4-1
翌日、早朝。
キッチンにて。
「・・・お、」
「お・・・?」
リビングでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたカイは、目が合った瞬間にひと声発して固まったクルミを見て、小首を傾げた。
どれくらいの間2人して微動だにせず見つめ合っていただろう。
「う・・・、はぁ・・・っ」
ついに、クルミは息苦しさに耐えきれなくなって口を開いた。
思い切り酸素を吸い込んで、用意していた言葉を紡ぐ決心を固める。
「お、おはよ、ございます・・・カイ」
大きくはない口をもごもごと動かして絞り出した挨拶に、カイは目を丸くして、ただ頷いた。
「う、うん・・・おはよう、」
そして手にしたマグカップを口元へ持っていこうかどうしようかと、その手を彷徨わせながらも、彼は遠慮がちに言葉を紡ぐ。
「クルミ・・・」
それは、彼らの、声に出して交わした初めての挨拶だった。
挨拶と表現するには少し、ぎこちないけれど。
他人の部屋をまるごと借りているクルミは、持ち主の物になるべく触れないようにしながら生活していた。
カイの話では、1年前に持ち主は亡くなっているということだけれど、部屋の中は時間が止まったかのように、生活感に溢れている。
“その日”の朝、“彼女”が着る服を迷ったような形跡。
“彼女”が机の上に出したままのプリントには、アンダーラインが引いてある。
クルミは、カイがそういう、この部屋に散らばっている“彼女”の名残を、遺品として整理出来ずに今日まで過ごしてきたことを、なんとなく察していた。
カーテンを開けた時、明かりを消した時。ふとした瞬間に“彼女”の息遣いを感じるのだ。
夏の日差しにも負けない真っ白なブラウスに、袖を通す。
するんとした布地は、引っかかりもなくクルミの肩を包んで隠してくれた。
小さく息を吐いた彼女は、机の上に置かれたままの鏡に映った自分の顔を覗きこむ。
小首を傾げればポニーテールが揺れて、彼女は自分の薄紫の瞳をまじまじと見つめた。
すると、ふと声が聞こえた気がして視線を移す。
見遣った窓の外に、通学時間なのか子どもたちが何かを話しながら歩いて行く様子が見えた。
「・・・学校かなぁ。
わたし、中学校の途中で終わっちゃったんだよね。
・・・そういえば、皆はちゃんと卒業出来たのかな・・・?」
言葉をせき止める必要がなくなった彼女は、独り言を呟いて目を伏せる。
皆、という単語から思い出されるのは、半分の人数しか着席していない教室。
教壇に立つ教師が、目の前に座る教え子達と目を合わせようとはしないことに、違和感を感じながらも黙っていた自分とクラスメイト達。
その後を確かめる術がないことに思い至ったクルミは、そっと首を振って、頭の中に浮かんだ思い出を打ち消した。
そして、我に返って目に飛び込んできた、鏡に映る自分の顔に驚いてしまう。
眠りにつく前も、目覚めてからも何気なく見ていた自分の顔だけれど、急に大人びて見えてしまったのだ。
「おっかしいな・・・。
わたしって、こんな顔だった?」
髪型のせいかな、と呟きながら、鏡を横目に見たりして細部まで観察してみる。
美容室で髪を切ってもらった時には、少し顔の輪郭がほっそりしたような気がした。
けれど、それはきっと美容室の鏡だから、そう見えるように出来ているのだろう、と彼女なりに解釈していたのだ。
友達の恋の話を聞いて学習していた彼女は、それなりに自分の見た目に敏感だった。
髪型も服装も、年齢的に許される範囲で身なりを整えることが、楽しくもあった。
そのあたりは、思春期に差し掛かった少女の、健全な心の成長でもあるだろう。
それが、ひたすら声を押し殺し、正体を隠していた彼女の緊張が溶けた今になって、彼女は自分の顔つきの些細な変化に気がついたのだ。
もともと少し大人びているという自覚はあったけれど・・・。
「えー・・・なんか、気持ち悪い・・・」
自分の顔なのに不気味に思えて、クルミは眉根を寄せる。
すると、ドアの外から声がかかった。
「まずは、少佐に報告に行こうと思ってる」
