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3-4








「え、っと・・・」

カイは視線を彷徨わせながら、言葉を選んでいた。


どこを笑ったらいいのか分からない冗談だ、と彼は思う。

そんなに自分は思い詰めた顔をしていたのだろうか。それとも、自称13歳の少女はもっと構って欲しくて、センスの欠片もない冗談を思いついたのだろうか、とも。

記憶障害を負っているらしい彼女を、なるべく傷つけないようにと思えば思うほど、どんな顔をしたらいいのか、よく分からなくなってしまう。

そんな彼の態度に、ああやっぱり、とクルミは内心で肩を落とした。


・・・そりゃそうだよね。信じないよね、普通。


最初から言葉の通りに信じてもらえるなどとは考えていなかった彼女は、ペンを走らせる。

『あの氷が溶け始めたのは、』

「え?」

突拍子もなく突きつけられた言葉に、呆気に取られているカイに向かって、クルミはさらに言葉を綴った。

『たぶん・・・わたしが起きたから』

ノートを一瞥してその言葉を読み取った彼は、薄紫の瞳がじっと自分を見つめていることに気がついて、生唾を飲み込む。

あまりの真剣さに、騙されてやった方がいいのかと迷ってしまいそうになる。

そして、それならいっそのこと、直球で伝えた方がかえって親切かも知れない、と思ったカイは口を開いた。

「・・・いや、あんまり面白くないんだけどそれ・・・」

いつの間にか番組の間を繋ぐニュースは天気予報に変わり、明日も雲ひとつない青空に恵まれることを告げている。

その場を流れる空気が重くなりつつあるのに反して、彼の音声は軽かった。

彼女の目には、笑って流そうとしているように見えてしまう。


・・・真剣に聞いてよ。


クルミが苛立つのを手助けするだけして、天気予報が終わる。

あっさり切り替わった画面にすら、言葉に出来ない理不尽さを感じて、彼女はペンを握りしめた。

目の前では、心底困ったとでも言うかのように、カイが顔を強張らせている。

『本当なの。

 わたしは、ずっとあの場所で、氷の中で眠ってて』

「あの、」

思い詰めた表情を浮かべてペンを走らせる彼女を呼んだ彼は、今度はどう話題を変えたものかと、頭を悩ませ始めた。

自分は割とまともな人間だと、彼は思っている。

だから、彼女の突拍子もない、非現実的な告白を真正面から受け止めることに、大きな抵抗を感じてしまう。

しかも相手は自分よりも年下だ。

身寄りがないのならば、妹のつもりで、彼女が自立するまで見守ろうと、決めたばかりの。


・・・記憶が戻らないなら、家庭教師でもつけて常識と教養を・・・。


半ば現実逃避気味に少女の将来を慮った彼は、内心でため息を吐きながら彼女の手が動くのを眺めて、言葉の続きを紡ごうとしていた。

すると、ひと呼吸早く彼女がノートから手を離す。

『目が覚めたら、あの場所にいて・・・。

 わたしが住んでた場所は、こんな小さな島じゃなかったの。

 もっと大きな島で、街もたくさんあった』

「クルミ、」

綴られた単語にざっと目を通した彼は、静かな声で彼女を呼んだ。

その声音から、カイが自分の話をきちんと聞いていないと分かったクルミは、ペンを持つ手に力を込めて彼の顔を仰ぎ見る。

黒い瞳は、静かに彼女を見下ろしていた。

「図書館で、歴史の本を読んで来たんだよな?

 きっとそのせいで記憶がごっちゃになって、混乱してるんだよ」

言いながら、彼は1人分空けていた場所を詰めて、彼女の手からペンを取る。

それをそっと、ノートと一緒にテーブルの上に置いて、ひと回り以上も小さな手を握った。

端から見れば、それは恋人同士が見つめ合っているようでもあるけれど、この場合2人の間に流れるのはそういった甘い雰囲気ではない。

大人が子どもの我儘を宥めるような空気を感じた彼女は、それまでは冷静に話さなくては伝わらない、と考えていた頭の中で苛立ちが沸騰し始めたのを自覚する。


・・・もう少し、ちゃんと聞いてくれたって・・・。


テレビの画面から、子どもたちがベッドに入る頃に始まるような、大人向けのバラエティー番組で馬鹿騒ぎする音声が流れてくる。

それが余計に腹立たしい。


・・・っ!


ぼすっ、と空いている方の手で、彼の膝を叩く。

真っすぐに彼の目を見据えてその横っ面を叩けないのは、彼女が俯いていたからで。

やっとの思いで本当のことを話し始めた矢先に挫かれて湧いた苛立ちを、正面からぶつけるだけの勇気はなかったのだ。

「ごめん、何が言いたいのか全然・・・」

突然膝を叩かれたカイは、困惑の表情を浮かべて言葉を紡ぐ。


・・・言いたいことなら・・・!


