3-7
断片的で色あせた記憶の片隅。
そこに、こびりつくようにして残っている最後の両親の姿を、クルミは思い出そうとしていた。
カフェオレの入ったカップは、ぬるさを通り越して、冷たくなっている。
それを両手で包んだまま、彼女はテーブルの一点を見つめて、静かに記憶を辿っていた。
カイは、意固地になって否定し続けたものを、受け入れようと決めて。
リクは、とんでもないことに首を突っ込んでしまった自分に、落胆して。
そんなふうに黙り込んだ2人の気配を感じて、彼女は呼吸を整える。
テレビから発せられる雑音が、耳から遠く離れていった。
「わたしが生まれたのは、2671年・・・。
世界大戦が始まったのは、たぶん7歳か8歳くらいの頃です。
まだ世界のことなんか知らなかったから、属国になったことなんか気にしなかった。
外国の軍人さんがたくさん来て、知らない国に行ったみたいで、楽しくて・・・。
わたしのお父さんとお母さんは、科学者でした。
軍の施設なのかな・・・ちゃんと教えてもらったことはないけど、2人で何かの
研究をしてるって、話してたのは覚えてます。
毎日忙しいから、わたしがごはんを作って、洗濯をして、掃除もして・・・わたしが、
“お母さん”みたいだった。
戦争中だったけど、わたしの周りはあんまりそういう雰囲気じゃなかった。
戦争に行ってる人が、周りにはいなかったからかも。
とにかく、わたしは毎日普通に過ごしてた。
・・・2人のお弁当を作って、学校に行って、帰ったら掃除と洗濯で・・・宿題をして、
ごはんを作って・・・。
そんな普通の生活がおかしくなったのは、友達が学校に来なくなってからだった」
そこで、彼女は一度言葉を切った。
ほとんど全てが真実だけれど、この先を話すには勇気が要るのだ。
ちらりとカイを一瞥したクルミは、彼が自分を見つめていることに気がついた。
いつから見ていたのだろうか、どうして見ているのだろうか、などと次々に考えが浮かんでは消え、同時に鼓動が速くなっていく。
彼女は、不安だけでなく緊張まで背負いこんで呼吸を整える。
カイの表情は真剣そのもので、それがクルミに彼が軍人であることを連想させた。
そして、同じ軍人であるリクが、この場で困惑したような表情を浮かべて自分を見ていることに気がついた。
「・・・どうした?」
瞳が揺らいで困惑しているらしいリクには目もくれず、カイは言う。
短い言葉の中に、穏やかさが潜んでいるのを感じ取ったクルミは、無意識に瞬きをする。
「ちゃんと聞いてるよ」
困ったような笑みを浮かべたカイが、隣からクルミを覗きこむ。
彼が心の中で「今までちゃんと聞いてなかったからって、そんなに驚かなくても」などと思っていることに、彼女は全く気付くこともなく頷いた。
「友達が、突然学校に来なくなったの。
風邪を引いたからだって、先生は言ってた。
でも、その子は、いつまで経っても学校に来なかった。
おかしいな、って、思い始めた頃、また別の友達が学校に来なくなった。
先生は、その子が疎開したからだって、言ってた。
そうして、また別の子が学校に来なくなって・・・。
気がついたら、クラスの半分がいなくなってて・・・それで・・・」
「・・・疎開って、何?」
言葉に詰まったクルミに、カイが質問した。
「あ、疎開っていうのは・・・大きな街から、田舎に逃げること。
大きな街は、敵に狙われるかも知れないから、そういう場所から引っ越すの」
「ふぅん・・・田舎って、何?」
「えっと・・・」
・・・そっか、田舎、ないんだもんね。
頭の中に小さな島を描いたクルミは、カイの当然の疑問に苦笑しながら、やはり自分の生まれた時代と全く違うのだと実感して、口を開いた。
「田舎っていうのはね、人も建物も少なくて・・・自然がたくさんある場所のこと。
