2章7話 「撤退」
イサベラが指定した場所は、町の外れにある古い井戸の脇だった。
夜明け前。まだ暗く、南国特有の異様に大きな声の鳥がどこかで鳴いていた。
まるで猫の鳴き声のようだと思いながらエルネストが指定された場所に向かうと、イサベラは既に到着していた。
エルネストが近づいても振り返らず、井戸の縁に手を置き、水面を覗いていた。
「時間通りですね」
「用件を聞かせてもらおう」
イサベラがゆっくりと振り返った。
「ホアンを信用しないでください」
声は静かだった。
これは脅しでも頼みでもなく、ただの、事実の伝達だ。
「理由は?」
「あの男をどう見ましたか?」
「年齢以上に子供っぽい……自分は万能だが、その自分を活用出来ない人間は無能で邪魔だと感じている。だから、ケイポ将軍の下では力を出さなかったし、自分をうまく使えるラウルに取り入った。ただし――」
エルネストは思ったままを語った後に、一言付け加えた。
「――能力だけは本物だ。官僚としても政治家としても適性は高そうだ。本当に優秀な人間が自分が輝ける場所を探して、ついにその相手に巡り会ってしまった。それだけにたちが悪い」
ラウルは下町出身であり、完全実力主義の蒼炎隊にいた。
故に、他人を出自などで見ることはない。
その態度が、ホアンは実力がようやく正当に評価されたと解釈したのだろう。
だが、エルネストの見立てでは、ホアンは人間を、記号としてしか見ていない。
そういう本質のところは、間違いなく、アルバロ・メンドーサの血を受け継いでいる。
「あの男は父親を利用すると言いました。ですが、利用する対象は父親だけとは限りません」
「私を利用するかもしれないと言いたいのか」
「書類を運ぶ人間は、書類の中身と同じくらい重要です。あなたが本国で何者かを、ホアンは知っている」
エルネストは井戸の縁に目を向けた。
水面は暗くて見えない。
「ホアン・メンドーサの目的はこの島ではないでしょう。父親やラウルを……グラーシェも利用して、政治に介入したい。自分が学んだ知識を生かしたい。報告書はそのための道具に過ぎない」
「お前はそれを、なぜ私に言う」
イサベラが少しだけ間を置いた。
「ラウルが信用した人間を、私は簡単に切り捨てたくないからです」
嘘ではない。
だが、それだけでもないだろう。
「それならば、ホアンもラウルが信用した人間だ」
エルネストはそれだけ言った。
イサベラは何も返さなかった。
「本質だけを見極めてくれ。今のラウルは不安定だ。慣れない仕事を任されて、余裕がない。誰かが傍について見張っている必要がある」
「それはあなたも――」
「――私は帰国してやることがある」
最後の言葉は聞かなかった。
イサベラは踵を返し、足音なく暗がりの中に消えた。
朝の光が、少しずつ水平線を染め始めていた。
出航の時間は近い。
◆ ◆ ◆
船は海霧が立ち込める朝一番に出ることになった。
まだ北部にいる強硬派の問題が解決したわけではない。
強硬派の船や追い立てられた幻想種が来る前に、霧に紛れて脱出するのが良いという船長の判断だ。
帰りの船に乗るのは一人だけだ。
フェリペもルシアと共に島に残り、ラウルの下で働く。
本人たちの決断を止めるつもりはない。
桟橋にはフェリペだけが出迎えに来た。
予想通りラウルの姿もなく、ルシアの姿も既に村の方へ向かっていた。
寂しい見送りだが、それぞれやることがあるのだから仕方ない。
「どうしても残るんだな」
「本国に戻っても、どうせ仕事はないんでしょう。なら、ラウル先輩の下で、出来ることをやります」
「一晩考えての決断がそれならば、止めはしない」
フェリペが船縁に手をかけた。
「隊長も本国で何かをやるんですよね。ラウル先輩が頑張れるように頼みます」
「逆だ。お前がラウルの目の届く場所にいろ。民を守れ。ラウルを守れ。そして、ルシアを守れ」
「注文が多すぎませんか? 僕はまだひよっ子ですよ」
「自分の意志で困難な道に挑もうとするのは、一人前の男だ。私が認める」
フェリペは少しだけ目を細めた。
子供のような顔だと思っていたが、そうではない。
毎日着実に成長している。
「……分かりました。やり遂げて見せます」
帆が風を受けた。
桟橋のフェリペが、遠ざかっていく。
エルネストは甲板に立ったまま、島の輪郭が水平線に沈むまで目で追った。
ペスカの白い砂浜。椰子の並木。
革命軍の赤い旗だけが、霧の中でも最後まで目立っていた。
◆ ◆ ◆
セドラの軍港に着いたのは、3日後の朝だった。
そこから半日、馬車に揺られて王都へ帰還。
メンドーサへの報告は、翌日の午前に行われた。
場所は軍の参謀本部。
