2-5
・・・このひと、ほんとに大佐さん・・・?
斜め前を鼻唄混じりに歩く、彼女の背中を眺めながらクルミは考える。
どう考えても少佐の方が上司のように見えたのだ。
たおやかで物腰に品のある彼女に、“ご令嬢”という単語がぴったり当てはまるような気がしてならない。
内心で小首を傾げながら、そんな彼女のあとについて歩いていたクルミは、いつの間にか廊下の壁の色がベージュに変わっていることに気付いた。
自分がカイからどんどん離れて行っているのを感じて、彼女は思わず後ろを振り返る。
「・・・クルミさん?」
すると、背後でクルミが足を止めたことを感じ取ったのだろう、大佐が小首を傾げて、彼女を見つめていた。
後頭部で纏めたミルクティーのような色の髪から垂れているおくれ毛が、空調に吹かれてふわりと揺らいぐ。眼鏡の奥の青い瞳は、ほんの少し怪訝に曇っている。
どう反応しようかと刹那の間迷ったクルミは、結局慌てて手を振った。
クルミの言葉を借りるならば、そこは大きな病院の総合受付のようだった。
カウンターの上、天井から吊り下げられた案内板に戸籍や税金、などといった言葉が掲げられている。そして、それぞれの受付に整理券を発行する機械が置かれているのが見えて、彼女は自分が役所機能を果たしている場所に来たことを知る。
まだ子どもだった頃・・・まだ十分子どもなのだけれど・・・に、母親と一緒に区役所へ出向いたのを覚えているのだ。
当時の自分がそこで何をしたのかは分からないまでも、これから自分の戸籍の照会をすることは、すでに少佐やカイから聞いて分かっていた。
「ちょっとそこ、座ってて下さいます?」
おっとりした口調で手近なソファを指差した大佐は、クルミが返事代わりに頷くのも視界に入れずに、その場を離れてしまう。
大佐の背中を見送って小さく息を吐いたクルミは、言われるがままソファに腰を下ろした。そして、なんとなく周囲の様子を眺めてみる。
行き交う人の流れを目で追うと、人のやって来る方向が、自分のやって来た方向が違うことに気付いて視線を投げた。
自動ドアの向こうには、青空が広がっている。
彼女は内側の廊下を通ってやって来たけれど、どうやら街の住人は外の入り口から直接この場所へ入ってくるようだった。
そして、よく見れば案内板にはバスやタクシーの表示らしき絵が描かれている。
・・・そういえば電車、見ないかも。
・・・飛行機も、飛んでないみたいだし。
街の風景に違和感は感じないものの、見慣れたものがないことを寂しく感じた彼女は、そっと息を吐いて視線を落とす。
何よりも、気を張って人と接するのは、自称13歳の彼女にとって慣れたものではない。
目覚めてからというもの、独りきりになったのは墓地にあるベンチで夕暮れの空を眺めた時と、カイの家でベッドを借りた時くらいのものだ。
ベンチでは結局意識を手放してしまったし、カイの家では月を眺めて考えごとをしていた。
迫りくる問題が大きすぎて、自分が失ったものを指折り数えることすらも、まだ出来ない。
そうやって過ごして、彼女は全身の神経がピリピリして、疲れているのに目が冴えてしまっている時のような、どう体を休めたらいいのか分からない疲労感に覆われていた。
どうしようもない気持ちで辺りを見回すと、順番待ちの人のために置かれているのだろう、何冊かの雑誌とパンフレットが目に入る。
まだ大佐は戻らないのだろうかと頭の隅で気にしつつも、なんとなくパンフレットを手に取って、そっと開く。