畑があったり、田んぼがあったり。
・・・野生の動物も、山にたくさんいたりして・・・」
自分自身に、田舎に住む祖父母などがいなかったこともあって、彼女は思い描く田舎のイメージを言葉にして並べていく。
そして、この世界に置き換えるとしたら、と考えて思いついたのは。
「この時代だと・・・街の外みたいな、感じの場所・・・なのかなぁ・・・」
小首を傾げながら言葉を紡いだクルミに、カイが驚いて言った。
「そんな危険な場所に、人が住むのか・・・。
それでも街から離れた方が安全だなんて、クルミは危険な時代に生まれたんだな」
自分の知っている場所を想像しながら、彼が呟く。
なんだか尊敬の眼差しを向けられているような気がする・・・と不思議に思って、その意図を推し量ったクルミは、慌てて手を振った。
彼が、重大な勘違いをしていることに気付いたのだ。
「危なくなんか、なかったの。
あの時代には、ナラズモノなんかいなかったから」
そのひと言に、カイとリクは同じようにして固まった。
「それで、さっきの話の続きをするけど・・・」
前置いたクルミが、ナラズモノの話題を避けるように言葉を続けるのを聞いて、カイは頷いた。
目覚めて初めて見た異形のものが、よほどショックだったのだろう・・・そう思ったのだ。
「クラスの子が次々にいなくなったのは、病気にかかったからだって先生が言ったの。
治らない病気だから、入院してるって・・・。
何が原因なのかも分からないから、とにかく家の中に入っていなさいって・・・。
わたしも、よく分からないけど自分は大丈夫だろうって、思ってた。
でも、そのうちテレビで病気のことが流れるようになったの。
そうしたら、お父さんもお母さんも、家の中でなんだかイライラするようになって」
そこまで言葉を並べた彼女は、小刻みに震え始めた手をテーブルの下で、ぎゅっと組んだ。
脳裏に浮かぶ恐怖の記憶に、邪魔をするなと蓋をするつもりで。
カイは、表情が硬くなった彼女に気づいて、何と声をかけるべきなのか迷っていた。硬さの中に、何かと戦っているような気迫のようなものを感じたからだ。
もはや視界の隅で戸惑いに固まっているリクのことは、気にかけるつもりもない。
薄情と詰られようが、今のカイにとっては部下よりも、妹の居た場所に留まってくれる彼女のことの方が、何倍も大事だった。
その気持ちが捻じれていることなど、どうでも良いと思えるほど。
「ある日の朝、目が覚めたら頭がガンガンして、熱があって・・・。
ああ、わたしも病気に罹ったんだって、分かった。
・・・お父さんもお母さんも、青ざめて、泣いてた・・・。
そこからは、記憶がぶつぶつ切れてる・・・。
わたしが大勢の軍人さんから銃を向けられてて、お父さんとお母さんが叫んでた。
広い草原で、わたしは怖くて、ものすごく怖くて・・・。
2人はわたしを氷の繭の中に入れて・・・生きて、って言って・・・」
「・・・氷の、繭の中・・・」
ぽつりと呟いたリクは、呆然と俯いているクルミを見つめる。
小刻みに震えているらしい彼女が、その氷の繭の中で眠り続けていたなどと、到底信じられそうになかった。
けれど、その横で彼女の背を擦るカイを見ていると、彼女の語ったことが全くの虚構であるようにも思えない。
あの仕事人間で、どちらかというと人間不信の気があるカイが、保護した少女の、おとぎ話のようなことを並べ立てただけの話を真剣に聞いていたのだ。
しかも、一度信じなかったものを、自分の頭を柔らかくして受け入れようとしているらしい。
そんな様子を目の当たりにしてしまっては、リクとしても全否定しようという気持ちにはなれなくなってしまう。
途方に暮れたように息を吐いたリクの気配に、クルミが視線を上げた。
すると、カイが口を開く。
「その病気っていうのは、今は大丈夫なのか?
