手紙
リューチがアレックスに家を追い出されてからというもの、ほぼ毎日のように近くの公園の辺りまではやってくるのだが、あの日のケイトの辛そうな姿を思い出すと、なぜだかチャイムを鳴らしてもう一度訪ねることが出来ないでいた。
「おい、アレックス。またあいつ来てるぞ。」
あの日以来、毎日のように、家の前をうろついている人間がいれば、誰だって怪しむものだ。
「ああ・・・。放っておけよ。すぐ帰るだろ。」
そんなリューチの様子にアレックス自身も気付かないはずはなかった。
以前はあんなに仲のよかった幼馴染みだったのだ、彼の行動が気にならないはずはない。
リューイチのやつ、まだ日本に帰ってなかったのか・・・。
アレックスはなるべくリューチに気付かない振りをし続けた。しかしそれは、とても心の痛む行為だった。
ある祝日の午前中、アレックスはバイクの改造用の部品を揃える為、買い物に出掛けていた。帰りがけに、ちょうど朝ごはんを抜いたせいもあって腹が減ってきたので、人気のカフェに立ち寄ったのだった。しかし、そこで思わぬ人と出会うことになる。
「よお。」
卵を載せたトーストを頬張りかけたアレックスの背後から、聞き覚えのある声がした。
ゆっくりと顔を向けると、思わずトーストを皿に戻す。
「・・リューイチ・・・。」
そこには、こないだとは打って変わって、真紅の髪をストレートに落としたままのリューチの姿があった。見たところ、髪はまだ濡れているようだ。どうやらシャワーを浴びた後らしい。
服装も、ジーンズにTシャツとシンプルなものだ。
「ここ、いいか?」
リューチはアレックスの正面の空いた椅子を指さした。
「あ、ああ・・・。」
つい伏し目がちに返事をするアレックス。彼自身、思いも寄らないところでとんでもない人間と居合わせてしまった不幸を恨んでしまっていた。
静かに椅子を引いて腰を下ろしたリューチは、この前よりも少し痩せて見えた。
「こないだは急に押しかけて悪かったな。ケイト、今は落ち着いてるか?」
数年前よりずいぶん大人びたと感じたリューチの雰囲気は、やはり間違いはなく、近くで見ると一層物静かで独特のオーラを放っていた。
「あ、ああ。今は落ち着いてるよ。」
アレックスはこの間の、強引な追い返し方をしたことを、少なからず悪いと思っていた。
その為か、さっきまであんなにあった食欲も一気に失せ、今はなんとかしてこの場を離れたいと願うばかりだった。
「悪いな、いきなり話しかけて。気にせず食っていいぞ。」
そう言いつつリューチは、カプチーノの紙コップを啜る。
仕方なく食べ始めたアレックスに、構わずリューチが話し掛けた。
「偶然だな。俺の今いるアパートがすぐそこだから、午前中はよくここで時間を潰してるんだ。」
確かにそれは本当らしく、まだ濡れた髪がそれを物語っている。
「・・・リューイチ、なんか話があるんだろ?」
アレックスが堪らずに切り出した。
「いや。ただ、この前はお前とゆっくり話できなかったからちょっと話したかっただけだよ。
迷惑なら席移るけど?」
余裕を持った笑みからは、嘘をついているようには見えない。
「いいよ、そこに居ろよ。」
あまり関わりたくないと考えていたアレックスだったが、やはり心の底ではリューチとの接点を失いたくはないという気持ちも少しはあるようで、ぶっきら棒に言い放つ。
『ズズズ・・・』
リューチの全く気にもしていないようなカプチーノを啜る音が沈黙の中響く。
「アレックス、何買ってきたんだ?」
アレックスの隣にどっさりと置かれている紙袋をのことを言っているようだ。
「バイクの部品だよ。改造用。」
すっかりぬるくなったパンをかじりながらリューチを見ると、驚くべきことに、なんと気さくに笑っていることか。
「なに、お前。またなんか悪いことしてんの?」
まるで数年間のブランクが無かったかのように、2人の時間は引き戻されたような気になった。
「リューイチに言われたかねえよ、その頭。」
顎でしゃくると、2人はぶっと吹き出した。
「変わらねえな・・・。」
懐かしさを噛み締めるように、アレックスが呟く。
「あのとき、こんなことになってなかったら、俺達は今もロスでこうしてたんだろうな。」
リューチが遠い目をして言った。
「あれは、リューイチのせいじゃねえよ・・。」
アレックスがぼそりと言った。
「いや、俺のせいだ。だから、何があっても俺は責任をとらなきゃならない。たとえ、それがケイトやお前を苦しめることになったとしても・・・。」
アレックスの目を真っ直ぐ見て話すその姿は、強い決心を表していた。
そして、初めてアレックスは、リューチの強い思いを知ったのだった。
「・・・リューイチ、頼む。もう俺達に構わないでくれ。」
リューチの気持ちを察したせいで、この前よりももっと胸が苦しくて、吐き出しそうになった。