書かれている文字を目で追う彼女の唇が、書かれている単語を音もなく読み上げていく。
“草原に囲まれた、東の街”
“人口、面積、男女、ひ・・・”
見たことのない単語がいくつかあるものの、1ページ目が街の概要らしいことは、彼女にも理解出来たのだろう。全てに目を通す前に、次のページを捲る。
目に飛び込んできたのは、見た目の綺麗な男女だった。
“統治・・・ツヴァルグ・・・セントラルより、赴く・・・”
“駐留、軍・・・大佐・・・ダリア”
“レイン・・・”
・・・レインって、何だろう・・・。
・・・知らない単語がいっぱいあるし・・・。
意味の知らない単語が出てくると、途端に頭の中がごちゃごちゃしてしまう。
ただでさえ頭の中が疲れている気がするクルミは、手にしたパンフレットを閉じた。そのまま目を閉じて、目頭をぐりぐりと揉む。
・・・わたし、やっていけるかな・・・。
目を閉じて脳裏に浮かぶのは、一面の氷原と、徘徊する異形のもの。
ぞわりと全身が総毛立つのを感じて、慌てて頭の中に浮かんだものをかき消そうと、ぶんぶんと首を振った。
思い切り首を振って、疲れている頭がぐらりと傾ぎそうになるのを堪えていると、磨き上げられた黒い靴のつま先がこちらを向いていることに気付く。
不思議に思いながらも彼女が顔を上げると、目の前にはスーツに身を包んだ男性が1人、穏やかな表情を浮かべて佇んでいた。
「やあ、お嬢さん」
カイよりも年上で、少佐よりも年下。
父親は若い方だったと思うけれど、それともまた違うような。
漠然と掴みどころのない見た目だという印象を抱いて、クルミは小首を傾げた。
「そこで何をしているの?
親御さんと一緒に来たのかな?」
イエス、ノー以外の答えを用意するために、彼女は男性の問いかけに急いで鞄を開ける。
手探りでノートとペンを取り出して、さらさらと単純明快な文を書き上げた。
『大佐を待っています』
ノートを回転させて見せると、彼は器用に片方の眉毛を上げる。
「ダリア大佐のこと、かな?」
問いかけに、こくりと頷く。
パンフレットでの予習が役立って、彼女は内心で息を吐く。
「ふぅん・・・」
すると彼は意味ありげに口角を上げて、クルミの隣に腰を下ろした。長い足を組んで、体を半分彼女の方へと捻る。
その仕草を隣で見ていた彼女は、彼が軍服を着ていないことに気がついた。けれど、スーツの胸の辺りに、何かを模したバッヂが光っている。
一般の利用者なのだろうか、関係者なのだろうかと考えを巡らせていると、彼が口を開いた。
「もしかして、だけど。
お嬢さんは、喋れなかったりする?」
遠慮がちな口調で尋ねた彼に、クルミはほんの少し迷ってから頷いて、ペンを走らせる。
『声が、出なくなって』
「なるほどねー・・・。
で、親御さんは?」
相槌を打って、次の質問を口にした彼の顔を見て、クルミは視線を彷徨わせてしまう。頭の中は真っ白で、どうしたらいいのか分からない。
・・・正直に答えたら、頭のおかしな子だと思われるだろうし・・・。
何を書けばいいんだろう、と考えているところへ、ふわふわとした声がかけられた。
「お待たせしました~」
頭の中が真っ白になっていたクルミは、その声に思わず立ち上がる。
たった今声をかけられた相手よりも、カイを通じて知り合った相手の方がまだ信用出来る気がするし、女性の方が一緒にいて空気が楽なのだ。
「・・・あらら、統治官に捕まってしまいましたの?」
大佐が小首を傾げると、隣に腰を下ろしていた彼がくすくす笑いを漏らした。
・・・知り合い・・・?