例えば、俺達に感染するとか、そういうことは・・・?」
街中に謎の病気が蔓延するかも知れない、というほの暗い予感が、彼の中に湧き上がる。
その言葉に、彼女が背中を震わせたのを手のひらで感じ取ったカイは、彼女を安心させるように背を擦りながら、静かに言葉を待つ。
責めるような口調にならないのは、彼女から見るとここは未来で、そうなると医療も発達しているのではないかという、とても楽観的な考えがあるからだ。
そして同時に、たとえ彼女が何かの病気を患っているとしても、その存在を煙たがったりしない、と当然のように構えていたからでもある。
「・・・わたしの体から病気のウイルスが消える頃に、繭が溶けるって・・・。
あと・・・確か、テレビで・・・。
ええと・・・大人の人は、感染しないって言ってた気がする・・・」
カイの手の温かさを背中に感じたクルミが、言葉を選んで紡ぐ。
すると、彼はほっと息を吐いて頷いた。
「なら、健康診断も大丈夫だな」
コーヒーを淹れなおしたカイは、テレビを眺めてソファに沈み込んでいるクルミに声をかけた。
「クルミ?」
一瞬、またしても寝てしまったのかと勘繰った彼を裏切るかのように、彼女が振り返る。
「はい?」
最後の最後まで戸惑いを隠すことが出来ず、衝撃を受け止めきれなかった様子のリクは、少し前に帰っていった。
どうやって帰るのかと心配したクルミに、彼は引きつった口元で曖昧に微笑んで、頭の中を整理しながら歩いて帰ると告げたのだった。
そんな彼に、カイは硬い声で「他言するな」と言い放って。
頷いたリクの目が、それまでの表情から想像もつかないほど真剣なことが、クルミの印象につよく残っている。
振り返ったクルミに、カイは苦笑しながら首を振った。
ソファとキッチンは少し離れているけれど、彼女が小首を傾げて不思議そうにしている様子が十分に見える。
「また寝ちゃったかと思った」
皮肉めいた言い方に、クルミが明らかにむっとして言い返す。
「あれは、目が覚めたばっかりで、体が言うこときかなくて・・・」
言葉の最初こそ尖っていたものの、尻すぼみにその声が薄れていく。
それを見ていた彼は、コーヒーをひと口啜ってから、カップをテーブルに置いた。
そして、ソファに腰掛けた彼女の前に膝をつく。
クルミは、突然目の前に膝をついた彼を見て、目を丸くする。
「あ、あの?」
自称13歳は、大人の異性に跪かれた経験など、皆無だ。しかも、至近距離など。
下から覗きこまれるようにして見つめられて、彼女は視線を彷徨わせた。
決して艶めいた気配が漂っているわけではないのに、自分の奥の方まで覗かれているような気分になって、とにかく落ち着かない。
気持ちがそわそわして、彼女は耐えきれずに服の裾を掴んだ。
膝の辺りが空気に触れて、手のひらがじんわりと熱い。
「・・・カイ、さん?」
何か言って欲しい、と言葉の外に含めた彼女は、すがるような気持ちで彼を見つめ返した。
すると、カイがおもむろに口を開く。
「もう、」
囁くような、言葉をそっと置くような、そんな言い方に彼女は耳を傾ける。
「体は大丈夫?」
カイは、クルミが怯える様子もなく薄紫の瞳を自分に向けていることに、心が静かになっていくのを感じていた。
問いかけに、彼女がこくりと頷く。
「それなら良かった。
明日は、一緒にレインに行かなくちゃいけない」
「はい」
小さな声が自分の声を追いかけるように応えるのも、耳に心地よく響いた。
目を細めたカイは、頷いてからそっと手を伸ばす。
「俺、」
クルミは、カイの手が自分の手に重ねられたのを見て、はっと息を飲んだ。
そして、遅れてその手が温かいことに気づく。
重ねられた手に視線を向けていた彼女は、彼の黒い瞳がわずかに揺れたことに気づかなかった。
「酷いこと、しちゃったな。
・・・目覚めたばかりのクルミを、怖がらせちゃったし。
話はちゃんと聞かなかったし・・・」
重ねた手が、わずかに力を込める気配に、クルミは首を振る。
もういいのに、と気持ちが湧きあがってから、自分がもう喋ってもいいことを思い出した。
「ごめん」
短く告げられた謝罪の言葉に、彼女はもう一度首を振る。
「カイ・・・さん」
「カイでいいよ」
咄嗟に呼んだ名を訂正されて、彼女は口ごもる。
年上を呼び捨てなどして、いいものかと思ってしまうのは、自分が日本人だからだろう。
そんなことで自分と彼の間にある壁に改めて気付いた彼女はそっと、息を吸い込んだ。
気が遠くなるほどの時間を渡った彼女が、この壁を壊さなければいけないと思えるようになったのは、彼に話せたからだ。
目覚めた場所で生きていくことは、彼女に与えられた二度目の命のようなものだった。
「じゃあ、カイ・・・?」
窺うように呼びかけた声に、カイはそっと目を細めて頷いた。




