感情が天気になる騎士団長様の機嫌を読んで予報を当てていたら、私の出勤日だけ快晴だったそうです
感情がそのまま天気になってしまう騎士団長様と、その機嫌を毎朝観測している王宮の天気予報係のお話です。
1万字ほどの短編です。気軽にお楽しみいただけたら嬉しいです。
王都の天気は、騎士団長の機嫌で決まる。
そう話すと、王都の外から来た人はたいてい笑う。笑わないのは、王宮で働いている人間だけだ。
王国騎士団長、レオンハルト・シュトゥルム様。二十七歳。シュトゥルム侯爵家の次男で、剣の腕は王国一。そして、生まれつき「感情が天気になってしまう」体質の持ち主である。
なんでも、ご先祖様が嵐の精霊と契約を結んだとかで、数代に一人、こういう方がお生まれになるらしい。喜べば空が晴れ、悲しめば雨が降り、怒れば雷が落ちる。範囲は、だいたい王都全域。
幼いころの団長は、おやつを取り上げられただけで屋敷に雹を降らせたそうだ。それ以来、厳しい鍛錬で感情を表に出さない術を身につけ、今では「無風の団長」と呼ばれるほどの鉄面皮になられた。
問題は、顔に出さなくなっても、空には出るということで。
そして私、ペトラ・ハイターの仕事は――その空を、前の日のうちに当てることである。
王宮の東の塔、そのいちばん上。
らせん階段を百二十段のぼった先にある小部屋が、王宮気象予報室だ。職員は私ひとり。いや、正確には室長のオットー爺さまがいるけれど、爺さまは一日の八割を窓辺の椅子で居眠りして過ごしている。
「ふむ……ペトラや。明日の天気はどうかの」
「晴れです、室長」
「ほう。根拠は」
「今朝の団長の眉間のしわが、ゼロ本でした」
「……科学とは、何じゃろうなあ」
爺さまは遠い目をして、また眠りに戻った。
気持ちはわかる。爺さまは四十年、雲の形や風向き、気圧計の針を読んで予報を出してきた人だ。ところが団長が王都に着任してからというもの、気圧計はまったく当てにならなくなった。団長が部下の失敗にため息をひとつつけば、雲ひとつない空からいきなり小雨が降るのだから。
爺さまの的中率は、五割まで落ちた。
そこで二年前、見習いとして採用された私が考えたのが――空ではなく、団長を観測する方法だった。
毎朝六時。私は塔の窓から、望遠鏡で騎士団の訓練場をのぞく。
団長は毎日きっかり六時に現れ、部下たちの朝稽古を見回る。私はその横顔を、穴があくほど観察する。
眉間のしわの本数。口の端の角度。剣を振る速さ。部下に声をかける回数。朝食のパンをちぎる大きさ。
それらをすべて、観測手帳に書きつける。
『○月三日 しわ二本、口角やや下降、パンを大きくちぎる→曇りのち雨』
『○月四日 しわ一本、副団長の冗談を無視→曇り』
『○月五日 しわゼロ、訓練場の猫をなでる(三秒)→快晴』
その結果、私の予報の的中率は九割を超えた。
予報は王宮じゅうの掲示板に貼り出している。洗濯係はそれを見て洗濯物を干す日を決め、庭師は水やりを決め、厨房は冷たい料理と温かい料理を決める。
人様の役に立てる、いい仕事だと思う。
――ただ一点、どうしても説明のつかない観測結果を除けば。
『私の出勤日、晴天率 九十八パーセント』
『私の休日、晴天率 四パーセント』
手帳の最後のページにまとめた数字を見て、私はうなった。
おかしい。どう考えてもおかしい。
私の休みは七日に一度、たいてい安息日の翌日だ。その日に限って、王都は決まって雨か曇りなのだ。
(つまり……私の休みの日は、団長のご機嫌が悪くなるような業務が重なっている、ということ?)
たとえば、休み明けの騎士団では書類仕事が山になる、とか。会議が多い、とか。
(なるほど、それなら筋が通るわね。団長は書類仕事がお嫌いなのかも)
私は手帳に「団長、書類が嫌い(推定)」と書き足した。
そして念のため、休みを一日ずらしてみた。
――ずらした日に、雨が降った。
(……書類仕事の日程まで、私の休みにあわせてずれた? そんな偶然ある?)
