泣くのなら 一人で泣こう ほととぎす
泣くのなら 一人で泣こう ほととぎす
あるレストランにて。
「爪楊枝と鏡を用意してもらえないかね?」
「は?」
「鏡がないと歯の手入れができないだろう?」
「鏡ならお手洗いにございますが、よろしければそちらを・・」
チッと舌打ちをして、その無礼な男は洗面所に入った。
鏡を覗いて、歯を見るために少し上を向いて口を開けた。
後ろに男が映っていた。
男は口を開けたまま、「あ?」と言った。
「お住まいはどちらで?」
男は爪楊枝を構えたままだったので、それを唇に刺さないよう、怪訝な顔をして首を傾けてみせた。
「予約ですね。こちらからできます」後ろの男はニコやかに礼儀正しく・・。
「温泉はかけ流し。勿論、貸し切りもございます」
爪楊枝を口から離した男は、やっと口を閉じて、洗面台の前から後ろを振り向いた。
男は改めて、という風に頭を軽く傾けた。
「ご予約ですね。お住まいはどちらで? 215号なんておすすめでございますが・・」
「な・・何の話だったかね?」
「勿論、当旅館の予約のシステムでございますが、何か不審な点でも?」
「旅館? ここはレストランのはずだが・・」爪楊枝を洗面台の縁に置いて、男はトイレのドアを軽く開けて、外の様子を覗いた。
喧騒が戻ってくる。ウェイター、ウェイトレスが忙しく立ち働き、次々と注文が運ばれてくる。
男はまた怪訝な顔をして、ドアを閉めた。
男はまだいた。
「当旅館のご予約はここだけの話、ここだけでしか行っておりません。お住まいはどちらで? お迎えに向かいます。215号なんておすすめでございますが・・」
「い、いや・・、私は歯の掃除をしに来ただけで、その、・・オムライスの鶏肉がね・・」
「キャンセルされるおつもりですか?」
「キャ、キャンセル? うーん、ちょっと待ってくれ、ワイフにも・・」
「私、一度しかあなたにお目にかかれないのですが・・」
「うーん、ちょっと待った。電話も置いて来たしな・・。ここは男子トイレだし・・」
「どうなされますか? 215号なんて・・」
「う、うん。それは分かった。しかし、その旅館はどこにあるのかね? 何て名の温泉旅館かな?」
「それにお答えするのは性急かと」
「そうかね? うーん、215号ね、うーん、いくらだ?」
「月々・・」
「待ってくれ。一泊いくらだ? それに、いつ行くんだ?」
「それはお客様でないとお答えできかねます。どうなされます? 予約されますか?」
男は七面鳥のように首を長くしてしばらく息を止めた。
「215号、予約する」
「ありがとうございます」途端に、男は個室のドアを開けた。そこにはフロントがあった。
「お客様、こちらへどうぞ」
男は臭いを気にして、個室へおずおずと入った。紙がフロントに広げられている。
「サインを・・ここと、ここに」
男はためらいながらペンを運ばせた。
「オンありがとうございます、では荷物をポーターに運ばせますので、こちらへ」便器の横に体重計のような計りがあった。
「手荷物ということ? 私の今、持っている物はこれだけだが・・」と男はポケットからティッシュとハンカチ、それに懐中時計を取り出した。
フロントの男は無言で、目顔で肯くので、男はそれらを体重計の上に載せた。
「それにあれはよろしいのですか?」フロントの男が目で指したのは洗面台に置いた爪楊枝のことである。
男は目を丸くして、肯いて、洗面台に歩いていって、自分の顔を鏡で見もせずに、爪楊枝を取って、それも体重計に載せた。
「クレジットですか、それともキャッシュでしょうか」
「おいくらかね? それにいつから何泊するのかな」
「それはお客様、ご自身にお聞きください」
男はキツネにつままれたように目をアタフタさせた。
「とりあえず、一週間ぐらい・・」
「215号でございますね」
「ああ」
「では、少々お待ちください。今、予約をお取りしますので」
「ちょっと待ってくれ。ワイフは・・?」
フロントの男は少し目を大きく開き、首を傾げるように、男の目を凝視した。
「・・それも私自身の・・」グッと男の喉が鳴るような音がした。
「ワ、ワイフはいい。たまには一人旅もいい」
「おひとりさまで」
「ああ」
「では、・・しめて――ドルでございます」
「クレジットで」
「かしこまりました」フロントの男は怪しげな台を手前に置いた。男はそれにクレジットを通した。
出てきた伝票には、オムライスの値段と、宿の値段。名もTELも住所も書かれていなかった。
「では、指定の日時にお迎えに上がります。ごゆっくり」
「あ・・、ああ」男はクルリと回れ右をして、トイレのドアを開けようとした。
「お客様」
「な、何だね」
「お忘れ物でございます」フロントの男はそっと爪楊枝を渡した。
「あ、ああ、忘れてた」男はそれを手にし、また取って返して、洗面台で自分の顔を鏡で映しながら歯の手入れを始めた。
フロントの男は個室のドアを音もなく閉め、今度はその男がトイレから出ていった。
「いつもの」どうやら、行きつけのレストランであるらしい。