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第二章:凍てつく月と、戸惑う太陽

時間が、凍り付いたかのようだった。

路地裏の淀んだ空気は、二振りの霊刀が放つ光によって切り裂かれている。一方は、夜の静寂を宿す氷月ひょうげつの青。もう一方は、全ての闇を許さない旭日きょくじつの黄金。その二つの光の間に立ち、陽菜は生まれて初めて握ったはずの刀の、不思議なほど手に馴染む感触を確かめていた。


怪物――妖は、明らかに陽菜を警戒していた。その複数の複眼が、陽菜と、彼女が手にする霊刀「天照」とを交互に見比べ、低い唸り声を上げている。先程までの獰猛な勢いは消え、本能的な恐怖がその動きを縛っているようだった。


「…白虎さん、あなた、一体…」


背後から聞こえる響子の声は、驚愕と、そして陽菜が今まで感じたことのない種類の緊張を孕んでいた。しかし、陽菜には振り返る余裕も、答える余裕もなかった。頭の中では、天照と名乗った声が、優しく、しかし明確に語りかけてくる。


(…恐れることはない。汝の思うままに、刃を振るえ…)

(…その光は、汝自身の光なのだから…)


私の、光。

その言葉が、不思議な勇気をくれた。陽菜は、ぐっと柄を握りしめ、一歩前に出る。

それに反応し、妖が威嚇するように甲高い鳴き声を上げた。鎌のような前足が地面を掻き、いつでも飛びかかろうという体勢を取る。


「来い…!」


陽菜は叫んだ。それは、恐怖を振り払うための絶叫だった。

妖が地を蹴る。先程、響子に襲いかかった時とは比べ物にならないほどの速度。残像を残しながら、陽菜の懐に潜り込もうとする。

速い。目で追うのがやっとだ。

だが、不思議と体は動いた。いや、動かされていた、という方が正しいのかもしれない。天照が、陽菜の手を引くように、最適な軌道を描き出す。


陽菜は、ただその導きに従った。腰を落とし、体を捻り、天照を横薙ぎに振るう。

黄金の軌跡が、夜の闇を切り裂いた。

キィィン!という耳障りな金属音。陽菜の一撃は、妖の硬い甲殻に阻まれた。しかし、妖もまた、その衝撃に体勢を崩し、数メートル後方へと吹き飛ばされていた。


(…硬い…!)


痺れる腕を押さえながら、陽菜は驚愕する。渾身の一撃だったはずだ。だが、相手には傷一つついていない。

一方、妖もまた驚いているようだった。陽菜が放った刃に宿る、純粋な浄化の力。それは、妖にとって猛毒に等しい。直接斬られずとも、その光に触れただけで、甲殻の一部が焼け焦げたように変色し、じりじりと煙を上げていた。


「グルルルル…!」


妖は、陽菜を最大の敵と認識したようだった。その口が大きく開かれ、中から粘着質の液体が弾丸のように吐き出される。

陽菜は咄嗟に身を翻してそれを避けた。液体が当たった背後の壁が、ジュウ、と音を立てて溶けていく。強力な酸だ。


「白虎さん、左!」


響子の鋭い声が飛ぶ。

はっと左を見ると、いつの間にか回り込んでいた妖が、巨大な鎌を振り上げていた。まずい、避けきれない。

そう思った瞬間、陽菜の視界を青い閃光が掠めた。

響子が、傷ついた体で陽菜の前に割り込み、その青白い刀「凍月」で鎌の一撃を受け止めていたのだ。


「ぐっ…!」


響子の膝が、がくりと折れる。先程からの一連の攻防で、彼女の体力は限界に近かった。

「氷月さん!」

「ぼさっとするな!奴の狙いは、その刀か、お前自身だ!」

響子は陽菜を庇うように立ち、荒い息の下で告げた。

「奴は『骸蜘蛛むくろぐも』。物理的な攻撃は硬い殻で防ぐ。だが、光や熱には弱い。その刀なら…やれるはずだ!」


その刀なら。

響子の言葉に、陽菜は自分の手の中にある天照を見つめた。本当に、自分にできるのだろうか。つい数分前まで、ただのデザイナーだった自分に。

迷いが、一瞬、刀の輝きを曇らせる。


(…信じよ。汝自身を。そして、隣に立つ者を…)


天照の声が、再び陽菜を現実に引き戻した。

隣に立つ者。

陽菜は、自分を庇いながら、必死に骸蜘蛛と対峙する響子の背中を見た。いつも完璧で、気高くて、手の届かない存在だと思っていた先輩。その背中が、今はとても小さく、そして儚く見えた。

守らなければ。

いや、違う。


(…一緒に、戦うんだ…!)


