と名前が書かれているのを確認して、彼女はその下へと視線を移した。
性別と血液型、身長や体重、体脂肪・・・基本的な自分の身体の情報を、順番に目で追っていると、ふいに隣でカイが声を上げた。
「おい、ここ・・・」
そう言って、彼が指を指す。
「え?」
診断結果を読み込んでいたクルミは、カイの言葉を聞き逃して瞬きをした。
すると彼は、もう一度見つけた部分を指差して言う。
「ここだよ、ほら」
武骨な指の指す場所に目を向けた彼女は、目を点にした。
「え・・・?!」
一瞬で頭の中が真っ白に染まったクルミは、その数値を凝視する。
見間違いかと瞬きをしても、それは変わることはなかった。
硬直したまま動かなくなったクルミを見かねたのか、カイが数値を読み上げる。
「・・・16、って書いてあるな」
“16”
その数字の横には、“Age”の文字。
彼女の、年齢だ。