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嘘の調律師

この街には、秤の目を盗む「調律師」と呼ばれる闇のコンサルタントが存在する。 彼らは嘘を真実へと書き換えるのではない。嘘を吐く瞬間の「脳の罪悪感」を麻痺させ、秤のセンサーが反応しないレベルまで精神を調律するのだ。


 今回の標的は、多額の公金横領の疑いがかかっている会計士の男だった。 取調室に座る彼は、驚くほど平然としていた。横領の証拠は揃っている。だが、彼が「私は一円も盗んでいない」と口にしても、足元のデジタル表示は「〇グラム」から一ミクロンも動かない。「無駄ですよ、刑事さん。私は潔白だ。この秤が、何よりの証拠でしょう?」 男は薄笑いを浮かべた。その瞳はどこか虚ろで、焦点が合っていない。


 私は、男の背後に潜む影――「調律師」の存在を追った。

 辿り着いたのは、窓一つない地下のクリニック。そこには、最新の脳科学機器に囲まれた一人の女がいた。

「嘘を吐くから重くなるのではありません。嘘を『悪いこと』だと認識するから重くなるのです」

 調律師の女は、悪びれる様子もなく私に微笑んだ。



「私はクライアントに、特別な自己暗示を施します。『これは嘘ではない、必要な方便だ』『これは自分の金ではなく、最初からそこにあったものだ』と。脳の報酬系を書き換え、罪悪感という回路をバイパスさせる。そうすれば、秤はただの置物になります」




 彼女の手法は、人間の倫理観そのものをハッキングするものだった。

「あなたが守っている『正義』は、結局のところ脳内の電気信号に過ぎない。私はそれを少しだけ、住みやすいように調整しているだけです。いいですか、刑事さん。この街の秤が測っているのは『客観的真実』などという高尚なものではありません。単なる『脳の動揺』、つまりはストレス反応の波形に過ぎない。ならば、その波形さえ平坦に保てば、人は神にさえ嘘を吐ける」




 彼女はモニターに映し出された、複雑に入り組んだ脳のシナプス図を指し示した。

「私はクライアントの脳に、新しい『論理のバイパス』を敷設します。例えば、横領という行為を『一時的な資金の移動』あるいは『社会への還元を待つための保全』と再定義させる。脳がその解釈を心底から受け入れれば、前頭前野は警告を発するのをやめ、扁桃体は静まり返る。罪悪感という名の重力は、その瞬間に消失するのです」




 彼女の言葉は、静かだが狂気に満ちていた。

「倫理とは、社会が個人の脳に植え付けた一種のバグに過ぎません。私はそのバグを取り除き、人間を本来の『自由』へと解き放っている。私の施術を受けた者は、どれほど凄惨な嘘を吐こうとも、羽毛のように軽く、聖者のような微笑みを浮かべていられる。秤が支配するこの街において、それこそが真の特権階級の証だとは思いませんか?」




「……それが、魂を殺していることになるとは思わないのか」

 私が問うと、彼女は憐れむような目で私を見た。

「魂? 刑事さん、そんな計測不能なもののために、一生を重圧に耐えて過ごすのがあなたの正義ですか? 私は、電気信号を調律することで、地獄を天国に変えているだけです。秤という名の神を欺くこと。それこそが、この管理社会に対する唯一の人間的な抵抗なのですよ」


 私は再び、取調室の会計士と対峙した。 彼は調律によって、自分が横領したという事実さえも「正しい再分配」だと思い込まされている。「……会計士さん、君の脳は確かに騙せているかもしれない。だが、君の体はどうかな?」


 私は、彼の指先が微かに震えているのを見逃さなかった。「調律師は、脳の回路をバイパスしたと言った。だが、人間の神経系は脳だけじゃない。心臓、内臓、そして皮膚。全身の細胞が、君が吐いている言葉の『不自然さ』を覚えている」


 私は机を強く叩いた。「君が盗んだ金で、何人の市民が路頭に迷ったか考えたことはあるか? 君が『正しい』と信じ込もうとしているその裏側で、君の生存本能は、この不一致がもたらす破滅を予感して悲鳴を上げているんだ!」


 その瞬間、会計士の顔が急激に青ざめた。 調律による暗示の壁に、微かな亀裂が入る。「……私は……私は、ただ……」 ピピッ、と秤が反応した。一キロ、三キロ、十キロ。「あ、ああ……っ!」 一度崩れ始めた暗示は、雪崩のように彼を飲み込んでいく。調律によって無理やり抑え込まれていた「事実」が、反動となって数倍の質量で彼を襲った。


「ぐ、がぁぁっ! 助けてくれ! 重い、体が……っ!」 彼は椅子から転げ落ち、床に這いつくばった。デジタル表示は瞬く間に百キロを超え、彼の肋骨がミシミシと音を立てる。


「調律師に伝えろ。人間の魂は、機械ほど単純じゃないとな」


 事件後、地下のクリニックはもぬけの殻だった。 だが、私は知っている。この街のどこかに、今も「重くならない嘘」を売り歩く者がいることを。 秤という制度が完璧であればあるほど、人はそれを利用し、欺こうとする。 嘘を「方便」だと言い聞かせ、自らの重みを消し去った人々。彼らが闊歩するこの街は、一見軽やかで平和に見える。だがその足元には、誰にも測られることのない、どす黒い悪意の澱みが確実に積み重なっているのだ。

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