3-5
大げさなくらいの音を立てて閉じたドアを背に、クルミは震える息を吐いた。
・・・どうしよう・・・喋っちゃった・・・!!
ばくばく煩く鼓動を刻む心臓を、胸の上から押さえつけて肩で息をする。
落ち着こうと深呼吸して吸い込んだ空気が、他人の匂いに満ちていて、彼女は眉をしかめた。
今はもう存在しない自分の家にも、匂いはあったと、クルミは思う。
だから、家には住んでいる人の匂いが染みつくのだということは知っているし、少しの間だけれど、この部屋で過ごして不快に感じたことはなかった。
他人の部屋を借りているのだからと、納得していたのだ。
それなのに、今さらながら匂いが気になってしまったクルミは、手のひらから鼓動の音を感じ取りながら、呼吸を整える。
そして、ほんの少し前にも、同じような匂いを嗅いだことに気付く。
カイの腕が、彼女を捕えた時だ。
気付いた途端に背中がむず痒くなったクルミは、そわそわと落ち付かなくなる手を握ったり開いたりしながら考えを巡らせた。
・・・ああいうのって、ああいうのって・・・。
その時だ。
頭を抱えた彼女の足元で、パキ、という音がした。
はっと我に返ったクルミが音の出所へ視線を移す。
彼女はそれが、床の鳴る音ではないことを知っているのだ。
・・・やだ、
その光景に、息を詰める。
彼女の足元が、冷たい音を立てて凍り始めていた。
やがて形を成したものは、月明かりを反射する、鋭く尖った氷の塊。
最初は一本だったものが、次々と彼女の足元の至る所から生まれ出る。
そして、それぞれが蔦のように曲がりくねりながら、ゆっくりと、けれど不自然な速さでお互いに絡まり合いながら伸びてゆく。
・・・ちょっと待って、待って・・・!
慌ててその場から離れようとするも、氷の蔦は床を這って彼女が踏み出す邪魔をする。
パキパキ、と簡単に折れそうな音を立てながら成長する、茨のように刺々しい氷の蔦。
少し手を伸ばせば、その棘で傷つくのが目に見えていた。
身動きが取れず、為すすべのない彼女の周囲に蔦が伸びる。
それは鳥籠のように彼女を取り囲み、あっという間に腰の辺りにまで達した。
・・・お願い、止まって・・・!
彼女が祈るような気持ちで氷の蔦に触れようとした、刹那。
「クルミ?」
そっと、囁くような穏やかな声色が、彼女の指先をぴくりと震わせた。
同時に、緊張感を漂わせてドアの向こうへと意識を集中させる彼女に同調するかのように、氷の蔦の成長が止まる。
まるで一緒になって、外の世界の様子を窺っているかのようでもあった。
彼女は自分が氷に囚われそうになっていたことも忘れて、鼓動が跳ねたのを感じ取る。
そして、返事をするべきかどうかを迷って視線を彷徨わせた。
ドアの向こうにいる彼が彼女の言葉を待っていることは明白で、それはクルミ自身も分かっているのだけれど・・・。
「おい・・・クルミ?」
ひと言目よりも怪訝そうな色が滲む声に、彼女は息を吸い込む。
もう、隠しても仕方ない。
事情のひと欠片は晒してしまったし、咄嗟に口から言葉が飛び出したのを彼は知っている。
いくらか冷静さを取り戻した彼女は、そっと口を開いた。
「はい」
小さな声が返ってきたことに、聞こえないように注意を払いながら息をつく。
ほんの少しの物音にも、ドアの向こうの少女は口を閉ざしてしまうような気がしたのだ。
カイは、頬を緩めてドアに手を当てた。
木で作られているそれは、温もりを吸い込むように感じる。
「さっきは、ごめん」
そっと紡いだ言葉に、気配は返事をしなかった。
しんと静まり返った廊下で、彼は自分の鼓動がわずかに速くなっていることを気にしながら、彼女の言葉をじっと待つ。
クルミが逃げ込むようにして妹の部屋に戻った直後、カイは冷静さを取り戻した。
彼女の口から言葉が出たのを聞いて、嬉しくて可笑しくて、思わず頬を緩めた彼だったけれど、一転して自分のしたことで彼女が逃げ出したことに思い至ったのだ。
それでもすぐに追いかけるだけの勇気はなく、何をどうしたらいいのかと考えを巡らせて、ようやくドア越しに声をかけたというわけである。
するとしばらくして、やはり小さな声が返ってくる。
「・・・いえ」
その言葉に、ちくちくと棘が含まれていることは、さすがのカイも気付いていた。
彼女が怒って当然だと、自覚しているのだ。
突然抱きついてしまった自分が痴漢とどこが違うのか、と問われれば、はっきり答えられないところが悲しい。