首をひねっていると、扉をノックする音がした。
「ペトラさん、いる?」
顔を出したのは、洗濯場の女官長マルタさんだった。手には焼き菓子の包み。
「あ、マルタさん。いつも予報を見てくださって、ありがとうございます」
「いいのよ、それより……来月のあなたのお休み、もう決まってる?」
「え? はい、たぶん安息日の翌日に」
「そう! じゃあその日は大物を洗わないことにするわね。シーツは全部、あなたの出勤日に回すから」
マルタさんは菓子の包みを私の手に押しつけ、上機嫌で帰っていった。
(……休みの日を聞かれた)
予報ではなく、私の勤務表を聞かれた。
(でも、たしかに私の休みの日はよく雨が降るから、計画を立てやすいのかもしれないわね)
納得して焼き菓子をかじっていると、またノックの音。
今度は庭師のヨアヒムさんで、明日の出勤を確かめに来た。その次は厨房の料理長で、そのあとは騎士団の若い団員たちが三人がかりで来た。
「ペトラさん! 来週の野外演習の日、出勤ですよね!? 絶対ですよね!?」
「は、はい、たぶん」
「たぶんじゃ困るんです! これ、差し入れです! 風邪をひかないでください!」
団員たちは、干し肉とはちみつと毛布を置いていった。
私は机に積み上がった差し入れの山を見つめた。
(最近、なぜかみんな、私の健康をとても気にしてくれる……)
気象予報士という仕事が、ようやく王宮で認められてきたのかもしれない。
私は胸を熱くして、明日の予報――「快晴」――を書いた。
極めつけは、王妃殿下だった。
春の園遊会の日取りについて相談があると呼び出され、私は生まれて初めて王妃殿下の私室に通された。
「ペトラ・ハイター。あなたの予報は、とても評判がいいわね」
「も、もったいないお言葉です」
「それで、園遊会なのだけれど。あなたの都合のいい日はいつかしら」
「……私の、都合ですか?」
「ええ。あなたが出勤できて、なおかつ一日じゅう、騎士団の詰め所の近くにいられる日がいいわ」
「詰め所の近く、ですか」
「そう。できれば、団長の視界に入る場所」
私は首をかしげた。
「あの、殿下。団長の観測は、毎朝の一回で十分でございますが……」
「観測」
王妃殿下は扇で口元を隠し、肩を小さく震わせた。お付きの侍女たちも、そろって窓の外を向いている。
「……そうね。観測。ええ、そういうことにしておきましょう」
(そういうこと、とは?)
よくわからないまま、園遊会は私の出勤日に決まった。
当日は雲ひとつない快晴で、私は詰め所の前のベンチで一日じゅうお茶をいただくという、謎の任務を果たした。
団長はときどき、詰め所の窓から外を見ていた。目が合うと、すぐにそらされた。
そのたび、空にふわりと、やけに丸みを帯びた桃色の雲がふたつ並んで浮かんで――。
(……雲は雲よね。夕方でもないのに桃色なのは、ちょっと気になるけれど)
私は手帳に「桃色の雲、原因調査中」と書いて、三杯目のお茶をいただいた。
事件が起きたのは、夏のはじめのことだった。
「ペトラ! 久しぶり」
中庭で声をかけてきたのは、財務局の書記官トビアス・ケラーだった。同じ下町の出身で、子どものころはよく一緒に川で遊んだ仲だ。
「トビアス! 財務局に入ったって聞いてたけど、本当に会えるなんて」
「今年の麦の収穫見込みを出さなきゃいけなくてさ。この夏の雨量、予想できる?」
「任せて。夏はね、団長の――じゃなくて、ええと、南風の影響がね」
私は手帳を開いて、夏の見通しを説明しはじめた。トビアスは昔と変わらない人なつこい笑顔で、うんうんとうなずいてくれる。
「さすがだな、ペトラ。昔から雲を見るのが好きだったもんな」
「覚えててくれたの?」
「当たり前だろ。ほら、川原で寝転んで、あの雲はパンに似てるとか――」
トビアスが笑って、私の肩をぽんと叩いた。
その瞬間だった。
ゴロゴロゴロ……と、頭の真上で空が鳴った。
見上げると、さっきまで真っ青だった空に、黒い雲がひとつだけ浮かんでいる。
ひとつだけ。中庭の、ちょうど私たちの真上にだけ。
「え?」
ザアアアアッ!