その途中で、彼女は自分の中で新たな苛立ちの芽が膨らむのを感じて、軽い眩暈を覚えた。

くにゃり、と視界が歪んで一瞬息を詰めた彼女は、咄嗟に目頭を押さえて、それをやり過ごす。

クルミにそんなことが起きているとは思いもしない彼は、俯いたまま目を押さえる彼女が、泣いているのではないかと思い至って鼓動が跳ね上がる。

背中に、何か冷たいものすら感じてしまう。

「く、クルミ?」

何をどうしたらいいのか戸惑う彼は、無意識に自分が彼女の手を握っていたことに気がついて、慌てふためいた。

意識した途端に心拍数が跳ね上がって、血液が音を立てて体中を駆け巡っていく。

思いがけず眠りこけてしまった彼女を、抱き上げてベッドまで運んだことはあった。

なんとなく、その髪を撫でたことも。

けれど、手を握ったのは初めてで。

見た目よりもずっと柔らかい小さな手は、こうしてカイと対面している時、大抵膝の上で握られているか、ペンを握りしめているかだった。

そんなことを思い出した彼は、まさかこんなに小さいとは思わなかった、などと感想を抱いてしまって、さらに鼓動が跳ね上がる。

一体何が自分を突き動かしたのかなど、もう考える余裕もない。

手を離そうかどうしようかと視線を彷徨わせた彼は、結局どうすることも出来ずに、煩く騒ぎ続ける鼓動を宥めるしかなかった。


そうして、ほんの少しの時が過ぎた時だ。

ふいに、クルミが彼の手の中から自分の手を抜きとって、テーブルの上に置いてあったノートとペンを取った。


・・・もう一回だけ・・・。


真剣な眼差しでペンを走らせる彼女を見て、彼は内心でほっと息をつく。

そして、テレビの画面が無駄に笑いを誘おうとしている様子を、どこか遠くに見てから、彼女の手元に視線を投げた。

『わたしが生まれたのは、2671年で・・・』

綴られる単語が、彼に語りかける。

クルミは、彼が黙って自分の書いてものを読んでいる気配に、さらにペンを走らせた。

『世界大戦が終わる前に、わたしは氷の繭の中で、眠りについたの。

 だから、この島のことは何も知らない。

 戸籍だって、どこを調べても見つかるわけない。

 ・・・信じられないかも、知れないけど・・・』

そう一気に綴って顔を上げた彼女の目に飛び込んできたのは、ぽかんと口を開けてノートを凝視しているカイの姿だった。


・・・やっぱり、ダメか・・・。


きっと自分は“頭のおかしい子ども”に見えるのだろうな、と胸の中で自嘲気味に呟いた彼女は、落胆する気持ちを抱えてペンを置いた。

そして、そっと窺うようにしてカイの顔を見上げる。

じっと見つめると、黒い瞳が、右へ左へと揺れた。

揺れる瞳をじっと覗きこまれていたカイは、その視線に耐えかねたのか、そっと息を吸い込んで口を開いた。

「・・・本気で言ってるのか・・・?」

訝しげに眉を潜めて尋ねる彼に、クルミは静かに彼を見つめ返す。

その真剣な表情に、彼はどう言葉を返したらいいものかと内心で唸ってしまう。

到底信じられる内容ではないけれど、そんなことを素直に言ってしまえば、彼女を傷つけると分かり切っている。

「いやでも、現実味ないし・・・」

そして、選びに選んだ言葉をようやく紡いだ彼は、それきり黙りこんでしまった。


・・・現実じゃなかったらいいな、って、わたしだって何回も思ったよ。


心の中で呟きながらペンを取った彼女は、思い出した台詞を書き出す。

『味方でいるって、言ってくれたのに』

信じて欲しいという気持ちだけで書いた言葉に、カイが、う、と呻いた。

若干体を引いたのは、動揺を隠しきることが出来なかったからなのか。

「・・・それは、そうだけど・・・」

呟く彼に、クルミは小さく息を吐いて首を振る。


・・・いいや、もう・・・。


そして“もういいです。困らせてごめんなさい”と書き殴ったノートをカイの膝に乗せてから、腰を上げた。

「え、おい、」

一瞬で書かれた内容を理解した彼は、立ちあがって踵を返そうとする彼女の手首を掴む。

それは咄嗟のことだった。

「・・・あ・・・」

しかし掴んだからといって、彼に何か伝えたい言葉の用意があるかと言われれば、それはない。

ただ本当に咄嗟に、背中を見せられて追ってしまった、としか言いようがなかった。

そんな自分の動作に真っ先に戸惑った彼は、思わず手を離す。

「・・・っ?!」

手を掴まれて、振り返る前に勢いよく離されたクルミは、驚いて飛び跳ねた体がバランスを失って傾くのを感じて、思わず呼吸を止めた。

視界が傾いていくのを為すすべもなく眺めながら、彼女はぎゅっと目を瞑る。


ぽす。


「・・・っと・・・」

次の瞬間、クルミは耳元で、ため息混じりのカイの声を聞いていた。

一度バランスを失った体は、後頭部からソファか床へと落下していたはず・・・と考えるうちに、はたと我に返る。

