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彼が、自分が頬を引っ叩かれたのだと認識するまで、どれくらいかかっただろうか。

その瞬間、コウをはじめラッシュとスバルが息を飲んだのも分かったし、少女が青ざめて手を引っ込めたのも分かった。

目の前で、ぶるぶる震える手を胸元で握りこんでいる彼女を見ながら、別に激昂しているわけじゃないのにな、とカイは思う。そして、思いのほか驚きも怒りもせずに淡々と状況を見ている自分がいることに気づく。

いつまでも耳の奥にこだまする乾いた音は不快であるけれど、彼はそれをおくびにも出さずに、震え続ける彼女から少しだけ距離を取る。急に動いて、悲鳴でも上げられたら困る。それこそ、こちらが変質者か犯罪者・・・ともかく彼女に危害を加えようと寄ってたかっているかのようだ。

そんなことを考えながら一歩退いたカイは、彼女の容姿をようやくまともに見ることになった。

長くうねる黒髪は、ところどころ絡まっているのか毛玉のようなものがある。下手したら小鳥が中から飛び立つのではないか。

薄く紫がかった瞳は彼を映して小さく揺れているし、黄色人種らしいわりに白っぽい肌が日差しを反射しているように眩しい。

部下たちが彼女を兎だと呟いたのを聞いていたカイは、なるほど、とおかしな部分で納得して内心頷いた。

確かに、小動物。

「あの、大丈夫ですか」

かなり控えめに声をかけたのは、スバルだった。声をかけたはいいが、彼の視線が右に左に動いているのを見ていたラッシュは、その言葉が2人のうちどちらに向けられたものなのかと、内心首を傾げてしまう。

「そちらの・・・お嬢さん」

「お前、どんだけ育ちがいいんだ」

「我が家では、女性が世界で一番偉いので」

呆れたように言うコウに視線を投げたスバルが、至極真面目な表情で言い返す。

「ちなみに、女性を大切に出来ない男性は世界のゴミだそうです。

 ・・・母曰く」

「ごちゃごちゃ面倒くせーな、お前んち」

「すみません」

その頃、目の前で繰り広げられる、場違いなほど緩いやり取りに彼女は呆然としていた。

ただっ広い草原で自分が何をしているのか全く理解していないのだけれど、とりあえず目の前で暢気なやり取りをしている男達は、自分に危害を加えようとしているわけではない、ということはなんとなく分かる。

呆けていると、一番近くで自分を見ている男と目が合った。茶色い髪と黒い瞳。街に溢れる、よくある容姿に彼女は胸を撫で下ろす。

「おい、」

カイは、自分を見つめて呆然としている少女に向かって口を開いた。

うわの空になっていた彼女は、はっと我に返って彼と視線を合わせる。そして、返事をしようとして違和感に気がついた。

そんなふうに視線を彷徨わせた彼女を不審に思った彼は、すっと目を細める。

「名前は?」

そっと腰の辺りに片手を回しながら尋ねる彼を見た彼女は、その仕草が何を意味しているかを当然知っていた。同じようにした人間たちを、見たことがあったから。

一瞬脳裏に翻った光景に飲まれた彼女は、彼の問いかけに答えることが出来なかった。

すると、彼は更に不審に感じたのだろう。声が大きくなった。

「答えろ」

険のある声を聞いた彼女の喉が、ひゅっと小さく音を立てた。

風に撫で回されてぼさぼさになった頭が、小刻みに震える。恐怖に見開かれた瞳が、無表情なカイの顔を映し出す。

傍から見れば、か弱い少女に襲い掛かる暴漢のようでもあるが、カイは自分に与えられた任務に忠実だ。それは、他人よりも早く昇格するために必要なことであったし、軍人としては褒められるべきことだった。最初は操り人形のようで抵抗があったものの、そういう生き方をして家族を守るのだと決めてしまえば楽になれた。

そうやって彼は、この数年を生きてきたのだ。守るために、傷付けることを厭わない。

「・・・東の街の人間じゃないな」

それは問いかけでも推測でもなく、断定に近かった。

カイは少女が答えないことに苛立ち、そのままに言葉をぶつける。

「どこから来た?

