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第三十六話

 災厄は突如として現れた。その日、エステルは侍女を伴って宮廷の庭園を散歩していた。エステルは少し疲労を覚え、天蓋の下にある椅子に座った。


「水をお持ちいたしましょうか?」


 侍女が気遣うと、エステルは「ええ、頂くわ」と答えた。が、侍女の目の前にザカリー・グラッドストンが瞬間移動で出現し、その首を掴んで持ち上げた。


 エステルと他の侍女たちは言葉を失い、それをただ見ることしか出来なかった。やがて、グラッドストンは闇のパワーを侍女に流し込み、怪物へと変貌させると、「行け」と侍女だった怪物に命じた。怪物となった侍女は四つん這いになって、駆け出した。エステルに襲い掛かろうとしたところを、グラッドストンは「その女はいかん」と怪物に命じて方向転換させた。怪物は侍女に襲い掛かり、その喉を食い破った。鮮血が吹き出し、侍女は痙攣して倒れた。エステルの悲鳴が上がる。


「誰か! 誰か助けて!」


 エステル様! すぐに近くに待機していた近衛が駆け込んでくる。グラッドストンは手をかざすと、黒い波動を放って近衛を吹き飛ばした。


 ザカリーは悠然と歩き出し、エステルに向かっていった。


 怪物を近衛に差し向けると、グラッドストンはエステルの前に立った。


「エステル・ウィリアムズ様ですな」


「何者!」


「私はザカリー・グラッドストン。あなたをお迎えに上がった次第」


「ふざけないで!」


 エステルは気丈に振る舞ったが、どうあがいたところでグラッドストンに勝てるはずがない。恐ろしい。


 そこへエヴァンが駆け付ける。


「エステル!」


「エヴァン!」


 エヴァンは剣を抜くとグラッドストンに向かって突進した。剣を叩き込む。しかし、グラッドストンは素手でその剣を掴んで止めた。エヴァンが万力を込めてもびくともしない。グラッドストンはそのまま剣を持ち上げると、エヴァンを投げ捨てた。そしてエステルの動きを思念で封じ込めると、その体を抱き上げた。


「エステル! 貴様! 止めろ! エステルを放せ!」


「エヴァン・ウィリアムズ、私がザカリー・グラッドストンだ。よく覚えておきたまえ。また会うこともあるやも知れん。フフ……」


 エヴァンは見た、黒衣の魔導士の深紅の双眸を。エヴァンはプレッシャーで動けなくなった。


「それでは諸君、さらばだ。エステル・ウィリアムズは貰い受けていく」


「エステル!」


「エヴァン! いや! 放して! エヴァン!」


 そして、グラッドストンは瞬間移動で消えた。


 エヴァンは跳ね起きて、天蓋の下に駆け込んだ。侍女の死体が転がっている。グラッドストンがゾンビ化させた怪異は近衛に始末されていた。


「エヴァン様!」


 近衛が集まってくる。


「畜生……畜生……エステル!」


 エヴァンは地面を殴った。拳から血が滲んだ。


 ほどなくして、エイブラハムが急ぎ足でやって来た。


「エヴァン!」


「父上! エステルが……エステルが……グラッドストンの手に落ちた。どうすることも出来なかった……。こんな……こんなことが……」


「落ち着けエヴァン。エステルは誘拐されたのだな」


「父上……」


「エヴァン、奴は人質を取ったのだ。エステルを簡単には殺しはすまい。落ち着くんだ」


「父上……ですが……俺はどうしたら」


「とにかく、心を落ち着けろ。さあ顔を洗ってこい。ひどい有様だ」


 エイブラハムはエヴァンを懸命になだめた。しかしエイブラハムは内心では思っていた。エステルは恐らく助かるまいと。そして、そのお腹に宿った命も。



 エステルがザカリー・グラッドストンに攫われたという話はすぐに伝播した。


 エイブラハムは、それぞれの家の当主たちに文を送った。またエヴァンは、自身と同じ公子公女たちに手紙を充てた。グラッドストンが動き始めたことを知らせた。


 その文を受け取ったフリートウッド家の長男クリストファーは、険しい顔でいた。その傍らには妻のブリジットに息子と娘のアルフレッドとアレクシアがいる。そしてブリジットのお腹には赤子が宿っている。