静かな声音とは裏腹な思いがあることを察しているカイは、とにかく謝るしかない、ともう一度口を開いた。
「ほんと、ごめん。
なんていうか・・・その・・・自分でもよく・・・」
言い訳がましくなる自分を意識すると、途端に言葉が出てこなくなる。
直接顔を見て話しているわけではないというのに、後ろめたさに顔を上げることが出来なくなってしまった彼は、そんな自分にため息をつく。
・・・それにしても、柔らかかった・・・。
口を閉じて思い出すのは、腕の中に収まった少女の体の柔らかさ。
ここ1年ほどは気分が乗らず、女性に触れる機会もなかった彼だけれど、人並みに人生経験は積んで過ごしてきたのだ。
今さら、少し女性に触れたくらいで調子が狂う自分が、情けなくて仕方ない。
そして、こんな姿、部隊の連中には見せられないな、と思いつつ力なく頭を垂れる彼に、囁きが返ってくる。
「・・・あの、気にしてませんから・・・」
棘の消えた気配に、彼はそっと顔を上げて息をついた。
「やっぱり溶けてる・・・」
諦めに似た気分で呟いたカイは、きらきらと太陽の光を反射する氷原を見つめていた。
涼しげに流れ出た水で出来た広大な水たまりが、青空と白い雲を映し出している。
一見すればそこは、思わず見入ってしまうような光景が広がっている。
けれど、やっぱり自分の勘違いではなかったのだと突きつけられた気がして、カイはため息が漏れるのを抑えることが出来なかった。
頬を撫でる風は、いつもより穏やかだ。
3台に分かれて見回りに出た第8部隊は、限界まで氷ヶ原に近づいた場所に車を止めていた。
「こんなこと、あるんですね・・・」
同乗しているスバルが、呟いたカイに向かって相槌を打つ。
あまり驚いた様子がないのは、彼がセントラル出身だからかも知れない。
そんなスバルを横目に、カイは昨夜のクルミの言葉を思い出していた。
彼女は“氷ヶ原が溶け出したのは、自分が目覚めたから”だと言っていたのだ。
・・・そんなこと、あってたまるか。
彼の知る限り、氷ヶ原は危険な場所で、先人達の中には調査しようと近づいて凍死してしまった人間もいたはずなのだ。
カイは、そんな場所とクルミに関係があるなどと、考えたくはなかった。
もし繋がりが出来てしまえば、セントラルが彼女を放っておかないだろう。
彼らは、世界の均衡と秩序が乱れる予兆や気配に敏感なのだ。
軍用車から氷ヶ原を眺めて苦々しく頷いたカイは、退屈してしまったのか、運転席で目を閉じてじっとしているコウに、視線を移した。
少佐への報告を済ませたカイは、大した運動もしていないのに疲れがぶら下がったように重い足を引きずって、部隊室へ急いでいた。
廊下の突き当たりにある窓から西日が入って、白い壁に紅色に染まった部分が出来ている。
それを見て夕暮れ時になったことに気がついた彼は、家の残してきたクルミの顔が思い浮かんでしまうのを見ない振りで、ドアノブに手を伸ばす。
「まだいたのか、リク」
静かに佇んでいるリクに気づいて少なからず驚いたカイは、思わず声をかけた。
部下達には、もう帰っていいと伝えておいたのだ。
普段の彼らならば、そのひと言を聞くや否や、鳥が自由になって鳥籠から飛び出すようにして退勤していくから、たった1人で部隊室に残っているリクの姿に、余計に驚いてしまう。
「・・・気になることがあって」
もともと物静かな、穏やかなリクが声を荒げたりすることはない。
いつも通りの声色で、何度も聞いたことのあるような台詞であるはずなのに、カイは彼の放つ静けさに違和感を感じていた。
その正体が分からずに、先を促していいものかどうかと躊躇してしまう。
そんなふうに、ほんの一瞬言葉に詰まったカイを見て、リクは口を開いた。
「彼女・・・クルミでしたっけ。
どうしてますか・・・?」
その名を口にした瞬間に、リクの声が硬くなる。
同時に、カイの表情も険しくなった。
夕暮れの空が、リクの顔に影を作りだしている。
「・・・元気かどうか、って意味か?」
訝しげに質問を重ねて返したカイに、リクはゆるゆると首を振った。
そして、声を潜めて囁く。
「記憶の話です。
少し調べたんですが・・・思い当たることが」
その言葉に、カイはため息混じりに答えた。
「窓とカーテンを閉めろ。
・・・座って話そう」
ジャッ、と勢いよく閉められたカーテンが揺れる。
リクが手近な椅子を引いて腰掛け、カイは苦い表情を浮かべてソファに沈んだ。
少し距離を空けて対峙して、静かに問いかけたのはカイの方だった。
「聞かせてくれるか」