バケツをひっくり返したような雨が、私とトビアスにだけ降りそそいだ。一歩先の回廊は、からりと乾いたままだ。
ピシャーン!!
稲妻が中庭の楡の木に落ち、折れた枝が一本、トビアスの足もとに転がった。
「ひっ!?」
トビアスが飛びのく。私は――
「す、すごい……!」
ずぶぬれのまま、手帳を握りしめていた。
「局地的雷雨! しかも直径わずか十歩! 観測史上初よ、トビアス! 記録しなきゃ!」
「ペトラ、それどころじゃ――」
「時刻は十四時十二分、雷鳴の間隔は――」
夢中で書きつける私の横で、トビアスはなぜか、ゆっくりと上を見て、それから回廊のほうを見た。
つられて、私も見る。
回廊の柱の陰に、レオンハルト団長が立っていた。
いつもの無表情だった。眉間のしわもない。口の端も動いていない。
ただ、握った拳が白くなるほど、力が入っていて。
トビアスと目が合った瞬間――ピシャーン!! と、二本目の雷が楡の木に落ちた。
「ぼ、僕、仕事があるので!!」
トビアスは書類を抱えて、脱兎のごとく逃げていった。
そのとたん、雨はぴたりと止んだ。
回廊を振り返ると、団長の姿はもうなかった。
(……今の雷雨、団長のご機嫌が原因?)
だとしたら、何に怒っていらしたのだろう。
(中庭で私語をしていたのが、いけなかったのかしら)
王宮の中庭で、勤務中に幼なじみと笑い合っていた。規律に厳しい騎士団長から見れば、目に余る光景だったのかもしれない。
(明日、謝りに行こう)
回廊の陰からこちらを見ていた洗濯係と庭師と厨房の見習いたちが、そろって「あーあ」という顔をしていたけれど、私はくしゃみをするのに忙しくて、気づかなかった。
翌日、私は騎士団長の執務室の扉をたたいた。
「失礼いたします。気象予報室のペトラ・ハイターです」
「……入れ」
低い声。部屋に入ると、団長は書類の山の向こうで顔を上げた。
こんなに近くで見るのは、初めてだった。
望遠鏡越しに毎朝見ている顔なのに、実物は少しだけ違って見えた。灰色がかった青い目は思っていたよりずっと静かで、まつげが長い。
(いけない、観測、観測)
「昨日は中庭で私語をしてしまい、申し訳ありませんでした」
「……私語?」
「はい。団長のご機嫌を損ねてしまったようで」
団長は数秒、黙った。窓の外で、ぽつ、と雨粒がひとつ落ちた。
「……損ねては、いない」
「でも、雷が」
「あれは」
団長は言いかけて、口を閉じた。
窓の外が、どんよりと曇っていく。
(あ、まずい。話を変えよう)
「それで、あの、もしよろしければ、今後の予報の精度向上のために、いくつか質問をさせていただきたいのですが」
「質問」
「はい」
私は手帳を開いた。
「昨日の十四時十二分、団長は何を感じていらっしゃいましたか?」
沈黙。
「怒り、でしょうか。それとも不快感でしょうか。できれば度合いを、十段階で教えていただけると――」
「……言えない」
「えっ」
「それは、言えない」
団長は、ふいと顔をそむけた。
そのとき、窓の外で不思議なことが起きた。
空は晴れているのに、きらきらと光る細い雨が降りはじめたのだ。
天気雨。
陽の光を受けた雨粒が、窓の外で金色にきらめいている。
「団長、天気雨です」
「……知っている」
「今のお気持ちは?」
「言えない」
「天気雨は初観測なんです。晴れと雨が同時ということは、相反する二つの感情が同時に――」
「ハイター」
「はい」
「頼むから、今は、こちらを見ないでくれ」
団長は片手で目元を覆っていた。
その耳が、ほんの少し赤い――ような気がしたけれど、たぶん窓から差し込む光のせいだ。
私は手帳に書きつけた。
『天気雨 原因不明。団長、質問に回答せず。お疲れの可能性あり』
(はちみつの差し入れ、おすそ分けしようかな)
はちみつの瓶を抱えて騎士団の詰め所の前を通りかかったのは、その日の夕方だった。
中から、副団長のベルント様の大きな声が聞こえてきた。
「――で、今日の天気雨だ。誰か理由を知ってるやつは?」
「午後にペトラさんが執務室に入っていくのを見ました!」
「よし、それだな。賭けは『照れ』に張ったやつの勝ち」
どっと笑い声が起きる。
(……え?)
