3-6
「彼のこと、覚えてる?」
カイの問いかけに、クルミはこくりと頷いた。
忘れるはずもない。
目覚めて意識がはっきりした瞬間、目の前に存在していた軍人に恐怖が爆発しそうだった彼女を、リクの穏やかな声が落ち着かせてくれた。
その時に、クルミは彼のことを“いつか見た白熊みたい”だと、ぼんやり思ったのだ。
「・・・こんばんは」
囁き程度の挨拶をして、クルミはぺこりと頭を下げる。
そんな彼女を目の前にして、リクは驚きのあまりに言葉を失ったまま立ち尽くした。
目に映るクルミの何もかもが、彼の記憶の彼女とは全く別物だったから。
夕食を済ませ、食後のコーヒーをテーブルに並べ終えたカイは、息を吐いて腰を下ろす。
椅子が、ぎし、と鈍い音を立てて、それを支える。
クルミを保護した初日の夜に、同じダイニングテーブルで聴取をしたのかと思うと、今夜3人で静かに・・・いくらかの緊張を伴ってはいたけれど・・・食事をしたことが彼には信じられなかった。
そして、思えばほんの数日間で自分の生活が一変したことに気づく。
静寂が部屋に満ちるのを嫌ったカイが、なんとなくテレビをつけたままにしているから、リビングには1日の出来事を伝えるニュースが流れている。
他愛のない話題から、犯罪や事故。ちょうど今は、若い女性からバッグをひったくる犯罪が、路地裏で多発しているという内容のようだ。
片方の耳でそれを聞き流すカイの頭の中に、沈殿した泥のように居座っているのは、部隊室でリクが話したこと・・・クルミが綴った、文字のことだった。
カイは自ら用意したコーヒーには手をつけずに、テーブルの上で手を組んでリクに目を遣る。
すると、それを待っていたかのように、リクが口を開いた。
「ずいぶん、雰囲気が変わったね」
部隊室で、明らかな緊張感を漂わせていたはずの彼は、普段の穏やかさを取り戻している。
クルミはそんなリクの言葉に、素直に頷いた。
そして、テーブルの上で手を組んだまま、黙っているカイを一瞥してから言葉を紡ぐ。
「髪を、切らせてもらいました。
それから、服とか、いろいろ必要なものも、買ってくれました・・・」
彼女が喉の調子を確かめるように、時折詰まりながら話すのを、カイは不思議な気持ちで見つめていた。
喋ることが出来るクルミは、少しだけ自分から遠のいたように感じてしまう。
「カイさん、が・・・」
小さな声が自分の名を呼んだのを聞いたカイは、わずかに指先が動揺したのを隠すように、マグカップに手を伸ばした。
そうして、なんとはなしに視線を彷徨わせていると、リクが自分を見つめていることに気づいて、彼は小さく咳払いをしてカップを置いた。
そんな彼を、クルミが不思議そうに見つめて小首を傾げていることにも、もちろん気づいている。
けれど、カイはテーブルの中心をじっと睨みつけて、リクが彼女に“確かめたい”と言っていたことを尋ねるのを待っていた。
「・・・声も、戻ったんだ」
「あ・・・」
穏やかな声が、すっとクルミに向けて迫ってきて、彼女は半ば反射的に声を零す。
ほんの少し開いたまま固まった唇は、息を吸い込んだままだ。
リクは、彼女が何かしらの言葉を紡ぐのを待つ。
リビングには、街の端にある水田で、稲が風に揺れる様子を伝える音声が流れている。
若干の緊張感が漂う3人の間に似つかわしくない話題は、クルミの耳を素通りしていった。
「はい、昨日。喋れるようになりました」
彼らはその声に耳を澄ませて、言葉を拾う。
「そう、良かった」
ほんのりとした笑みを浮かべ相槌を打ったリクは、わずかに目つきを険しくして続けた。
「急に訪ねてきて、申し訳ないんだけど・・・訊きたいことがあるんだ」
穏やかだったリクが、雰囲気を変えたことに気圧されたクルミが、言葉を返す。
「・・・訊きたいこと・・・?」
そんな彼女の表情を窺っていたカイは、助け舟を出すように口を開いた。
「嫌なら話さなくてもいいよ」
咄嗟に飛び出した台詞が、いくらか早口になってしまったことに気付いて、彼は複雑な心境を誤魔化すようにカップを傾けた。
そして、苦いコーヒーの風味がため息と一緒に鼻から抜けていくのを感じながら、昨夜クルミがノートに綴った内容を思い出す。
リクがクルミに何を尋ねるつもりなのかは分からないけれど、彼は、昨夜の彼女の言葉を見て見ぬ振りをしてしまった自分を、苦々しく感じていた。
口の中に残る苦さが、一体何なのか分からなくなるほど。
・・・そうなの・・・?