どこかで聞いたような単語が耳に入った気がして、クルミも小首を傾げる。
「捕まるだなんて。
ちょっとお話してただけだよね?」
矛先が自分に向けられたのを感じて、クルミは思わず大佐の後ろへ隠れた。
出来れば注目して欲しくないのだ。
その背から顔だけを覗かせて様子を見ると、彼が眉を八の字に下げて困っているのが見えて、クルミは内心でため息をつく。
「統治官、ナンパはせめてレインの外でお願いしますね」
大佐の声が聞こえて、それに彼の声が被さるように響いた。
「誤解だよ!」
「さっきの方は、この街の統治官なんです」
大佐が隣に腰をおろしながら、囁くように教えてくれるのをクルミは頷いて聞いていた。
「あ、統治官っていうのは・・・。
セントラルから派遣される、この街を治めるための人です。
レインの、トップということになりますね。
あ、レインというのは、この街を守るための組織の総称です。
・・・駐留軍と、戸籍や税金を管理する役所機能と、執政機能が主な役割で・・・って」
カウンターの向こうで事務処理をしているのだろうか、たくさんの人がそれぞれの机に向かって、パソコンで作業しているのを思い出したクルミは、そっと頷く。
「ちょっと難しいかも知れないですねぇ・・・」
うーん、とあまり深刻ではなさそうに唸る大佐が、独り言のように呟く。
彼女は自分の説明に、クルミが頷いていることは気づいていないのだろう。
ありがたいことだ。マイペースな人だということは、これまでの彼女を見てなんとなく感じていたことでもある。
視線を向けられていないらしいことにクルミが内心ほっとしていると、ふいに人の気配を感じて居住まいを正す。
「失礼します」
「お願いしますね」
軍服を着た男性がノートパソコンを片手にやってきて、2人の向かいに腰掛ける。
壁の向こうから、整理番号の呼び出しをする音声や、係の人間の声が聞こえてくる。
2人はホールの端に用意されている個室で、これからクルミの戸籍を照合するのだ。
「ええと、」
パソコンを起動した男性が、クルミと大佐を交互に見遣って言葉を紡ぐ。
「照合したいのは、そちらのお嬢さんですね?
・・・大佐といえど、ご本人様以外の同席には誓約書にサインが必要ですが」
「分かりました」
男性の言葉に頷いた大佐は、手近にあったペンに手を伸ばす。
そして、男性が机の上を滑らせるように渡した書類に目を通し、サインをした。
「はい、ありがとうございます。
それでは・・・」
書類を回収した男性は、マウスを操作しながらクルミに質問を始める。
「まずは、お名前をお願いします」
『クルミ、です』
あらかじめ用意しておいたページを差し出した彼女に、男性は怪訝そうな顔をした。
すかさず、大佐が口を挟む。
「声が出ませんの」
「・・・なるほど・・・では、年齢を」
戸惑った様子を一瞬で隠した男性は、さらにクルミに向かって問いかけた。
彼女はやはり用意していたものを見せるけれど、男性の反応は芳しくない。
「13歳・・・失礼ですが、本当に・・・?」
訝しげに確認を取る男性に、クルミは申し訳なさそうに頷くしかなかった。
記憶の中の自分は、13歳なのだから。
「やっぱり、なかったか・・・」
カイの呟きに、こくりと頷く。
彼は、落ち込んだ様子のクルミの頭をひと撫でして、立ち上がる。
照合の結果画面は真っ白で、クルミは第8部隊室で待つカイのもとへ戻ってきていた。
送ってくれたのは大佐で、黙り込んだ彼女にかける言葉が思いつかなかったのか、お互いに言葉すくなに歩いたのだった。
そして、そんなクルミを迎え入れたカイもまた、かける言葉が見当たらずに買っておいたジュースを差し出す。
「記憶に残ってる名前が、実は他人のものだった、なんてこともあるかも」
ぽつりと呟いた彼に、クルミはゆるゆると首を振る。
・・・わたしの名前があるわけ、ないんだよ。
心の中で懺悔に似た気持ちで呟くと、彼女は差し出されたジュースの輪郭を指先でなぞって、おもむろにノートとペンを取り出す。
そして、さらさらと言葉を綴った。
『どうしたら、この街で、ひとりで生きていけますか』