私は扉の前で足を止めた。
「しかし、昨日の中庭の雷はひどかったなあ。トビアスってやつ、今朝、財務局で震えてたぞ」
「そりゃ団長の目の前で、ペトラさんの肩に触ったんですから」
「あの一帯だけ雷雨って、もう隠す気ないですよね」
「隠してるつもりなんだよ、本人は。顔には出てないからな」
「顔には、ね」
また笑い声。
「でも副団長、ペトラさん本人は気づいてないんですよね?」
「気づいてない。あの子、団長のことを毎朝望遠鏡で穴があくほど見てるくせに、自分が出勤する日だけ晴れるって法則には、『書類仕事のせい』って結論を出したらしい」
「書類仕事」
「書類仕事」
「じゃあ王都で知らないのは、あの二人だけってことですか」
「いや、団長は自覚してる。自覚してるから、毎朝六時きっかりに、塔からいちばんよく見える場所に立ってるんだろうが」
私の腕から、はちみつの瓶がすべり落ちた。
ごとん、と鈍い音がして、詰め所の中がしんと静まりかえった。
私は瓶を拾うのも忘れて、その場から逃げ出した。
らせん階段を、百二十段、一気に駆けのぼった。
予報室に飛び込んで扉を閉め、背中をつけて、ずるずると座り込む。
「……うそでしょう」
膝の上で、観測手帳を開いた。
二年分の記録。毎朝の、団長の眉間のしわの本数。
『私の出勤日、晴天率 九十八パーセント』
最後のページの数字が、さっきまでとはまったく違う意味を持って、目に飛び込んでくる。
(私が出勤する日だけ、晴れる)
(私が休むと、雨が降る)
(私が他の男の人と笑っていたら、その真上にだけ、雷が落ちた)
書類仕事なんかじゃない。
ページをめくる。ある日の記録が目に留まった。
『○月五日 しわゼロ、訓練場の猫をなでる(三秒)→快晴』
あの日、猫をなでる前。団長はほんの一瞬、こちらの塔を見上げていた。私はそれを「首の運動」と書いて、気にも留めなかった。
ほかにもある。私が風邪で三日寝込んだ週、王都は観測史上最長の長雨に見舞われた。私が復帰した朝、空には虹が二本かかっていた。私はそれを「大気中の水分量が多かったため」と記録していた。
(ばかなの、私)
二年間、毎朝、あの人を見ていた。誰よりも長く、誰よりも細かく。
それなのに――いちばん大事な観測結果だけ、読み違えていた。
「……ペトラや」
窓辺の椅子から、オットー爺さまの眠そうな声がした。
「室長、起きてたんですか」
「ずいぶん前からの。……ようやく気づいたか」
「室長も知ってたんですか!?」
「知らぬのは、そなただけじゃよ」
爺さまは、のんびりとあくびをした。
「あの若造が来てから、わしの予報は当たらんようになった。そなたが来た日から、あやつの空は、そなたのいる場所で決まるようになった。……当てるのは、簡単じゃったろう」
「でも、それじゃ、私の予報って……」
ただ、団長の気持ちに乗っかっていただけ?
私が胸を張っていた九割の的中率は、私の観測の腕ではなくて――。
急に、顔が熱くなった。恥ずかしくて、情けなくて、それから、それだけではない何かで。
(明日、どんな顔で望遠鏡をのぞけばいいの)
「室長。私、明日はお休みをいただきます」
「……ほう」
爺さまは、窓の外を見た。
「では、王都は大雨じゃな」
オットー爺さまの予報は、当たった。
翌朝、王都は灰色の雨に沈んでいた。
私は使用人棟の自室で、毛布をかぶって丸くなっていた。窓を打つ雨の音が、一晩じゅう止まない。
(私が休んだから、雨)
そう思うと、毛布の中で叫び出したくなる。
(いや、でも、ほら、偶然かもしれないし。夏は雨が多いし。手帳には前線の影響とか書いておけば――)
ピシャーン!