「クリストファー、あなた、エヴァン・ウィリアムズは何て?」


「最悪だ」


 クリストファーは手紙をブリジットに手渡した。ブリジットはそれを読んで不安を覚えた。


「ねえあなた、こんな怪物、もしここへやってきたら、どうしたらいいの?」


「分からない。俺も、君も、狙われているかも知れない。とにかく、要人の誰かを狙っているかも知れない。くそっ。エステル一人が誘拐されたことで、各家ともに戴冠式どころではなくなるぞ」


 クリストファーは苛立たし気に室内を歩き回った。


 その時だった。


「その通りだクリストファー・フリートウッド」


 部屋の隅から声がした。


 クリストファーとブリジットは、声の主を見て戦慄した。そこにいたのは黒衣の魔導士だ。深紅の双眸が二人を捕らえる。クリストファーにはそれに見覚えがあった。


「貴様……グラッドストン……!」


 そして室内の全員が動けなくなった。


「さて、ここで幾つかの選択肢がある」グラッドストンはざらついた声で言った。「一つ、クリストファー・フリートウッドを殺すか、二つ、ブリジットを殺すか、三つ、あるいは子供たちを殺すか」


「やめろ、グラッドストン……! 殺すなら俺を殺せ!」


 クリストファーの言葉に、グラッドストンは興ざめしたようであった。


「つまらん、実につまらん。感動的なシーンだな? ああ? 命乞いをしろ。本気で死にたいのか? んん? そんなはずはあるまい」


 グラッドストンは言って、床に這いつくばっている四人の周りを歩き出した。そ


して、クリストファーの顔を引っ張り上げた。


「どうだ? 死にたいか? 本気で言ってるのか? 言ってみろ」


 クリストファーは懸命に声を出した。


「この化け物野郎、くたばれ」


「ふん」


 グラッドストンはクリストファーの顔から手を放すと、アルフレッドとアレクシアの方へ歩き出した。


 ブリジットがかすかに悲鳴を上げる。


「アルフレッド! アレクシア! やめて! 子供たちに手を出さないで!」


「そんなに大事か? 所詮人間も生き物だ。死ぬときは死ぬ。幼子であれ大人であれ」


 そう言うと、ザカリーは、アルフレッドとアレクシアを手刀で貫いた。いや、その寸前で止めた。


「やめて!」


 その叫びもかすかな声だった。外の衛兵には届かない。


「グラッドストン! やめろ!」


 クリストファーは万力を込めて起き上がろうとした。


「フフ……その絶望こそ歓喜だ」


 グラッドストンは笑声を上げると、ブリジットを持ち上げ、「女は貰っていく。さらばだクリストファー・フリートウッド」そう言って瞬間移動で消えた。


 クリストファーは妻の名を呼んで叫んだ。衛兵が駆け込んでくる。


「公子様! いかがなさいました!」


 クリストファーが子供を抱いて叫んでいるのを見て、近衛兵はただごとならぬとベネディクトに使いを出した。


「公子様! どうなさいました! これは一体」


「ザカリー・グラッドストンだ……グラッドストンが室内に現れて、ブリジットを攫って行った……」


「何と……」


 そこへベネディクトが慌ただしく入室してきた。


「クリストファー!」ベネディクトは息子に駆け寄る。「何があった」


「ザカリー・グラッドストンです。突然室内に現れて、ブリジットを攫って行った……。父上……俺は……何もしてやれなかった……俺は……」


 クリストファーは泣いた。


 ベネディクトは厳しい表情で息子を抱き寄せると、「ザカリー・グラッドストン……」その名前しか出てこなかった。



 ソーンヒル公爵領、アラソネア。間もなくここは王都と呼ばれるはずである。ここにもザカリー・グラッドストンの凶行が及ばんとしていた。


 ヴァイオレット公爵夫人は、庭園に設けられた天蓋付きの休憩所で、子供たち、いやいまや大人となった息子たちを見ていた。ブライアンとコーディは木刀を手に、久方ぶりに剣の腕を競っていた。


