第一章:東京の空に、陽はまだ昇らない
アスファルトを叩く雨は、この街の溜息のようだった。
西新宿の高層ビル群は、鉛色の空に黒々とした墓標のように突き立ち、その窓の一つ一つに宿る無数の人生を無感動に飲み込んでいる。午後八時。本来ならば、この街が最も饒舌になる時間だ。しかし、冷たい雨がネオンサインの光を滲ませ、喧騒を湿った静寂へと変えていた。
白虎陽菜は、折り畳み傘の骨に当たる雨音を聞きながら、溜息を一つ吐いた。今日で三日連続の残業だった。春から働き始めた小さなデザイン事務所は、良く言えばアットホーム、悪く言えば人手不足。クライアントの無茶な修正依頼が重なり、新社会人の陽菜も例外なくその渦中にいた。
「…疲れた…」
誰に言うでもなく呟いた声は、雨音に掻き消された。キーボードを叩き続けた指先は痺れ、カフェインで酷使した頭は鈍い痛みを訴えている。早く帰って、お風呂に入って、コンビニで買った新作のアイスを食べたい。そんなささやかな願望だけが、重い足取りを支えていた。
ふと、視線を上げる。ガラス張りのオフィスビルが並ぶ大通り。その向こう側を歩く、一つの人影に目が留まった。
すらりとした長身に、腰まで届く濡羽色の黒髪。黒のロングコートが、彼女の完璧なシルエットを際立たせている。
氷月響子。
陽菜が勤める事務所の先輩であり、彼女が密かに憧れ、そして少しだけ恐れている存在だ。
響子は、この業界では名の知れた敏腕デザイナーだった。彼女が手掛けるデザインは、常にミニマルで、知的で、そしてどこか近寄りがたいほどの気品を放っていた。仕事は完璧。私語はほとんどせず、どんなに忙しくても必ず定時で帰る。その徹底したプロフェッショナルぶりは、陽菜のような新人からすれば、まさに雲の上の存在だった。
(氷月さんも、今帰りなのかな…)
いつもなら、とっくに帰路についているはずの時間だ。珍しいこともあるものだ、と陽菜は思った。声をかけてみようか。いや、迷惑だろうか。そんな逡巡をしているうちに、響子の姿は路地の一つに吸い込まれていった。大通りを避ける、近道だろうか。
陽菜もまた、その路地を知っていた。昼間は小さな飲食店が並ぶ賑やかな道だが、夜は人通りがぱったりと途絶える、薄暗い裏道だ。少しだけ迷って、陽菜もまたその路地へと足を踏み入れた。早く帰りたいという気持ちが、僅かな躊躇いを追い越したのだ。
路地は、ビルの谷間に刻まれた深い渓谷のようだった。両脇に聳える壁が空を狭め、雨音と、どこかの店の換気扇が回る低い唸りだけが響いている。街灯は少なく、水たまりが不気味な光を鈍く反射していた。
その空気に、陽菜はふと違和感を覚えた。
空気が重い。まるで、水中にいるかのような圧迫感。鼻につくのは、雨の匂いに混じる、生臭い獣のような臭気。
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
おかしい。何かが、おかしい。
本能的な恐怖が、陽菜の足を縫い止める。引き返そう。そう思った瞬間だった。
「―――ッ!」
路地の奥から、短い悲鳴と、金属が擦れるような甲高い音が聞こえた。
響子の声だ。
陽菜の心臓が、氷水に浸されたように冷たく跳ねた。考えるより先に、体は走り出していた。水たまりを蹴散らし、路地の奥へと駆ける。
辿り着いた先は、小さなゴミ集積所があるだけの行き止まりだった。そこで陽菜が見た光景は、彼女の常識を、世界そのものを、根底から破壊するのに十分すぎるものだった。
響子が、そこにいた。いつも冷静沈着な彼女が、肩で息をし、その白い肌にはいくつもの切り傷が走っている。その手には、信じられないものが握られていた。月光をそのまま凍らせたかのような、青白い光を放つ日本刀。
そして、響子と対峙している「それ」の姿に、陽菜は息を呑んだ。
人間ではない。
蜘蛛のようにも、蟹のようにも見える、歪な多足の怪物。その体は濡れたアスファルトのようなぬらりとした甲殻で覆われ、鎌のような前足がきらりと光る。いくつもの複眼が、ぎょろぎょろと不気味に動き、響子を捉えていた。その体からは、先ほど陽菜が感じた生臭い臭気が、濃密な瘴気となって立ち上っている。
「妖…!」
響子の唇から、陽菜が今まで聞いたこともないような、憎悪に満ちた声が漏れた。
怪物が、甲高い鳴き声を上げた。それはガラスを引っ掻くような不快な音で、陽菜の鼓膜を震わせる。次の瞬間、怪物の体が高速で響子に迫った。鎌のような前足が、雨滴を切り裂きながら振り下ろされる。
キンッ!と鋭い音が響き、火花が散った。響子が、その一撃を青白い刀で受け止めていた。しかし、その表情は苦痛に歪んでいる。怪物のパワーは、彼女のそれを上回っているようだった。
「くっ…!」
響子の体が、じりじりと後退する。アスファルトにヒールがめり込み、嫌な音を立てた。
陽菜は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。目の前で起きていることが、理解できなかった。頭が真っ白になり、足が震えて動かない。夢だ。これは悪い夢に違いない。そう思おうとしても、鼻をつく瘴気と、肌を刺すような殺気が、これが紛れもない現実だと告げていた。
怪物の追撃は止まらない。左右の鎌が、嵐のように響子に襲いかかる。響子はそれを、最小限の動きで捌き、受け流し、時にはいなしていた。その剣捌きは、素人目にも分かるほど洗練されていて、まるで精密機械のように正確だった。しかし、体力の消耗は明らかだった。彼女の呼吸は荒くなり、額には脂汗が滲んでいる。
(逃げて…!)