 仲間はどこに潜んでる・・・いや、一向に襲ってこないくらいだから、捨てられたか」

「・・・っ」

小さく息を飲んだ少女は、喉元を押さえて歯を食いしばった。ぎり、と音がするのを、カイの耳は律儀に拾う。

そして、小さな電子音。

「カイさん、」

ややあって、控えめに声をかけたのはラッシュだ。

カイは仕方なく追い詰めていた獲物から目を離して、通信機を手にした部下に視線を投げる。

「タスクさん達が、こっち来るって言ってますけど」




数人分の足音が聞こえて、カイはようやく立ち上がった。

少女がどうしてここにいるのか、何故眠っていたのか、名前や出身、年齢などを聞いても震えるばかりで何も答えず、結局ただ睨み合いを続けていたのだが。

「お疲れさま。

 ・・・うわ」

やって来たタスクは驚いて目を見開いた直後、短く声をあげた。視線の先には、へたり込んだままカイを見上げる少女。

カイはそんな彼女の視線を綺麗に無視し、腰に手を当てて息を吐いて、タスクの後ろからやって来る部下たちに手を上げる。

おそらく上司のその仕草は、労いの意味を持っているのだろう、と彼らは思っていた。誰も口にしないけれど。

「あれ、コウさんは・・・?」

リクが呟いたのに、ラッシュが少し離れた場所を指差した。草に紛れて、赤茶けた塊が見え隠れしている。

「飽きたらしいです」

小動物に興味のない彼は、自分の出る幕がないと決め付けて寝転んだのだ。

これもこの部隊ではよくあることで、それぞれが苦笑してみたり適当な相槌を打ってみたりと、気にするふうでもない。

「カイ君・・・この子、ここにいたの?」

「ええ。

 ・・・眠ってました」

タスクの質問にため息混じりに答えたカイは、沈痛な面持ちで言葉を紡いだ。

「君、街の子?」

リクが草の上に腰を下ろして、少女に問いかける。

彼女はその体格の良さに、動物園で見たことのある白熊のようだと思う。熊なんて、怖い種類の動物であるはずなのに、彼の持つ声はそれに似つかわしくない穏やかさを滲ませていた。

そのことが、先程まで無数の針でちくちくと攻撃されていた彼女の呼吸を楽にする。

肺いっぱいに酸素を取り入れた彼女は、そっと首を横に振った。

そんな彼女の素直な様子に、苛立ちを覚えたのはカイだ。自分が問いかけた時には、怯えていただけだというのに・・・と、心のどこかが過敏に反応してしまう。

「街の子じゃなかったら、一体どこから・・・?」

それは、と言おうとした彼女は、また感じた違和感に喉元を押さえた。

喉のどこかに膜が張っていて、そこから先に空気を押し出すことが出来ないのだ。

「もしかして、」

声を出そうとして何度か力んだ彼女を見たリクは、小首を傾げた。

「声、出ない?」

こくり、と少女が頷く。

その様子を見ていたカイは、彼女が喉を押さえていたことを思い出した。

「字は書ける?」

一問一答式の会話に、彼女がまた頷く。

こうして見ていると、扱いやすい少女なのかも知れない、とすら思える。

カイは、こうすれば自分でも会話が成り立つのでは、とも思ったけれど、結局2人のやり取りを静観することにした。頭を冷やすことにしたのだ。

よく考えれば、あのコウが警戒しなかったのだ。おそらく少女に敵意はない。そんなことにも気が回らなかった自分は、今日という日に飲まれているのだろう・・・そんなことを思いながら。

