3-2
四角い、ノートのような薄さの画面に指を這わせる。横へスライドさせれば、画面が紙のページをめくるようにして切り替わる。
「・・・・・・」
ほぅ、と息を吐いたクルミは、画面から目を上げた。ガラスの向こう側には、小さく動く人や車が見える。
・・・今は西暦、3268年。
・・・世界大戦の終結が・・・。
閲覧用に貸し出されたタブレットを膝の上に置き、ため息を吐いたクルミは、その視線を眼下に広がる街並みへと向けた。
平日の図書館は、席を詰め合わなければならないほどには混みあっておらず、広い館内の窓際の端にいる彼女の周囲に、人の座る気配はない。
公共の場だというのに、人の気配がないことに気が緩んでしまったのか、彼女は半ば呆けたように街並みを眺めている。
・・・あの人なら、話しても大丈夫・・・だと思うんだけど・・・。
大通りの交差点に立ち続けている人影が見える。
クルミは保護された日の夕方に、カイの運転する車から交差点に立つ軍人を見たことを思い出す。
・・・軍人さんなんだよね。銃持ってたし。部隊長みたいだし。
・・・でも、他に頼れそうな大人の人っていったら・・・少佐、とか?
少佐のしかめ面を思い出して、クルミはぷるぷると小首を振った。
・・・あの人はダメ。怖くて話せないし、きっと信じないもん。
・・・そしたら、じゃあ、大佐さん・・・?
ミルクティーのような甘さを漂わせる彼女を思い出して、今度は小首を捻る。
・・・あの人じゃ頼りにならなさそうだしなぁ・・・優しくて好きだけど・・・。
・・・他の軍人さん達とは、ちょっとしか話してないし、顔も名前も全然覚えてないもん。
ため息混じりに胸の内で呟いた彼女は、そっと息を吐き出してタブレットを手に取った。
勝手に電源が落ちてしまっていたことに気がついて、もう一度スイッチを押してみる。
すると音もなく画面が明るくなり、街並みや氷ヶ原、レイン外観の画像が次々に映し出されていく。そして、最後に図書館の入り口の画像に切り替わった。
メニュー画面で“歴史”に関する図書を検索したクルミは、数多く表示された候補の中から最初に閲覧したものとは違うものを選んで開いてみる。
・・・話すなら、ちゃんと。
・・・歴史を、知りたい。
目次のページで年表を見つけた彼女は、指で軽く画面に触れた。
器械は瞬時に、彼女の求める情報を目の前に差し出してくれる。
順を追って単語を拾い上げる彼女の目は、真剣だ。
・・・1869年、首都がトウキョウに移される・・・。
・・・そのあと憲法が出来て、いろんな国同士が戦争して、大きな地震が起きて。
・・・また戦争して憲法を作りなおして、世界中で天候がおかしくなっていって・・・。
目にしたことのある年表に、クルミは息を吐き出した。
画面をスクロールしようと伸ばした指先が、小刻みに震えている。それでも薄紫の瞳は強い光を宿して、目の前のものに対峙していた。
かすかに乱れた呼吸を整えた彼女は、いくらか険しい眼差しで年表の続きを読む。
・・・世界大戦が始まった頃に、ニホンは属国になった。
・・・アルメリアの駐留軍に監視されながらの生活。
・・・戦火で国土の6割ほどが海に沈む。
・・・アルメリアが大戦に勝利し、世界の統一統治を宣言。2684年。
・・・以降、セントラルによる統治が続いている・・・って。
「これだけ・・・?」
驚愕に、呟きが漏れた。
意識を画面の中に集中させていたからなのか、クルミは自分の口が勝手に動いて言葉を発していたことに気付かない。
その時、ふと人影が目の前を横切るのが視界の隅に映りこんだ。
はっと我に返った彼女は、慌てて居住まいを直す。
そのまま視線をわずかに上げて、目の前を横切った人影の動きを追っていると、その人は少し迷う様子を見せたあと、彼女の近くの席に腰を下ろした。
周囲を見渡すと、彼女の座っている窓際以外には、人同士の間隔がゆったりしている場所が埋まりつつあったらしい。
これでは調べたいことに集中出来ないと思った彼女は、年表の画面を消す。
そして、メニューから流行のファッションや料理など、興味のある雑誌をいくつか選んではパラパラとページをめくり、目を通していく。
けれど、どれもそれなりに興味はあるものの、彼女の頭の中は年表に感じた違和感でいっぱいで、雑誌の中身がまったく入ってこない。
・・・平和になるまでのことが、知りたいんだけどなぁ。