声にならない叫びが、喉の奥で詰まる。しかし、恐怖で声が出ない。
その時、怪物の動きがふっと止まった。そして、その複数の複眼が、一斉に陽菜の方を向いた。
見つかった。
全身の血が、一瞬で凍り付いた。怪物が、響子から陽菜へとターゲットを変えたのだ。にたり、と。その化け物の口が、三日月のように歪んだように見えた。
「しまっ…!逃げなさい、白虎さんッ!」
響子の悲痛な叫びが響く。だが、遅かった。
怪物は地を蹴り、陽菜に向かって一直線に跳躍した。迫り来る巨大な影。振り上げられた、死を告げる鎌。
ああ、死ぬ。
陽菜の脳裏に、その一言だけが浮かんだ。走馬灯のように、両親の顔が、友人の笑顔が、そして、いつも無愛想だけど、一度だけ「君のデザイン、悪くない」と呟いてくれた響子の横顔が過った。
(嫌だ…!)
死にたくない。
まだ、やりたいことがたくさんある。デザイナーとして、もっと成長したい。いつか、氷月さんみたいに、人の心を動かすものを作りたい。
なによりも。
(―――あの人を、死なせたくない!)
憧れの先輩が、自分のせいで隙を見せ、そして今、自分も死のうとしている。そんな結末は、絶対に嫌だ。
その強い、純粋な「願い」が引き金だった。
陽菜の体の奥深く、魂のさらに奥底で、何かがカチリと音を立てて繋がった。
忘れていた、古い記憶。幼い頃、祖母から聞かされたお伽話。
『―――白虎の血を引く者はね、古の約束に守られているのさ』
「守りたい」
その想いが、意志が、陽菜の全身を駆け巡った。
次の瞬間、陽菜の体が、内側から発光した。
「なっ…!?」
怪物が、そのまばゆい光に怯んで、一瞬動きを止める。
陽菜の脳裏に、直接声が響いた。それは暖かく、力強い、鐘の音のような響き。
(…目覚めよ、我が主…)
(その手に、力を…)
導かれるように、陽菜は無意識に手を伸ばしていた。何もない空間に。しかし、彼女には見えていた。そこに「在る」べきものが。
(…我が名は、天照。汝と共に、闇を祓わん…)
陽菜の手の中に、確かな重みが生まれた。
それは、一本の刀だった。
黄金色の光を放つ、透き通るような刀身。まるで、太陽の光そのものを鍛え上げて創られたかのような、神々しいまでの霊刀。
陽菜は、自分が何をしているのか分からないまま、ただ本能に従って、その刀を握りしめた。不思議と、恐怖は消えていた。体中に、経験したことのないほどの力が満ち溢れてくる。天照と名乗った刀が、陽だまりのような温かさを彼女に与えてくれていた。
「…そこを、どきなさい」
陽菜の口から、自分のものではないような、凛とした声が漏れた。
彼女は天照を構え、怪物と響子の間に割って入る。その姿は、ついさっきまで恐怖に震えていた新社会人のそれではない。神気を纏い、闇を断つために現れた、光の戦士の姿だった。
「あなた…まさか…」
響子が、信じられないものを見る目で陽菜を見つめている。
陽菜は、ただ真っ直ぐに怪物を見据えた。
怪物は、陽菜が放つ尋常ならざる霊気に警戒し、威嚇の鳴き声を上げる。
「あなたの相手は、私よ」
雨が、いつの間にか小降りになっていた。厚い雲の切れ間から、月光が差し込む。
それは、東京の空に、新しい太陽が昇る前触れのような、静かな夜明けだった。
陽菜の、そして響子の、長く、そして過酷な戦いが、今、幕を開けた。