案内された部屋は、窓が大きく、陽光が入る。
だが、部屋の空気は重かった。
アルバロ・メンドーサは机の向こうに、口を一文字に閉じて座っていた。
「報告を」
言葉は低く、短かった。
エルネストは報告書を渡した後に、立ったまま、口頭で概要を述べた。
ティアナ島嶼郡の現状。
北部と南部の勢力分断。
駐留軍北部分隊による物資独占と徴税強化の実態。
駐留軍南部の本体が、本国の正規指揮系統を引き継ぐ立場にあること。
ホアン・メンドーサが南部に在籍していること。
ケイポ将軍は健在で引き続き南部の指揮を執っている。
そして、最後に一言自分が付け足した文章だ。
北部南部、両勢力には海軍戦力が少ない。
元が治安維持部隊という側面があり、王国海軍を差し向ければ容易に壊滅できる。
島に揃っているのはその程度の戦力であり、お互いに短期決戦を考えている。
メンドーサは報告内容を黙って聞いていた。
最初から追い落とすことが目的で、報告を聞き流していたトレントの時とは違う。
メンドーサからしても、自勢力の利益が掛かっている。
途中で口を挟まず、報告を聞きながら、報告書に相違ないか一枚ずつ目を通していく。
一枚目。二枚目。
ホアンの報告書に差し掛かった時、メンドーサの目が止まった。
筆跡で分かるのだろう。
ホアンの書類はもう一度、最初から読んだ。
「サラサール、これは本当のことか? 北部分隊が軍の命令だと偽り、私略を行っていると?」
「北部分隊のデオン・アロンソ将軍が、本国への報告を怠っているのであれば、そうなります」
トレントに報告した際には、武装蜂起した勢力の鎮圧は、軍の治安活動であり、命令逸脱はなく非はないと記録された。
そして、似通った事件……強硬派による現地民への私略行為については、その事件が前例として参照される。
ただし、その報告は上がっていない。
本国に連絡を入れていない北部強硬派は、正規軍を騙り、しかも島で得た利益を独占して本国には報告していないと判断される。
「勝手に島民への税を増額したというのもか?」
声に温度がなかった。
怒りでも疑念でもなく、ただ報告書の内容を確認しているだけだ。
「事実のみを記載してあります。報告書の一部は、ご子息が作成されたものです」
「ホアンが南部にいると言ったな。直接、顔を見たか?」
「本人に接触して、ティアナの実情を直接聞きました。報告書が自筆のものであることがその証明です」
「アレの様子はどうだった」
エルネストは少し間を置いた。
「理念と実務、どちらにも不足はないと見ました」
「アレがケイポの下で?」
メンドーサはエルネストを睨みつけた。
「アレだぞ! ケイポだぞ!?」
「報告書の内容が全てです」
エルネストはあくまでも淡々と答えた。
「南部駐留軍に勝ち目は? ケイポ将軍は穏健派な上に慎重な性格だ。自ら仕掛けるとは思えない。石橋を叩くが結局渡らないやつだ」
ここで、エルネストが待っていた質問がやってきた。
ラウルがリーダーとなって世界を変えようとしているのだ。
自分も、いつまで経っても石橋を渡らないわけにはいかない。
「勝ちます。南部には蒼炎隊のラウルが所属しています」
「所属しているからなんだというのだ?」
「蒼炎隊の戦力は、一騎当千。完全装備の師団以上です」
「魔法使いの時代は終わった」
「軍……組織としての魔法使いの時代は終わりでしょう。ですが、個としての魔法使いは健在です」
メンドーサの眉がピクリと動いた。
エルネストは待っていたとばかりに、一枚の書類を提出した。
「軍の師団編成に、もはや魔法使いの部隊が入る隙間はありません。教育には時間も金もかかりますが、人数を揃えられない。それでは作戦行動は取れない」
「ああ、その通りだ。部隊としては成立しない」
「ですが、完全に独立した部隊としてならば?」
「秘匿魔法……それこそ対軍魔法が国際条約で禁止される前ならば、それもあった……だが、それは世界中から再度、神の敵対者としてまた疎まれることになる」
メンドーサは両手を組んだ。
「もちろん、秘匿魔法は使用しません。単騎での諜報、工作部隊として運用を考えていただきたい」
「秘匿魔法なしで、そんなことが可能なのか?」
「ティアナの情勢を確認ください。決断に値する結果が見られるはずです」
「仮定の話はいい。結果が出てから来い」
売り言葉に買い言葉なのかもしれない。
だが、国家総監から結果を出したら来ても良いという言葉を引き出すことが出来た。
種は撒いた。後はラウルを信じるのみだ。
「承知しました。結果が出たら、再度伺います」
エルネストは礼をして、部屋を出た。
廊下に出た瞬間、肩の力が抜けた。
◆ ◆ ◆