陽菜の心に、新たな覚悟が灯った。

「氷月さん!私が奴の動きを止めます!」

「なにを…!」

「お願い!一瞬でいいから!」

響子が何かを言う前に、陽菜は地を蹴っていた。

骸蜘蛛に向かって、一直線に。無謀な突撃。

骸蜘蛛は、それを嘲笑うかのように、左右の鎌を同時に振り上げた。先程の酸液も口元に溜め込んでいる。どう見ても、勝ち目のない特攻だった。


だが、陽菜の狙いは攻撃ではなかった。

骸蜘蛛の目の前で、陽菜は天照を地面に突き立てた。


「―――輝け、天照ッ!」


叫びに応え、天照が爆発的な光を放った。それは、真昼の太陽が突如として路地裏に出現したかのような、圧倒的な閃光。

「ギャアアアアアッ!」

光を苦手とする骸蜘蛛が、苦悶の絶叫を上げた。その巨体が光に焼かれ、激しく身悶える。複眼は光に眩み、鎌の動きも滅茶苦茶になった。

陽菜が創り出した、一瞬の隙。


それを見逃す響子ではなかった。

「…そこ!」

響子の体が、地を這うように低く沈み込む。そして、陽菜が創り出した光の壁のすぐ横を、氷の矢となって駆け抜けた。その動きには、先程までの疲労など微塵も感じさせない、研ぎ澄まされた鋭さがあった。

骸蜘蛛の注意は、光を放つ陽菜と天照に集中している。響子の接近に気づくのが、コンマ数秒、遅れた。


響子の狙いは、硬い甲殻ではない。無防備に晒された、足の関節。

青い軌跡が、閃いた。

凍月が、骸蜘蛛の右側の足を三本、同時に、正確に、断ち切った。

ザシュッ、という生々しい音と共に、切断された足が宙を舞う。バランスを失った骸蜘蛛の巨体が、轟音と共に傾いた。


好機。

陽菜は、地面に突き立てていた天照を引き抜き、再び構えた。

光が収まり、再び視力を取り戻した骸蜘蛛が、怒りと憎悪に満ちた目で陽菜を睨む。そして、残った足で無理やり体を支え、最後の力を振り絞るように、陽菜に向かって突進してきた。


今度こそ、陽菜は真正面からそれを見据えた。

恐怖はない。あるのは、やり遂げるという確かな意志だけだ。


(…見える…)


不思議な感覚だった。高速で迫ってくるはずの妖の動きが、スローモーションのように見えた。どこを狙えばいいのか、どう刃を振るえばいいのか、その全てが、頭の中に流れ込んでくる。

陽菜は、天照を両手で握りしめ、大きく振りかぶった。


(―――ここだッ!)


天照の切っ先が、骸蜘蛛の眉間――その僅かな甲殻の隙間に、吸い込まれるように突き立てられた。

ゴッ、という鈍い感触。

黄金の刃は、骸蜘蛛の頭部を深々と貫いていた。


「ギ…ギギギ…」


骸蜘蛛の動きが、完全に止まる。

陽菜は、力を込めて、突き刺した天照をさらに押し込んだ。

すると、刀身から溢れ出した浄化の光が、骸蜘蛛の体内を駆け巡った。それは、聖なる炎となって、妖の邪悪な霊体を内側から焼き尽くしていく。


「ギャアアアアアアアアアアアア―――ッ!」


断末魔の絶叫が、夜の新宿に木霊した。

骸蜘蛛の体は、その光に耐えきれず、ひび割れていく。そして、最期は小さな光の粒子となって、雨に濡れた夜気の中に、静かに霧散していった。


後に残されたのは、シン、と静まり返った路地裏と、呆然と立ち尽くす陽菜、そして、息を整えながら彼女を見つめる響子の二人だけだった。

陽菜の手から、天照がするりと抜け落ちる。カラン、と乾いた音を立てて地面に転がった刀は、その役目を終えたかのように、輝きを失い、ただの古びた刀に戻っていた。

途端に、全身から力が抜ける。陽菜はその場にへたり込んだ。心臓が、今更になって激しく鼓動を打っている。手足は震え、呼吸もままならない。


「はぁ…はぁ…う、そ…」


自分がやったことが、信じられなかった。人を殺めるのとは違う。だが、確かに、この手で一つの「生命」を消し去ったのだ。その事実が、ずしりとした重みとなって陽菜の心にのしかかる。吐き気がした。


その時、すっと目の前に影が差した。

響子だった。彼女は、陽菜の前に静かに膝をつくと、何も言わずに、陽菜の震える手を、彼女自身の冷たい手でそっと包み込んだ。


「…よく、やった」


その声は、いつも陽菜が聞く、氷のように冷たい響子の声ではなかった。ほんの少しだけ、温かみを帯びた、優しい声だった。

「あなたは、化け物なんかじゃない。人を…私を、守ってくれたんだ」

「氷月…さん…」

「今は、何も考えなくていい。…立てるか?」

響子に支えられ、陽菜はふらつきながらも立ち上がった。


雨は、すっかり上がっていた。

雲の切れ間から覗く月が、まるで舞台の終演を告げるスポットライトのように、二人を照らしていた。

陽菜の世界は、もう二度と、元には戻らない。

凍てつく月と、戸惑う太陽。二人の少女の、運命の夜は、こうして静かに更けていくのだった。

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