自分の両腕が、大きな手に、がっしりと掴まれていて自由にならないのだ。

ぱちぱちと瞬きをして視線を巡らせたクルミは、カイが自分を後ろから支えてくれていることに気がついて、咄嗟に離れようと身を捩る。

けれど、大きな手はびくともしなかった。


一方カイは、自分の方へ傾いできた小さな体を受け止めて、ほぅ、と息をつく。

そして、自分の手が掴んでいる彼女の腕が、心配になるほどにほっそりしていて柔らかいことに、心底驚いてしまった。

これでは、機関銃など構えることもおろか、持ち上げることすら出来ないだろう・・・と、全く方向性のおかしな心配までしてしまう。


・・・大丈夫か、これ。


小さな黒い頭を眺めているうちに、不思議な気持ちが湧きあがる。

手首を掴んだだけで傾ぐ、小さくて柔らかいもの。

間近にある、黒い髪の流れる隙間に覗いている首筋が、いやに白い。

そこからふんわり香るのが、自分の家に泊めるようになってから共用しているシャンプーの香りだと思い至って、顎の辺りがむず痒くなってしまった。

そんな自分の中の変化と向き合っていた彼は、彼女が首を巡らせてこちらを振り返ろうとしている気配に気づいて、咄嗟に細い腕を掴んでいた手を離す。

そしてどういうわけか彼は、自分ではさっぱり分からないけれど、無意識のうちに、その小さな体を後ろから抱きこんでしまっていた。


・・・うわ。なんだよこれ。


およそ女性を目の前にした感想とは思えないようなことを胸の内で述べた彼は、その柔らかさと温かさに驚いていた。

決して欲が先行したわけではない。

どちらかというと、半ば本能的に、勝手に腕が彼女を囲い込んだのだ。

この小さく温かい生き物を抱きしめてみたいと、無意識のどこかが、勝手に彼の腕を動かした。

小さく息を飲んだ気配に、やっと彼は、自分が何をしてしまったのかを自覚する。


・・・ああこれ、嫌われたかも知れない。


そう思うのに、彼は腕を解く気になれなかった。

体温がすっぽり腕の中に収まる感覚が、どうしようもなく心地良いのだ。

どうして自分がこんなことをしているのかも分からないまま、彼はその温もりが離れてしまうことが惜しくて仕方なかった。

けれど、これは彼1人が向き合っていることではないのだ。


小さく息を飲んだきり、呼吸をする音すら殺していたクルミは、大きく息を吸い込む。

そして、力の限りを振り絞ってカイの腕の中で身を捻って、思い切り腕を突き出した。

「・・・やだぁぁぁっ!」

それは決して、彼がたじろぐような力ではなかった。

けれど明らかな拒絶は、それまで小さな温もりに心を落ちつけていた彼にとっては、突然降って湧いた大きな衝撃である。

「ぅわ、」

ぼすん、と尻もちをつくようにしてソファに沈み込んだ彼は、小さな声を上げた。

大きく目を見開いて、肩で息をするクルミを見つめる。

切り揃えたばかりの黒髪が、華奢な肩に当たって跳ねて散っている。

艶やかに照明の光を受けるそのひと房を視線で辿っていた彼は、彼女の薄紫の瞳が大きく見開かれるのを見て、何かが違うことに気づいた。

カイがそれが何なのかを考えていると、大きな声を上げて彼を突き飛ばしたきり、肩で息をしながら立ち尽くしていた彼女が、小さく息を飲む。

そして、そんな彼女の姿を見た彼も、同じように小さく息を飲んだ。


「・・・今、」

人差し指を向けられた彼女が、慌てたように両手で口を押さえる。

心なしか顔色が良くない気がして、彼は声をかけようと口を開く。

その時、小さな声がそこから漏れたのを、カイは聞き逃さなかった。

彼女の表情を見て、自分が聞いたものが絶対に空耳などではないと確信を持った彼は、思わず頬が緩んでしまうのを止めることが出来ない。

そして、そのことについて言葉をかけようとした次の瞬間、クルミが突然踵を返して走り出した。

「ちょっ・・・」

彼の声が届く前に、リビングを飛び出していく。

「・・・っと・・・」

独り言になってしまった言葉が宙に浮いているのを感じながら、彼の耳は律義に彼女がドタバタと音を立てて階段を駆け上がる音と、勢いよくドアを開ける音、ひと思いにドアを閉める音を拾っていた。

「・・・立てこもる意味が分からない」

彼女の行動の意味が全く理解できずに呆然と呟いた彼は、その後すぐに湧きあがってきた笑いを堪えることが出来ずに、くすくすと笑う。

それが安心感からなのか、驚きからなのか・・・それとも、自分が突き飛ばされたことに対する衝撃からなのかは分からないけれど。


「声、出るようになったんだな・・・」

確かに彼の耳は、彼女の口から言葉が零れ落ちるのを聞いたのだ。









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