エスピナとの接触は、その夜だった。
場所は前回と同じ路地裏ではなく、下町の古い酒場だ。
看板の灯りが半分しか点いていない。
カウンターには客が三人。
全員が黙って安ワインを飲んでいる。
エスピナは一番奥の席にいた。
今回は私服で、フードも被っていない。
グラスに手を添えたまま、エルネストが来ても立たずに、黙ってグラスに映る灯りを見つめていた。
「メンドーサの反応は」
「書類を読んで、確認だけして終わりだ」
「そうか」
エスピナが新しいグラスを注文して、エルネストの前に置いた。
「選挙だ。来月に議会の選挙がある」
「……共和派が勝つのだろう」
今までに聞いた情報を総合すると、そういう結論になる。
強引すぎるメンドーサ体制には不満が大きい。
市民だけではなく、貴族や地主などの富裕層にも不満が出てきている。
軍部もそうだ。
軍の派閥はいくつもあり、メンドーサがその全てを掌握しているわけではない。
「ほぼ間違いない。メンドーサ体制への不満は限界に来ている。今の状況で選挙をやれば、共和派が過半数を取る。軍としては、頼れる軍部として、戦果を国民へのアピール材料としたいところだが、どこを見ても、戦争など起こっていない」
「だからこそ、ティアナの情勢が必要だと」
「そういうことだ。戦争が行われている……軍部が実績をアピールできるのはあの島だけだ。だからこそ、選挙前の短期決戦が望まれている」
グラスの中の液体が揺れた。
島の情勢も同じだ。
強硬派が勝てば、島の反乱軍の鎮圧に成功。軍が健在であるとアピール出来る。
逆に革命軍が勝っても、国家総監の息子が所属する勢力が、不正を起こした悪を断罪したと、陸軍のアピールに繋がる。
どちらの勢力が勝っても、一時的にはメンドーサが得をするようになっている。
そして、エルネストはそれを見越して、書類には海軍力で圧倒すれば良い。メンドーサの不利にはならないと書いている。
「問題はその先だ」
エスピナが声を低くした。
「共和派の後ろにグラーシェがいる。金も人も、相当な量が動いている。言っちゃ悪いが、共和派には政治の素人しかいない。選挙で勝った後に、どこまで自分たちの頭で動けるか」
「グラーシェの言いなりになるかもしれないと」
「なるかもしれないじゃない。今の流れを見れば、確実にそうなる。借りは施しではない。後で返さないといけない」
エスピナがカウンターの端に目を向けた。
客の一人が席を立った。
それを確認してから、また話した。
「メンドーサはティアナの情勢を利用する気だが、それはグラーシェもだ。島の革命軍を本土進出の足がかりにする気だ」
「それはいつ頃の話だ」
「選挙の後、体制が定まる前が一番動きやすい。混乱している間に実績を作る。それがあいつらのやり方だ」
エルネストはグラスに手を付けなかった。
「だが、メンドーサ体制を崩すには選挙しかないのは事実だ」
「共和派に、一度腐った柱は倒してもらうしかない。その後に旧王国派を集めて、国を取り返す。今出来ることはそれしかない」
そのためのラウルと革命軍。
そのための蒼炎隊だ。
どちらも存続させて、次に繋がないといけない。
「一つだけ確認したい。ティアナの革命軍に、グラーシェ製の武器が届いていた。ここから、グラーシェが撤退を選んだ場合、補給はどうなる」
「即日止まる。あいつらは、自分たちの利益にならないことに関しての行動は早い」
エスピナが短く言った。
「あっちは投資のつもりだ。見返りがなければ続けない。革命軍がグラーシェの思惑通りに動かないと判断したら、次の日には補給が消える」
路地から風が入ってきた。
ランプが揺れた。
「サラサール。お前はティアナで何を見た?」
エスピナが初めて、正面から目を向けた。
「島が、ゆっくりと詰められていくのを見た」
エスピナは何も言わずに、グラスを回した。
「引き続き動いてもらう。いいな」
エルネストは答えた。
「条件が一つある。私は法と書類の範囲でしか動かない。それを超える指示には従わない」
エスピナが鼻を鳴らした。
「当たり前のことをわざわざ言うやつだ、お前は」
エスピナはスッと立ち上がり、上着を手に取った。
「選挙が終わるまでに、もう一度会う。それまでに動きがあれば連絡する」
エスピナが扉に向かった。
出る前に一度だけ振り返った。
「ラウル・バルガスが今どこにいるか、俺は聞かない。だが」
少しだけ間があった。
「あいつが生きているなら、それで十分だ」
扉が閉まった。
酒場の話し声や、グラスの触れ合う音が戻ってきた。
エルネストはグラスを手に取った。
中身は少し酸っぱいワインだった。
ラウルが好きだった味だ。