家を出て数分、最初の信号でブレーキを踏んだカイは、ちらりと助手席に大人しく座っているクルミを一瞥して、口を開いた。
熱のこもった車の中は、まだ冷房が効いていない。
じんわりと汗ばむのを感じながら、クルミはどう返事をしたらいいものかと一瞬言葉に詰まった。
報告というのは、クルミが長い間氷の繭の中で眠っていたことだろう。
それくらいのことは、すぐに分かった。
けれど、それを信じてくれるかどうか、そんな彼女をどうするつもりなのかが、全く見えない。
彼女がそんなことを考えて口ごもっていると、カイは静かに言葉を紡ごうと口を開いた。
彼の頭の中にあるのは、氷ヶ原が溶けだしている、という事実である。
「・・・少佐には、ちゃんと話しておいた方がいい。
病気のこととか、話したくない部分は省略しても構わないから」
「でも・・・わたし、軍の施設に入れられたりとか、しませんか?」
沈んだ声で尋ねるクルミに、カイが答えようとしていると信号が変わり、彼は開きかけた口を閉じてアクセルを踏んだ。
一瞬目の前にことに集中した彼は、そういえば、と思い当たる。
クルミを保護した夜に、彼は「監視カメラ付きの独房」の話をしたのだ。
自宅についてくることを彼女が選ぶように、まだ身元がはっきりしないからと、半ば脅かすような言い方をしたのだった。
彼は、ちくりと胸を刺す罪悪感に気づかない振りをしながら、前を走る車と一定の間隔を保つように意識を傾けつつ、再び口を開く。
「たぶん、大丈夫だと思うけど・・・。
健康診断も済ませたんだし、そこで何も引っかからなかったら、精密検査もないだろうし。
・・・とにかく、何をするにもクルミには戸籍がない。
それを解決したいけど、少佐と統治官の理解と協力がなくちゃ始まらない」
いくらか早口になって言葉を並べた彼に、クルミは両手を膝の上で握りしめた。
「信じてもらえなかったら?
わたしが、頭のおかしい子だと思われたら?」
肩を落として力なく呟いた彼女が、苦しそうに顔を歪める。
「カイまで、おかしくなったと思われたら・・・?」
静かなエンジン音が、囁くような独白を飲み込む前に、カイは小さく笑った。
「別にいいよ。
そうなったら、似たもの同士で仲良くやろう」
ポニーテールを揺らしてその顔を仰ぎ見たクルミの胸に、カイが自分の話を信じてくれているという実感が、じわじわと沁みこんでくる。
少しだけ、痛みを伴って。
それを隠すように、彼女はそっと微笑んだ。
ノックの音に、中から声が返ってくる。
「・・・失礼します」
カイは、少佐の声に珍しく緊張する自分を自覚しつつ、ドアノブに手をかけた。
斜め後ろで胸を押さえて深呼吸しているクルミに、目で合図を送ってドアを開ける。
「おはようございます、少佐」
踏み出しながら朝の挨拶を述べて、カイは机で事務仕事をしている少佐に視線を投げた。
「ああ、おはよう。
すまない、座って待ってくれるか。すぐ終わる」
手に持った書類と、机の上に置いた書類を見比べているらしい少佐は、彼の言葉には目を上げずに答える。
そんな少佐に短く返事をしたカイは、クルミを目で促してソファにかけた。
そして、隣にゆっくりと腰を下ろした彼女の背を、ぽんぽんと軽く叩く。
照明が灯されていない部屋の中は、窓からいっぱいに入って来る自然光で十分明るい。
クルミの黒髪に綺麗な輪が出来ているのをカイが眺めていると、彼女は、背を叩かれて緊張から我に返ったように彼を振り返った。
ぱちぱち、と瞬きを繰り返す彼女に、彼の目は、自然と弧を描こうと和らいでしまう。
そうして、わずかに緊張が緩んだ時だ。
ガタン、と少佐が立ち上がる気配に、2人は、はっとして視線を向けた。
「おい迷子」
呼びかけの声が、条件反射のようにクルミの肩をぴくりと揺らす。
図書館でツヴァルグ統治官から逃げ出して、迷い込んだこのフロアで少佐に怒られたのは、一昨日のことだ。
彼女の中では、少佐は怖い人、という固定概念が出来上がってしまっていて、今も咄嗟に息を飲んだきり、彼女は口を開くことが出来ずにいた。