窓の外で雷が鳴った。
(……前線の影響では、ないですよね)
昼を過ぎると、雨はさらに強くなった。
扉がノックされたのは、そのころだ。
「ペトラさん! 生きてる!?」
マルタさんだった。
「シーツが! 三日分のシーツが乾かないのよ! お願い、出勤してちょうだい!」
「す、すみません、今日はちょっと……」
マルタさんが帰ると、次は庭師のヨアヒムさんが来た。
「ペトラさん、薔薇が……薔薇が水びたしで……」
その次は料理長。
「冷製スープを仕込んだのに、王宮じゅうが寒くて誰も飲まないんだ!」
その次は、騎士団の若い団員たち。
「ペトラさん、俺たち何かしましたか!? 団長が朝から一言もしゃべらないんです! 訓練場が池になってます!」
その次は、副団長のベルント様だった。
「あー……昨日は悪かった。立ち聞きさせるつもりはなかったんだ。でもな、そろそろ東の川が危ない。俺が言うのもなんだが……あいつ、自分のせいで君が休んだと思ってる」
そして最後に、なんと王妃殿下の使者がやってきた。
「王妃殿下より、ご伝言です。『明日の天気は、あなたが決めなさい』とのことです」
扉が閉まる。
私は毛布から顔を出した。
(明日の天気は、私が決める……)
窓の外を見る。
雨は、まだ強く降り続いている。けれど、さっきまでの雷も風も、いつのまにか止んでいた。
ただ静かに、しとしとと、途切れずに降っている。
まるで、誰かが声を出さずに泣いているみたいに。
雨が止まない。
止め方を、俺は知っているはずだった。
幼いころに屋敷へ雹を降らせてから、ずっと。感情を顔に出さず、胸の奥に沈めて、凪にしておく術を身につけてきた。怒りも悲しみも、押し込めれば空は静かになる。だから俺は「無風」と呼ばれるようになった。
それが崩れたのは、二年前の春だ。
東の塔の窓で、何かがきらりと光った。望遠鏡のレンズだった。新しく入った見習いの予報士が、毎朝、俺を見ているのだと知ったのは、その数日後のことだ。
最初は、監視されているようで落ち着かなかった。
次の週には、塔の窓が光るのを待つようになった。
ひと月もすると、彼女の貼り出す予報を読むのが、一日のはじまりになった。
『明日 快晴。団長、今朝はしわゼロでした』
予報の隅に、小さな字でそう書いてあった日。王都の空には、季節外れの虹がかかった。
……どうしようもない、と思った。
顔には出ない。出さないように、生きてきたのだから。けれど空だけは、嘘をつかない。
彼女がいる日は晴れる。いない日は雨が降る。彼女が誰かに笑いかけると、雷が落ちる。
王宮じゅうに知られた。副団長には毎日からかわれた。王妃殿下には、園遊会の日取りまで決められた。
それでも、彼女本人だけは気づかなかった。
気づかないまま、毎朝、俺を見ていてくれた。それでいいと思っていた。言葉にすれば、何かが壊れる気がした。
――昨日、執務室で、まっすぐ目を見て「何を感じていらっしゃいましたか」と聞かれるまでは。
答えられなかった。答えたら、空がどうなるのか、自分でもわからなかった。
そして今日、彼女は来なかった。
塔の窓は光らない。予報は貼り出されない。
雨が止まない。
止め方を、俺は知っているはずだった。
……いや。本当は、知っている。
俺は外套もはおらずに、執務室を出た。
気づいたら、私は使用人棟を飛び出していた。
傘も持たずに、雨の中を走る。向かう先は、東の塔。
予報士として、今日の観測をしていないのが、どうしても落ち着かなかったから。
――いや、違う。
会いたかったのだ。ちゃんと、望遠鏡越しじゃなく。
塔の下まで来て、私は足を止めた。
らせん階段の入り口の前に、ずぶぬれの人が立っていた。
黒い髪から雨がしたたり、騎士団の制服は色が変わるほど濡れている。外套も着ていない。
「……団長」
レオンハルト団長が、振り向いた。
いつもの無表情――では、なかった。
灰色がかった青い目が、まっすぐ私を見て、ほんの少しだけ、揺れていた。
「ハイター」
「は、はい」
「昨日の質問に、答えに来た」
雨の音が、急に遠くなった気がした。
「中庭の雷は……君が、他の男に笑いかけていたからだ。怒りじゃない。あれは、たぶん、嫉妬だ。十段階で言えば、十だ」
「じゅ……」