内心でぼやいて息を吐いた彼女は、なんとなくページをめくっていた指を止めて、そっと窓の外へと視線を投げた。
眼下に広がる街は、平和そのものだ。
・・・飛行機も飛んでないし、戦車もいない。兵役もないんだろうなぁ・・・。
・・・ねぇ、お父さん、お母さん・・・。
ふいに湧き上がる孤独感に、クルミは目を閉じる。
眩しいくらいの日差しが降り注ぐ街並みを眺めていたからか、瞼の裏に残る残像までが眩しく感じて、涙が滲みそうになるのを、深呼吸してやり過ごす。
・・・生きてって・・・でもわたし、ひとりでなんて、出来そうにないよ・・・。
最後の記憶を引っ張り出して詰っていると、ふいに窓とは反対側の方から声がかけられた。
「君、昨日の子だよね?」
突然のことに、目を閉じたままだった彼女の肩が震える。
驚きに息を止めて瞬きを何度かすれば、滲みかけた涙が空気に溶けていった。
クルミが図書館で気になったものに目を通している頃、カイは通常の業務をこなしていた。いや、正確には通常とは、少しずれているのだけれど。
「そんで、どんなもんだった?」
軍用車を運転しながら、大声を張り上げたのはコウだ。
今朝、通称部隊室で1日の予定を確認した時から、誰も口にしなかった問いかけ。
それぞれが、カイが触れられたくないことだろうと、あえて尋ねることをしなかったのだけれど、コウには残念ながら空気を読むというスキルが著しく欠如しているらしい。
カイは、雑な質問にあからさまに不快そうに顔を歪めて、いっそのこと聞こえない振りをしようと息を吐いた。
耳のすぐそばを、風が音を立てて横切っていく。
「なー、なーなーなー」
待っても反応が返ってこないことに苛立ったのか、コウが大声で催促する。
「いいから、運転に集中しろよ」
「まさか、言えないようなことでもあったのか?!」
まともに答える気のないカイがはぐらかすと、コウは目を輝かせて振り返った。
その顔には、“うらやましい”と書いてある。
そこへカイの拳が飛んでゆく。
ごりごり、とこめかみの辺りをめり込んでくる痛みに、コウは半ば悲鳴に似た声をあげた。
「いぃぃっっ、てー!」
「お前が想像してるようなことが、」
「いだ、いだだだだ!
おま、おれ、うんて・・・」
「あるわけ、ねぇだろうが!」
「わか、わかったから、」
「謝れ、今すぐ大きな声で!」
「・・・あー・・・いってぇ・・・」
こめかみの辺りを手で擦りながら、コウは辺りを見回した。
少し先には、キラキラと光を反射する氷原が見える。
「ったく・・・、・・・で、」
ぶつぶつと何かを呟くコウを、ため息混じりに一瞥したカイは遠くに視線を投げた。
「何か、気配はないか?」
背の高い軍用車から氷原を見つめる彼を、今度はコウが一瞥する。
その表情は、こめかみの痛みなど最初からなかったかのように、真剣そのものだ。
「気配って、人のだろ?」
「ああ」
カイが頷くのを見て、コウはため息を吐いて天を仰ぐ。
「あー・・・一応聞いとくけど、これって、」
「任務だ。
少佐の許可は得てる」
「・・・許可って・・・上からの命令じゃねーのかよ・・・」
がっくり肩を落とすコウに、カイはなんでもないことのように頷きを返した。
「クルミの・・・あの保護した女の子の、両親の遺体を見つけたい」
「・・・なぁ、それもう、最悪原型留めてない可能性・・・」
「悪い、付き合ってくれ。
部隊の連中の中で、心臓に毛が生えてるのなんて、お前だけだろ」
普段の様子からは似つかわしくないほどに青ざめたコウに、カイは申し訳なさの欠片もなく、さらりと言い放った。
その目は、草原を見渡すように四方へ向けられている。
「最悪だ、飯がまずくなる・・・」
「今度おごる」
「それ、今言われても全然嬉しくねーし・・・」
「で、何か感じるか?」
彼の問いに、コウは静かに目を向けた。
草原を渡る風を見るように、ただ、全体を眺める。遠く、見渡せる限りまで。
「いや・・・特に」
瞬きを何度かしたコウが首を振ると、カイは「そうか」と短く言って氷原へと視線を投げた。
風はずっと耳の横を通って、氷原へと吸い込まれていく。
まるで誘い込もうとでもしているようだ、とカイは思う。
「見つからないと、何なんだ?」
コウが遠くを見渡すのをやめて、彼に視線を移す。
すると彼は、静かに息を吐いて口を開いた。
「少佐が、彼女の正体をつきとめようとしてる」
「・・・疑うとしたら、反セントラル組織か?