答えなくてもいい、と言われたクルミが恐る恐る頷いて、リクを見る。
頭が重く感じるのは、料理をするのに邪魔だった髪をお団子状に纏めたからだろうか。
そんなことをぼんやり考えていたクルミに、リクは口を開いた。
「声が戻ったということは・・・記憶も、戻ったのかな」
「・・・それは・・・」
窺うように尋ねたリクは、彼女が恐怖の記憶を乗り越えて、声を取り戻したと思っていた。そして、そうなると会話が成り立ちやすいのではないか、と期待もしていた。
「頭の変な奴だと思うかも、知れないけど・・・」
前置きに、クルミの鼓動が跳ねる。
ほとんど同じ不安を、彼女自身も抱えていたからだ。
どくん、と自分の鼓動が鈍い音を立てたのを全身で感じた彼女は、リクの表情が強張っていることに気づく。
何を尋ねられるのかは分からなくとも、何となく、嫌な予感がした。
・・・何を訊かれても、落ち着いて。動揺したら、暴走させちゃう。
自分に言い聞かせながら、彼女はそっと手を伸ばす。
コーヒーの飲めないクルミのカップには、ミルクを多めにしたカフェオレが入っている。ちなみに砂糖も割と多めに。
ぬるくなったそれを口に含んだ彼女は、ほんのわずかに残ったコーヒーの風味を飲み下してから、言葉に迷った様子のリクを見つめた。
そうして無言で先を促されたリクは、思い切ったようにクルミを見据えて、言葉を紡ぐ。
「君が俺の手に書いたあの文字は・・・もしかして、“漢字”じゃないのか」
問いかけに、カイが口を開いた。
その途中で横目に見たクルミは、驚きに目を見開いている。
「何だ、それ」
訝しげに質問した彼に、リクがどう説明しようかと考えを巡らせている間に、息を止めて驚愕の表情を浮かべていた彼女が、勢いよくカイを振り返った。
「え?
・・・な、なんだよ・・・」
責められたような気分になって、彼は若干体を引く。
「“祝福文字”の、原型になったもの・・・だそうです」
「しゅ、く、ふく、もじ・・・?」
聞き取れた単語をたどたどしく繰り返したクルミに、リクが目を合わせて頷いた。
「そう。
・・・この街に伝わる、子どもに名前を付けるための文字だよ」
「俺は、海っていう意味の文字から、カイ。
リクは・・・何だったっけ」
「大地を意味してると、親から聞きましたけど・・・。
それで・・・その、“祝福文字”の原型が“漢字”らしいんだ」
説明がてら男同士でやり取りをして、リクが最後にクルミに向かって話す。
「君が俺の手に綴った文字は、この街に残ってる“祝福文字”の中にはなかった。
だから、それより前の“漢字”に遡って調べてみたんだけど、君の・・・クルミ?」
言葉の途中で、大きく息を吐いた彼女に気づいて、リクが呼びかける。
そして、少し難しい話をしてしまったのかと考えていると、彼女はそっと口を開いた。
「来海は・・・来る、という意味の漢字と、海、という意味の漢字で・・・。
わたしの、」
その静かな口調とは裏腹に、薄紫の瞳は大きく揺れてテーブルの上を彷徨い、カップを包む両手にはぎりぎりと力が込められている。
「・・・ん?」
絶句しているカイをよそに、リクが俯いたままの彼女に尋ねた。
すると、視線をわずかに上げたクルミは、ゆるゆると首を振る。
「・・・わたしの名前です・・・」
「それで、」
突然降って湧いた話題に圧倒されていたカイは、我に返って口を開いた。
「その“漢字”がどうしたんだ?」
「あ・・・そうですね、」
そのひと言に、リクが本題から逸れてしまっていたことに気付いて、居住まいを正す。
そして、俯いたままのクルミに向かって、言葉を選んだ。
「ええと・・・。
つまり、“漢字”は大昔の文字で・・・クルミは、」
「迷子だろ」
間髪入れずに口を挟んだのは、カイだ。
背もたれに体重を預け、腕を組んだ格好をして、真っすぐに視線でリクを射抜く。
けれど、その彼の頭の中では、昨夜の話がぐるぐると同じ所を行ったり来たりしていた。
「カイさん・・・俺は真面目に、」
「仮にクルミが答えたとしても、記憶は断片的だし、当てにならないんじゃないか?」
「それは・・・」
「その“漢字”だって、図書館で調べた程度で得られる知識なんだ。
・・・クルミが記憶を失う前に見聞きしていて、断片的に覚えていたとしても・・・」
矢継ぎ早に言葉を紡ぐカイに、リクが圧倒されて黙り込んだ、その時だ。
クルミが、顔を上げた。
「漢字を初めて習ったのは、6歳の時です。学校で・・・。
・・・その頃は、まだ、みんな日本語を使ってたから」
小さく、けれど力の込められた声に2人は絶句した。
テレビから発せられる笑い声が寒々しく響く中、彼らはクルミを凝視する。大きく目を見開いて、息を詰めて。
リクに至っては、頭の中が掻き回されたようで、頭が混乱して仕方なかった。
・・・日本語とは何だ?