「・・・文字が、おかしかったんです」
目を伏せて視線を彷徨わせたリクは、言葉を選んで口にした。
「文字・・・」
そのままを繰り返したカイは、無言で先を促す。
夕陽も遮断された部屋の中は薄暗く、リクの表情を窺い知ることは難しそうだ。
カイは膝に腕をついた格好で、自分の手のひらに視線を落とした。
正体不明の衝動に突き動かされた手は、まだ彼女の手触りを覚えているような気がしてならない。
そんなことを考えていると、リクが言葉の続きを並べ始めた。
「草原で保護したあの時、俺の手のひらに、彼女に名前を書かせたでしょう?」
「・・・ああ」
自分が頬を叩かれた記憶と一緒くたになって覚えているその光景を、カイは思い出す。
最初は、彼女が声を失っていることにも気付けなかったのだ。
今思えば悪いことをした、と苦い思いで頷いた彼に、リクは続ける。
「あの時に書かれた名前、やたらと長かったんです。
それに、見たこともない形をしていたような気がして・・・調べてみたんですが、」
言葉の途中で、リクは真っすぐにカイを見据えた。
「本人に直接、確認させて下さい」
「先に俺が聞いたらまずいのか?」
間髪入れずに尋ねたカイに、リクは口を閉ざす。
薄暗い部屋に沈黙が落ちてくる。
そうして、互いが息を潜めるようにして視線を交えていると、ふいにカイがため息を零した。
短くはない期間一緒に仕事をしていて、普段穏やかなリクが、見た目よりもずっと頑固で意志の強い人間であることを、彼は知っているのだ。
一度断れば、次の日からしつこいことなど、目に見えている。
「分かった・・・でも、注意事項がある。
絶対に、驚かないこと。
それから、口外しないこと・・・いいな?」
夕暮れが街を茜色に染めている頃、決して大きくはない普通の家の中では、クルミが料理に精を出していた。
「ん~・・・いいにおーい」
鍋から漂う出汁の香りを吸い込んだクルミは、にっこり微笑んで蓋をする。
コンロの火を止めた彼女は、窓際に茜色が差しこんでいるのに気がついて、手早く食器を鍋の側に置いてから、2階のカーテンを閉めてまわることにした。
ひと晩かけて、混乱する頭の中を整理したクルミは、朝日が昇る頃になってやっとベッドの中で目を閉じることが出来た。
目が覚めたのは昼も過ぎた頃で、物音も人の気配もしない家のリビングに降りてた彼女は、カイが残したメモを見つけたのだ。
“7時には戻ると思う。家からは出ないように”とだけ書かれた、素っ気ないメモを。
それに目を通したクルミは、「スーパーにも行くなってこと?」などと思わず不満を呟いてから、掃除や洗濯、夕食作りに勤しむことにしたわけだ。
昨夜、思わず言葉を発してしまってからというもの、堰を切ったように独り言があふれ出てしまうのは、もはや仕方がないと彼女は諦めた。
思えばずいぶんと長い間、口から諸々の感情が飛び出してしまいそうなのを我慢してきたのだ。
恐れも不安も、喜びも。
感情を表現する手段が遮断された中で、思うように動けないことが、どれほどのストレスだったのかを、彼女は身をもって学んだというわけである。
そんなわけで、喋りたいだけ喋った今、カイの帰宅に備えているのだ。
「あんまり喋っちゃ、危ないよね」
うんうん、と頷きながらリビングを行ったり来たりしながら、クルミは呟いた。
「またアレが出てきちゃうと困るし・・・うん、なるべく黙ってよう」
とはいえ、これまで通りに黙り通すことはもう無理だと分かっている。
「必要最低限だけ。余計なお喋りは禁止。
わたしは静かで大人しくて、大きな声なんか出せない・・・」
自分に言い聞かせながら言葉を紡いだ彼女が、テレビ画面の端に表示されている時計に目を遣ったのと、ほとんど同時に、玄関のドアが開く音がする。
独り言の合間に、かちゃ、という音を耳で拾ったクルミは、慌てて口を閉じて深呼吸した。
胸に手を当てて、暴れそうになる鼓動を抑え込む。
そして、彼女の耳は2人分の足音を聞き分けた。
おかしいな、とクルミが小首を傾げていると、間もなくして、カイがリビングに入ってきた。
昨夜のことなど記憶から末梢されたのかと思うような、素知らぬ顔で言い放つ。
「ただいま」
続いて入って来たのは、リクだ。
様子を窺うように体を小さくしながら部屋に入った彼は、彼女と目が合った瞬間に凍りついた。
「・・・お、お邪魔しま・・・えぇ・・・?!」
目が合って、息を飲む。
ぼさぼさに絡まっていた黒髪を、頭の上でお団子に纏めたクルミは、まるで別人だった。