「じゃあ、俺の手に自分の名前、書いてみて。

 ・・・名前が分からないと、戸籍の照会が出来ないから」

そう言って差し出された大きな手のひらを凝視した彼女は、戸惑いながらも人差し指で、遠慮がちに自分の名前を綴る。

「やたらと長い名前なんだな」

彼女が真剣に指を動かしているのを見ていたカイは、自分なら2秒あれば終わるのに、と思いながら呟いた。

ぽろりと口から零れたような呟きでも、しっかりと彼女の耳に届いていたようだ。一瞬、その体がびくりとする。

そして書き終わって指を離した彼女に、リクは訝しげな視線を送った。

「・・・これ、本当に君の名前?」

言われた本人は、小首を傾げる。まるで意味が分からない、とでも言いたげだ。

「ちょっと手、貸して」

リクが同じように彼女の手のひらに自分の名前を書く。すると、彼女は彼の名前の通りに唇を動かした。

「・・・読めるんだね。

 なら、同じように書いてみて」

そう言って、リクは手のひらを彼女に差し出す。頷いた彼女は、その手のひらにもう一度自分の名前を書く。

「クルミ」

呟いたカイを、彼女が凝視する。息を飲んで、何度も瞬きをして。

紫色の瞳が自分に向けられたのを受け止めたカイは、もう一度ゆっくり発音した。

「クルミ、で合ってるか?」

確認するように言ったカイに、彼女は嬉しそうに頷く。なんだかよく分からない、正体不明の涙が滲みそうになるのを堪えて、泣き笑いのような可笑しな顔になってしまった。

「・・・変な顔」

思った通りの感想を述べれば、クルミがきょとん、として小首を傾げる。それに苦笑して肩の力を抜いたカイは、ゆっくりと腰を下ろした。

「悪かったな・・・いろいろ。

 君には関係のないことで、苛立ってたみたいだ」

静かに言葉を並べると、彼女とは違う方から声がする。

「今日、なんだよね・・・」

「ええ」

同じように静かに呟いたタスクに、カイが頷く。

そして気がついた。誰もそのことに触れてこないということは、きっと部隊の全員が気づいていて、自分をそっとしてくれていたのだということに。

かさぶたにもなっていない傷を撫でられるのは不快だから、かえってその方がありがたい。

カイは、その話題をそれっきりにして、やはり不思議そうにきょとんとしているクルミに手を差し出した。

彼女は、彼の手をじっと見つめるばかりだ。

「立てる?」

そう尋ねた彼の手を、彼女はあろうことか両手で掴んで目の前からどけようとする。そして、代わりに自分の手のひらを彼に差し出した。

「・・・ああ、名前?」

横からリクが聞いてみると、クルミは嬉しそうに頷いて、期待感に満ちた瞳をカイに向ける。

「遊んでる場合じゃ・・・」

ため息混じりにぼやいた彼は、彼女の手首をぐい、と掴んで一息に自分の名前を書きなぐる。自分を見上げる瞳がくすぐったくて乱暴になってしまうだなんて、どこの少年だ・・・と心の中で自分にがっかりしながら。

そんな複雑な思いが込められていることなど露程も知らない彼女は、ぐりぐりと指先からかかる圧に、こそばゆい気すらして身を捩りながらも、必死に彼の名前を読み取ろうとする。

そうしていると、彼はやはりため息を吐いた。

「俺たちが話していることは分かるんだろ?

 手に書かないで、発音した方が早いと思う」

そのひと言に、彼女の唇が「あ」と開いたのを彼は見逃さなかった。



それから、眠りこけていたコウを文字通り蹴り起こし、彼らは街へ帰還することにした。

仕事らしい仕事をしていなかったコウがぶつぶつと文句を並べながらも、意外にも穏やかな運転をしたおかげでクルミが乗り物酔いをすることもなく。


彼らにとっては、不思議な迷子を街へと送り届けるだけ。

そんなつもりだったのだ。



草原は、今日も風が吹きぬけていく。日差しが降り注いで、遠くまで見渡せる。

小高い丘へ続く道の途中で、クルミはそっと後ろを振り返った。長く伸びた髪は視界を邪魔するけれど、それを両手で押さえつける。

青々と茂る緑が続くものと思われた草原の先には、氷原が広がっているのが見えた。

小さく息を飲んだ彼女は、音もなく冷たく凍り続ける平原を見つめる。

風の音が、ごうごうと耳の奥で暴れているのを、そのままに。








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