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プロローグ:凍てついた夜

雪だった。

音もなく降り積もる純白が、世界の輪郭を曖昧にしていく。東京の奥座敷と呼ばれるその屋敷町は、しんしんと更ける夜の静寂の中にあった。古い武家屋敷の門構え、手入れの行き届いた松の枝葉、その全てが綿帽子をかぶり、まるで一枚の水墨画のように静謐な空気を漂わせている。


その絵画を引き裂くように、一つの影が走った。

少女だった。年の頃は、十代の半ばほど。夜よりも深い黒髪を振り乱し、満足に息もできないまま、雪に足を取られながら必死に駆けていた。華やかな振袖は、泥と、そしておびただしい量の血で汚れ、見るも無惨に引き裂かれている。

彼女の頬を伝うのは、涙か、溶けた雪か。あるいは、その両方か。


少女――氷月響子の手には、不釣り合いなほど物々しい、白鞘の刀が握られていた。

それは、彼女の背丈ほどもある長大なものだった。本来、非力な彼女が扱えるような代物ではない。だが、今はそれが唯一の希望であり、そして、絶望の象徴でもあった。


「はっ…はぁっ…お父様…お母様…!」


途切れ途切れに発せられた声は、悲鳴に近い。

つい先程まで、この屋敷は祝福の光に満ちていた。氷月家次期当主である響子の、元服を祝う儀式の最中だったのだ。一族郎党が集い、厳かに、そして華やかに執り行われるはずだった、未来への門出。


そこへ、"それ"は現れた。

なんの前触れもなく。まるで、悪夢そのものが形を持って現れたかのように。

屋敷を囲む神聖な結界は紙のように破られ、祝いの席は瞬く間に阿鼻叫喚の地獄へと変わった。


「鬼だ!隻腕の鬼が出たぞ!」


誰かの絶叫が、惨劇の始まりを告げた。

響子の父であり、氷月家当主であった男は、誰よりも先に立ち向かい、そして、誰よりも先に斬り伏せられた。自慢の霊刀「凍月」の一撃は、鬼の硬い皮膚に傷一つ付けることすらできなかった。

母も、兄も、一族の者たちも、次々と鬼の振るう剛腕の前に、まるで子供のように屠られていった。彼らは皆、当代屈指の退魔師であったはずなのに。


「響子!行けッ!それを持って、生き延びろ!」


父が、虫の息で叫んだ。彼が指し示したのは、床の間に飾られていた、一族最強の霊刀。しかし、それはあまりに強大すぎるがゆえに、誰にも扱いきれず、ただの飾りとなっていた呪われた刀だった。

響子は、父の最後の命令に従った。ただ、無我夢中で。

背後で、最愛の父が鬼に踏み潰される、嫌な音を聞きながら。


そして今、響子は逃げていた。

鬼は、まるで遊ぶかのように、ゆっくりと彼女の後を追ってくる。

ドシン、ドシン、と。雪を踏みしめる重い足音が、すぐ背後から聞こえる。それは、死の足音だった。


「…見つけたぞ、小娘」


地獄の底から響くような、低い声。

響子は、恐怖に凍りつき、ついにその場にへたり込んだ。ゆっくりと振り返る。

そこに、鬼は立っていた。

燃えるような赤い髪、鋼のような筋肉を持つ、三メートルはあろうかという巨躯。その名の通り、左腕は肘から先がなく、しかし、その傷口からは不気味な鬼火が陽炎のように揺らめいている。

その右手には、血に濡れた巨大な金棒。そして、その顔に浮かぶのは、絶対的な強者の、残酷なまでの愉悦の笑み。


「ほう…氷月の秘蔵刀か。そんなものを、お前のような雛鳥が持って、何とする」

鬼は、響子が抱える刀を一瞥し、嘲笑った。

「よこせ。それは、貴様らのような弱者が持つべきものではない」

「いや…!」

響子は、恐怖に震えながらも、刀を強く抱きしめた。これは、父が、一族が、命を賭して自分に託したものだ。

「これは…氷月家の…魂だ…!」


「魂、だと?」

鬼は、心底おかしそうに喉を鳴らした。

「ならば、その魂ごと、砕いてくれるわ!」

鬼が、金棒を振り上げる。死が、すぐそこまで迫っていた。

もう、駄目だ。

響子の心が、絶望に塗りつぶされようとした、その時。


(…力が、欲しいか…?)


脳裏に、声が響いた。

冷たく、深く、そして甘美な声。

(…復讐の力を、望むか…?)

声の主は、腕の中の刀だった。呪われた霊刀が、響子の絶望を糧として、その意志を語りかけてきたのだ。


響子は、迷わなかった。

(…欲しい…!)

心の中で、絶叫する。

(この鬼を殺せるなら、私の魂ごと、くれてやる…!)


その瞬間、刀が脈打った。

ゴウ、と音を立てて、刀身から青白い冷気が溢れ出す。それは、響子の体を、心を、瞬く間に凍てつかせていく。

髪の一房が、その冷気に触れて白く染まった。瞳の色が、漆黒から、氷のように冷たい、底なしの紺碧へと変わっていく。

感情が死んでいく。悲しみも、恐怖も、喜びも、全てが凍りついていく。

ただ一つ、燃えるような「憎悪」だけを残して。


「…なんだと?」

鬼が、初めて驚きの声を上げた。

響子は、ゆっくりと立ち上がった。その体から放たれる霊気は、先程までの少女のそれではない。全てを凍てつかせる、冬の女神のごとき、絶対零度の殺意。

彼女は、長大な刀を、まるで自分の手足のように軽々と構えた。

刀身が、月の光を反射して、青白く輝く。


「…お前の名は?」

響子は、自分でも驚くほど、静かな声で問うた。

鬼は、その変化に一瞬怯み、しかしすぐに不遜な笑みを浮かべた。

「…フン。死にゆく者に名乗る名などない。だが、面白い。良い余興だ。覚えておけ、小娘。我は、不知火しらぬい。貴様ら一族を、歴史から消し去った鬼の名だ」


「しらぬい…」

響子は、その名を、心に、魂に、深く刻み込んだ。

「…覚えた。必ず、殺す」


雪が、一層強く降り始めた。

後に「氷月家滅門事件」として、退魔の歴史に血塗られた一頁を刻むことになる夜。

一人の少女は、全てを失い、そして、復讐という名の呪いを手に入れた。


これは、凍てついた心を抱えた少女が、やがて一筋の太陽と出会い、長い冬の終わりを告げるまでの、始まりの物語である。

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