あんなもん、もうずいぶん昔に絶滅したんだろ。
・・・大体、あんな小動物みたいなのに何が出来るって?」
もともと小さなことは気にかけない性質のコウは、半ば鼻で笑うようにして言う。
ちなみに、彼のこういった発言に時も場所も選ばないことが多い。基本的に、組織には馴染まない人間なのだ。
それを知っているカイは、特に気にしたふうもなく頷く。
「分かってる。
でも記憶障害のせいで、得体の知れない部分があるのは確かなんだ。
・・・知らないものには、恐怖を感じて当然だろ。ナラズモノと同じで」
「ナラズモノねぇ・・・」
あいつには勝てねぇんだよな、などと付け足すコウを無視して、カイは黙り込んだ。
氷原が眩しく太陽の光を反射して、目を細める。
「セントラルに戸籍の問い合わせもしてるし、捜索願が出されてないかどうかも確認中。
健康診断の時にした採血から、肉体年齢なんかも分かるだろうし・・・。
とりあえず、出来ることはやってる」
「じゃあ待ってろ。
この草原で、しかも生きてるのを保護出来たんだ。害がないなら放っときゃいい」
「・・・そうしてやりたいけど」
竹を割るようにサクッと言い放ったコウを一瞥したカイは、視線を落として呟いた。
小さな声は、風の音にかき消されていく。
「せめて味方でいることくらいしか、してやれないんだろうな・・・」
今朝、レインの最上階にある図書館の前まで送っていった時に見た顔を思い出して、無意識のうちに苦笑いがこみ上げる。
にっこり微笑む表情を、そのまま疑うことをせずに受け止めようと決めたものの、そう決めた自分の歪さを思うと苦い思いがしてしまう。
この期に及んで、失った家族の代わりが欲しいだなんて、なんと子どもじみているのか。
そう頭で理解していても、心は1年間明らかにバランスを崩していたらしい。クルミに構うことが日常になってから、ほの暗い気持ちが隅の方に追いやられているのが分かる。
彼がそんなふうに意識を自分の内側に向けていると、ふいに視界のどこかが光を反射したことに気がついた。
「ん・・・?」
目を凝らすと、すぐそこの草が濡れているのが見える。
なんとなく違和感を感じた彼は、それと同時に咄嗟に軍用車から飛び降りていた。
「あ、おいっ」
静かに隣に佇んでいた彼に、自分の役目は終わったのかと気を緩めていたコウは慌てて声をかけ、つられうようにして思わず飛び降りる。
「なんだよ、急に・・・」
・・・今、ぱしゃ、って・・・。
カイは、自分の足が生み出した音に疑問を感じていた。
隣に降り立ったコウも、同じように足元で水音を立てる。
「・・・水が・・・」
「ん?」
カイの呟きに、コウが首を傾げた。
何歩か歩いてみると、音こそ立てないものの、足元がぬかるんでいて土がぐにょ、と靴底の型を残していくのが分かる。
足元こそ、雨の後のようにぬかるんでいるけれど、少し先を見渡せば、キラキラと凪いだ湖面のように光を反射していることに、カイは気付いた。
・・・これ、雨だったとしたら土砂降りだよな・・・。
・・・でも、そんなことなかった。星もよく見える、晴れた夜だったはずだ。
「雨なんか、降らなかったよな・・・」
コウも違和感を感じるのか、半ば上の空で呟く。
訝しく思いながらも、カイが草原の先に目を遣ると、そこには。
「氷ヶ原・・・まさか、」
眩しく光を反射する、永久に凍りつく草原が広がっているはず。
それは、彼らが生まれるずっと前から存在していて、当たり前に存在し続けている。普通なら氷は溶けるけれど、世界はそうならない氷の草原を当たり前に受け入れ続けてきたのだ。
だから、誰も思いもしない。
氷ヶ原が溶け出す、ということを・・・。
「いや、さすがにそれは・・・ないんじゃねーか・・・?」
否定するコウの声が、いくらか掠れて風に消えていく。
彼もまた、カイと同じように想像しているのだ。そんなことは、あり得ないと思いながら。
・・・もしそうなら、どうして今なんだ・・・?
近づいてはいけない。
死の氷は、人から命を奪うから。
手を出してはいけない。
お前も永久に凍りついて、そこから抜け出せなくなってしまうから。
わらべ歌のように、人から人へ教えられてきたという氷ヶ原の言い伝え。
今では誰もが知る世界の常識。
「とりあえず、レインに戻ろう。
・・・タスクさん達に、窓口業務任せっきりだし」
カイは、自分の足がわずかに震えているのを見ない振りをして、助手席に乗り込んだ。
帰り道、小高い丘の上から氷ヶ原を振り返ったカイは、広がる光景に自分の目を疑った。
キラキラと光る筋が、氷ヶ原から草原へと伸びてきているのだ。それも、1つや2つではない。いくつも四方に伸びている。
まるで、長い冬を越えた雪解けで、小川が出来るかのように。
草原が、水を引いたばかりの水田のように、雲を映し出している。
目に映る光景が何を意味するのかは到底分からない。
ただ、カイの胸には、何かが動き出しているという予感が生まれていた。