「デジャヴね」


 ヴァイオレット夫人は呟いた。


 長女のクリスティーナは息子のフランシスをあやしながら母の声を聞いた。


「何ですって母上?」


「デジャヴと言ったのよ。私も年かしら。ああやって剣を打ち合っている子供たちを見ていると、数年前の日を思い出すわ」


「ああ……そう言えば確かに」


 クリスティーナは言った。


「何の話だクリスティーナ」


 夫のオーガストが言うと、クリスティーナは昔話をした。


 アンジェリアは、夫のブライアンが木刀を振るうところなど見たことがなかった。娘のクレアは叫んだ。


「パパ頑張って!」


 クリスタルも同様であった。その息子パトリックもまた、「パパ頑張れ!」と声援を送る。


 ブライアンとコーディは子供たちの声援を受けて意気も盛ん。


「コーディ! 負けるわけにはいかないぞ! 子供に無様なところは見せられないからな!」


「何の兄上! 私だって!」


 ブライアンとコーディは激しく打ち合い押し合った。両者の実力は拮抗していた。


 その時だった。休憩所の前に突如としてザカリー・グラッドストンが瞬間移動してきた。


「ヴァイオレット公爵夫人、お初にお目にかかる」


「何者?」


 夫人はグラッドストンの深紅の双眸を見て動けなくなった。


 オーガストが剣を抜いてグラッドストンに切りかかる。ザカリーは素手で剣を掴んで受け止めた。


「馬鹿はやめておけオーガスト」


 グラッドストンは回廊の柱にオーガストを投げつけた。


「曲者だ! 衛兵を呼べ!」近衛兵が叫ぶ。


 ザカリーは波動を撃ち込んで近衛を吹き飛ばした。


 ブライアンとコーディは異変に気付いた。


「ザカリー・グラッドストンだ! コーディ!」


「はい!」


 ブライアンとコーディはグラッドストンに切りかかった。黒衣の魔導士は舞い上がってそれをかわすと、着地と同時にブライアンとコーディを波動で吹き飛ばした。


 ザカリーはずかずかと休憩所に入ってくると、全員を束縛の術で動きを封じた。子供たちに手をかけるそぶりを見せる。男たちは絶望的な眼差しでそれを目撃する。だが、グラッドストンは念力でクリスティーナとアンジェリア、クリスタルを引き寄せると、そのまま上空に舞い上がった。


「公爵夫人、せいぜい束の間の平和を謳歌しておくことだ。娘たちは貰っていくぞ。さらばだ」


「待ちなさいグラッドストン!」


「ハハハハハハ……」


 そうして、ザカリーは瞬間移動で娘たちとともに消えた。


 ブライアンとコーディ、オーガストは子供のもとへ駆け込んだ。


「フランシス!」


「クレア!」


「パトリック!」


 幼子たちは意識を失っていた。


 ヴァイオレット公爵夫人は震えていたが、ようやく立ち上がった。


「ザカリー・グラッドストン……見ていらっしゃい。お前の首を必ず私の前に引きずり出してやるわ……。ブライアン! コーディ! オーガスト!」


「母上……」


 三人とも少し我に返る。


「いいこと? この報いは受けさせる。グラッドストンを殺すのよ。あの怪物を殺さない限り、平穏な世界などあり得ない。それがよく分かったわ。……絶対に許さない! いいこと!」