すると、気遣わしげに彼女に声をかけようとしたカイを目で制して、少佐が口を開く。
「・・・声と記憶が戻ったというのは本当か?」
声色は相変わらず、自分が叱られているという錯覚を起こさせるけれど、その言葉に彼女は思わず視線をぶつけていた。
そんな彼女を見て、カイがそっと囁く。
「俺が今朝、電話したんだ。
少佐は忙しい人だから、あんまり時間もない。
あらかじめ事情を伝えておいた方が、会話がスムーズに運ぶだろ」
そのひと言に、クルミはこくりと頷いた。
もちろん、そこにカイの仕事が絡んでいることになど、考えが及ぶはずもなく。
「そういうわけだ。
・・・ああそうだ、カイ。
健康診断の結果を、医務室に取りに行ってくれるか」
「え、あぁ・・・はい」
早口に告げた少佐に戸惑いながら、彼は立ち上がろうと腰を浮かせる。
前もって必要なものを届けさせることも少佐なら、電話一本で命じることが出来る。
それなのに、これから持ってこさせようなどと・・・と命令に勝手に動こうとしている体とは別に、頭の隅で考えながら、カイは手を伸ばした。
伸ばした先は、クルミの頭だ。
ぽんぽん、と軽く頭に手を乗せたカイは、不安そうに彼を見上げるクルミに「すぐ戻る」とだけ囁いて部屋を出た。
少佐の言葉で、あっという間に部屋を出て行った後ろ姿に、クルミはぽかんと口を開けていた。
すると、正面から少佐が声をかける。
「カイは、親切にしてくれているか」
静かな問いかけに、クルミは恐る恐る口を開く。
ぶつけるような言葉の紡ぎ方を止めたらしい少佐の、ゆっくりと置くように、耳に届けられた言葉に彼女は頷いた。
「はい、とても」
「そうか、それは良かった」
・・・なんで、そんなに優しい顔してるの・・・?
穏やかに相槌を打つ少佐に違和感を覚えたクルミは、内心で訝しげに首を傾げる。
そして、カイからはどんな話を聞いたのだろうか、という疑問が湧いた。
けれどその疑問を口にするよりも早く、少佐の質問が降ってくる。
「ところで、記憶はいつ戻ったんだ?」
「それは、図書館で調べ物をしてて、急に、」
「何の本を?」
「れ、歴史の・・・」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐ少佐に、クルミは気圧されていた。
答える途中で、次の質問がやってくるのだ。
入れ替わり立ち替わり、頭の中に言葉を詰め込まれて混乱しそうになる。
そういえば・・・と、空になったお椀にお蕎麦をどんどん補充される光景が、記憶の彼方から勝手に脳裏にしゃしゃり出てきた。
そんなクルミに、少佐が追い打ちをかける。
「歴史?
記憶がないのに、歴史を調べようとしたのか?
最近の出来事や世界の情勢のことでなく?」
「えっと、あの、レインとか、セントラルとか、」
「自分が何者なのかを知りたいなら、街の様子を見た方が早いんじゃないのか?」
「あ、あの、」
言葉で追い込まれたクルミが、責められた気分になって言い淀む。
すると、少佐は大きく息を吐いて、ソファの背に体重を預けるようにして、足を組んだ。
そして、短く彼女の名を呼ぶ。
「クルミ」
その眼差しには、疑問の色はない。
何かを断じるような、温度の灯らない瞳。
「最初から、記憶はちゃんと残ってる。戻ったんじゃない。最初からあった。
だから、何か理由があって、この街や世界の歴史を知りたかった。
・・・違うか?」
「・・・え・・・?」
「それに、」
薄紫の瞳が、大きく見開かれる。
呆然と声を漏らしたクルミに、鋭い視線をぶつけるようにして、少佐が言葉を重ねる。
自然光がたっぷり入りこんでいるはずの部屋が、わずかに翳った。
「・・・声も、本当は失ってなどいなかった」
「カイが戻る前に、腹を割って話してもらおうか」
彼女の喉から空気の漏れる音がして、少佐は目を細めた。
クルミはそんな少佐の眼差しを受けて、血液が逆流しているのではないかと思うくらいに、心臓が忙しなく鼓動を刻むのを感じて、浅い呼吸を繰り返す。
薄紫の瞳が、瞬きするのも忘れて少佐を映し出していた。