「執務室の天気雨は、君が目の前にいたからだ。うれしいのと、どうしていいかわからないのが、同時に来た。……十段階では、測れない」
団長は、一歩近づいた。
「今日の雨は、君が来なかったからだ。俺が何か、君を傷つけたのだと思った」
「ち、違います!」
私は首を横にふった。
「傷ついたんじゃなくて……恥ずかしかったんです。二年間、毎朝団長を観測していたのに、いちばん大事なことに気づかなかった自分が。それに……」
雨でぐしゃぐしゃになった手帳を、ぎゅっと胸に抱える。
「私の予報が当たっていたのは、私の腕じゃなくて、団長のお気持ちのおかげだったんだって思ったら……」
「違う」
団長の声は、はっきりしていた。
「俺の感情は、俺にも読めない。顔に出さないようにしすぎて、自分が今なにを感じているのか、わからなくなっていた。……君の予報を見て、ああ、俺は今日、機嫌がいいのか、と知った日もある」
「……え」
「俺の気持ちを、俺より先に読んでいたのは、君だ。君の予報は、君の腕だ」
胸の奥が、じんと熱くなった。
雨が、少しだけ弱くなった。
「ペトラ・ハイター」
初めて、名前を呼ばれた。
「俺は口がうまくない。気持ちを言葉にするのも、顔に出すのも苦手だ。だから、これからも、空でしか伝えられないことのほうが多いと思う」
団長は、雨に濡れた手を、そっと差し出した。
「それでも、明日も、明後日も、俺の天気を読んでくれないか。……望遠鏡じゃなく、隣で」
私は、その手を見つめた。
予報士の私には、わかる。
この手を取ったら、空がどうなるか。
――でも、確かめずにはいられないのが、観測する者の性というものだ。
「……はい」
私は、団長の手を取った。
その瞬間。
頭の上の雨雲が、まるで誰かが両手で押し広げたみたいに、真ん中から割れた。
光が差した。
金色の陽射しが、濡れた石畳を、塔を、王宮じゅうの屋根を照らしていく。ずぶぬれの団長の髪が、きらきらと光った。
そして空いっぱいに、虹が――一本、二本、三本。
「……三本」
私は思わずつぶやいた。
「観測史上、初です」
「そうか」
団長は、空を見上げなかった。私だけを見ていた。
そして、ほんの少しだけ――本当に、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
望遠鏡越しの二年間で、一度も観測したことのない表情だった。
(ああ、これは)
(これは、記録しなきゃいけない)
でも手帳はぐしゃぐしゃで、ペンもどこかに落としてきて、それに何より、つないだ手を離したくなかった。
遠くで、どこかの窓が開く音がした。
「晴れたぞおおお!!」
「シーツ! シーツを干して!!」
「虹が三本!? ペトラさんだ! ペトラさんが出てきたんだ!!」
王宮じゅうから、歓声が上がった。
……王都で知らなかったのは、本当に私だけだったらしい。
翌朝、王宮の掲示板には、いつもどおり私の予報が貼り出された。
『本日の王都 快晴』
『なお、当面のあいだ、崩れる見込みはありません』
『※ただし、予報士が他の男性と談笑した場合は、局地的な雷雨にご注意ください』
最後の一行を書き足したのは、私ではない。
副団長のベルント様の字だったので、私はあとで抗議に行くことにした。
六時きっかり。私は望遠鏡を持たずに、塔を降りた。
訓練場では、団長が部下たちの朝稽古を見回っていた。私が近づくと、団員たちがいっせいに道をあけ、なぜか拍手が起きた。
(やめてください、本当に)
団長の隣に立つ。望遠鏡越しではない距離で、その横顔を見上げる。
「ペトラ。今朝の観測は」
「眉間のしわ、ゼロ本。口角、わずかに上昇」
私は手帳に書きつけて、それから、新しいページの予報を読み上げた。
「本日の王都――快晴です」
団長は何も言わなかった。
かわりに、雲ひとつない空のまんなかに、小さな虹がひとつ、かかった。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
顔には出ないのに空には全部出てしまう団長様と、二年間それに気づかなかった予報士のお話、楽しんでいただけましたでしょうか。
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