「はい母上……俺も……そう思います。グラッドストンを……この手で殺してみせる」


 ブライアンが言った。


「私も」


 コーディとオーガストも頷いた。


 ヴァイオレット夫人はグラッドストンへの復讐を誓ったのだ。



 東部を治めるグリフィス家では、着々と戴冠式の準備が進んでいた。しかし、グラッドストンの件が伝わると、穏やかならぬ空気が立ち込め始める。


 ヴィクターは妻のシャーロットの前を行ったり来たりしながら、エヴァン・ウィリアムズからの文を手にしていた。


「あなた……」


「シャーロット、言うな。これは君が一番危ないんだ」


 ヴィクターの言うとおりであり、部屋の外には何人もの近衛が守り、室内にも近衛が駐屯していた。


 そこへセオドリックが姿を見せる。


「父上」


 ヴィクターが言うのを、セオドリックが制した。


「ソーンヒル家でもグラッドストンが現れたそうだ。ヴァイオレット家の公女たちが誘拐されたそうだ」


「何ですと?」


 ヴィクターは頭が爆発しそうだった。


「どうにか、どうにかしてやつを止めないと! 奴がここへ来ることは目に見えてる!」


「だから守りを固めている」


「兵士たちをもっと増やせないのですか。近衛連隊に守らせるべきです」


「すぐに手配しよう」


 セオドリックがそう言った時だった。


 室内の片隅に黒衣の魔導士が姿を見せた。


「ザカリー・グラッドストン!」


 ヴィクターは剣を抜いて襲い掛かった。ザカリーはそれを素手掴んで受け止めると、ヴィクターを壁に投げつけた。


「がっ……畜生!」


「随分手荒な歓迎だな。まあ仕方あるまい。招かれざる客人かな」


 セオドリックも剣を抜いた。


「近衛隊! シャーロットを部屋の外へ!」


「はっ! シャーロット様! こちらへ!」


「そうはいかん」


 グラッドストンは手を持ち上げたが、波動を討つ前にセオドリックがその腕を切り落とした。


「ほう……セオドリック・グリフィス、勇敢だな」


 グラッドストンは笑うと、腕を再生した。


 と、その背後からヴィクターがザカリーを一突きにした。剣はザカリーの肉体を貫通している。


 グラッドストンはいったん霞に姿を変えると、再び実体化した。ヴィクターがつけた傷は消えていた。


「お遊びはこれまでだ」


 グラッドストンは手をかざし、黒い波動でヴィクターとセオドリックを吹き飛ばした。グラッドストンはずかずかと歩いて出ていくと、シャーロットを追った。


「貴様!」


 ザカリーは襲い来る近衛を手からビーム光線を放って瞬く間に一掃した。


 そして、ザカリーは瞬間移動でシャーロットの前に現れた。


「シャーロット様! お逃げ下さい!」


「シャーロット!」


 ヴィクターが駆けてくる。


 ザカリーは近衛の一撃をよけるまでもなく前進し、手刀でその胸を貫いた。


「ヴィクター!」


 グラッドストンは動けないシャーロットを手に入れた。


「ヴィクター・グリフィス、止まれ。今ここで女を殺されたいか」


「シャーロット!」


「ヴィクター!」


 そうして、ザカリー・グラッドストンは笑った。


「残念だが、最後に勝つのは私だプリンス殿。ではさらばだ」


 黒衣の魔導士は笑声を残して、瞬間移動で消えた。


「シャーローット!」


 ヴィクターは叫んだ。セオドリックがよろめきながらやってくる。


「父上! シャーロットが! シャーロットが! 畜生……畜生……」


「手を考えようヴィクター。助ける方法は、あるはずだ」


 セオドリックは息子を抱きしめた。セオドリックは呟いた。


「何か……手があるはずだ……だがどうすれば……」


 こうして、シャーロットもまたグラッドストンの手に落ちた。

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