「もう一度、最後にもう一度だけケイトと話をさせてもらえないか・・?」
そのセリフを聞き終わらないうちに、アレックスは大きく首を横に振った。
「この前のケイトの様子を見ただろ?ケイトはお前を見ただけでも通常じゃなくなっちまう。
本当に彼女を思うなら、黙ってそっとしておいてやってくれねえか?」
リューチは少し考え込むような形で肘をついて俯く。
「過去と言えども、一度はケイトを好きだったんだろ?二度までも彼女を苦しめるようなことはしないでやってくれ。それがケイトの一番の幸せなんだよ。分かるだろ・・・?」
訴えかけるようなアレックスの頼み。
リューチは言葉を失った。
良かれと思ってここまで来たけど、
これは単にケイトを苦しめることになっちまったって訳か・・・。
ふっと諦めたような笑いをすると、リューチは情けない気持ちでいっぱいになった。
強い決心を胸に日本を飛び出してきた頃が懐かしく、何もできなかった自分への腹立たしさでいっぱいだった。まるで体から全部の力が抜けたようだった。
「・・・わかった・・・、もうケイトには会わねえよ・・・・。」
そう呟いた力無いリューチの声を聞いて、アレックスは心に銃撃を受けたような衝撃に駆られた。自分がこの男を生き地獄へと陥れたことに気が付いたのだ。
苦しさで、知っていることを全て話してしまいたかっった。
しかし、喉まで出てきているその言葉を出す勇気を彼は持っていなかった。
思い切り叫んでやりたかった。
「その代わり、これだけは教えてくれないか・・・・?」
リューチはしっかりとアレックスの目を見据えている。
「アレックス、何か隠してないか・・・?」
時が止まったように、心臓の音が高く鳴り響く。
『ドキン、ドキン、ドキン・・・・・。』
ま、まさか、リューイチ、お前気付いてたのか・・・・!?
「な、なんでだ・・・?」
必死で平静を保ちながら答えるアレックスだが、声は今にも裏返りそうになる。
「ケイトかマイク、病気じゃないのか?」
心の中でアレックスのほっとした気持ちで満たされる。
よかった、まだ気付かれていない・・・・。という気持ちに。
リューチの目は真剣だった。
「なんで毎日病院に通ってるんだ?悪いとは思ったんだが、ちらっと噂で耳ににしたんだ。」
しかし、安心はできそうにも無かった。既に、病院に通っているということ気付かれてしまっていることは、危険な証拠である。
「あ、ああ・・。マイクが喘息持ちなんだよ。」
さすがにもうリューチと目を合わすことはできなかった。もう、アレックスは自分自身を欺くことにも限界が近付いていた。
「やっぱりそうか・・・。」
リューチは静かに席を立った。
「アレックス、悪かったな邪魔して。んじゃ、俺もう行くわ。元気でな。」
店を出て行くリューチの後姿を見ながら、アレックスは金縛りにあったように、動けなかった。呼び止めることさえできなかったのだ。
ただ、リューチがこのまま日本にも帰らず、どこかに旅立ってしまうのではないかと感じていた。彼は、そういう人間だった。
俺はきっと、一生今を後悔して生きることになるだろうな・・・。
最大の親友を失ったこの日を・・・。
リューチがアパートに戻ると、ボロボロになって、色の剥げた部屋のドアの下に、何やら挟まっていた。
ゆっくりと引っ張り出してみると、一通の手紙だった。
裏返して送り主を見るてみると、
”Kouki Mizouchi"という文字が書かれていた。
希望を全て失い、支えてくれていた航紀や哲平との約束も果たせなかった今、合わせる顔がなかった。そして、もう二度と日本の地を踏まないことを決意した矢先のことだった。
しかし、純粋に手紙を見て嬉しさが込み上げて来た。
日本の空とニューヨークの空は、確かに繋がっている。
とりあえず鍵を開けて部屋に入ると、へばり込むようにして汚れた床に腰を下ろして、最後の連絡となるかもしれないその手紙の封を切った。
『この手紙が一日でも早くリューチの元に届くことを願っています。』
手紙の出だしはなぜだか少し焦った様子が窺え、字も多少乱れている。
不審に思い次の行に読み進めると、次の瞬間、手紙を持つ手が震えた。
『リューチ、大変な事実が発覚したよ!
ケイトの子はリューチの子じゃない。
リューチは確か、その子が4歳だって言ってたけど、
それじゃ計算が合わないことがわかった。
通常、妊娠から出産までは10ヶ月かかるそうだけど、
リューチが問題を起こしたのは4年前だったよね?
だとすると、そこから10ヶ月後にその子が生まれたと
すれば、今はまだ3歳のはず。
だから、リューチの子じゃないはずだよ!
今すぐ確認してみて。
最後に、もっと早くにこのことに気付いてあげられなくて
ごめん・・・。
航紀 』