・・・漢字を学校で習う?
彼女の話したことの中に散らばる言葉を集めようとしても、到底理解の及ばない内容に、手も足も出せないのだ。
そしてカイは、自分の視線を、まるで迎え撃つようにして受け止める彼女の眼差しを見つめた。
真剣そのもの。必死さも滲む、自称13歳の迷子。
その表情に、言葉が出てこなくなってしまう。
彼女の言葉は絵空事を描いていたと思うのに、それを否定する台詞が自分の口から出てこない。
そんなはずはないと、言いたいのに。
心の中で何かの踏ん切りがついたクルミは、さらに言葉を重ねようと呼吸を整えた。
2人が何かを言う前に放ってしまわなければ、と気持ちが急く。
「だから、わたしの名前は漢字を使ってるんです。
親戚も友達も、近所の人たちも、みんなそうでした。
けど、世界大戦が始まって属国になってからは、日本語は使えなくなって・・・」
必死になって話すクルミに、リクが混乱した頭を何とか宥めて言う。
「あの、ちょっと、良く分からないんだけど・・・」
半笑いになってしまうのは、可笑しいのではなくて頬が引き攣ってしまうのを止めることが出来なかったからだ。
リクは可笑しな表情を刻んでしまう頬を両手で軽く叩いて、彼女を見つめる。
そして、気になっていたことを聞くことが出来たというのに、その先に待っているものを垣間見て怖じ気づきそうになっている自分に気がついた。
感じた違和感に安易に手を出すべきではなかったのかと、反省に似た気持ちすら抱く。
ただ、見たことのない文字が印象的で、それを調べたら大昔の時代の文字だということが分かって、どうして知っているのかと、本人に確かめずにいられなかった・・・そんな些細な興味が、彼女を訪ねさせたのだ。
一方、彼女の言葉を否定出来ない自分を自覚したカイは、波立った心を鎮めようと、組んだ腕をゆっくりと解いた。
同時に、ゆっくりと息を吐く。
頑なになっていた自分の一部を、吐き出すように。
そしてテーブルに腕をついて、瞳の中に何かを燻ぶらせている彼女の顔を覗き込む。
すると、薄紫の瞳が、カイの視線に気づいて揺れる。
昨夜、瞳を揺らしたのは自分の方だったな、と思い出した彼は、小さく、自嘲気味に笑った。
それを見たクルミが、わずかに眉根を寄せる。
「・・・昨日は、ごめん」
「え・・・?」
すぐ傍で囁きを聞いた彼女は、思わず聞き返す。
無意識のうちに見えない壁を作っていた彼女の雰囲気が和らいで、小首を傾げるのを見てしまったカイは、自然と頬が緩むのを抑えられなかった。
そして、そのままひと言伝えることにして、口を開く。
「信じるよ・・・クルミの話」
「・・・え?」
唐突な宣言に、彼女が困惑した表情を浮かべてカイを見返す。
2人の向かい側に腰掛けたリクは、いまいち会話の内容が掴めずに、ただその光景を眺めていた。
「昨日の話・・・。
クルミが、世界大戦の前に生まれたっていう話。信じるよ」
カイの口から零れた台詞を聞いてやっと、リクは自分がとんでもない答えに辿りついてしまったことに、気がついたのだった。




