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藤堂詩織の名前を聞いたことがある人間はこの高校の教室の中では誰もいないだろう。それもそのはず、それは僕が考えた小説のヒロインの名前だからだ。だから僕は何でも藤堂のことについては知っているし、他の連中は何も知らないどころか関心さえ持たない。そんな特別な存在であったはずなのだ。きっと僕が藤堂のことについて書いたノートを失くしてしまうまでは。
「あのさ、なんでいつもそんな眠そうな顔してるの」
前の席に座ってる東野さんはたまに話しかけてくる。本当に暇で暇で仕方ないんだろうって時だけ。
「クマ、すごいよ。夜遅くまで勉強してるとか?」
こういうやりとりはちょっとだけ面倒臭いって思う。ちょっとだけ。仲良いわけでもないから何を返してもいいって訳じゃないからって理由で。
「いや、別に。なんかぼーっとしてるだけ」
寝てるよ、と言って、そこで数学の教師が来た。寝るかも。
実際問題、僕は夜中過ぎまでスマホの画面で藤堂詩織を探していた。いつの間にか僕だけの彼女はネットの投稿サイトのありとあらゆるところで見かけるようになっていた。そこでは僕の知らない人間が僕の知らない藤堂詩織についてさも詳しそうに書いていて、それを読むたびに僕はひどく胸が締め付けられるようになってでも読むのを一向に止められないのだった。
普通に考えれば、ここで書かれている藤堂詩織は僕の抱えていた藤堂詩織とは全く別の人物というか概念というか、たまたま名前が一緒だっただけの偶然の一致とでも思うべきなのだが、というか普通そうとしかありえないのだが。なぜか僕には分かっていて、しかも他の書き手、藤堂詩織を知り彼女について書いている僕以外の人間も、そのことが分かっているようなのだった。つまり僕、たちというのは嫌だ。僕と僕以外の藤堂詩織を知る人間が書いている藤堂詩織はみな同一人物で、全く認識を共有するべき存在であるはずだということに。
そして不思議なことに、というか不思議な感覚を与えることに。藤堂詩織は僕のことなんか知らない。他の書き手のことも知らないはず。彼女が知っているのは、僕、や他の書き手たちの小説の中の世界だけであり、そこに登場する人物たちのことだけであるのだ。僕の小説の中で藤堂詩織はちょっとおとなしめで目立たないというわけでもないけど話しかければちゃんと返してくれて、それでたまたま主人公の隣の席に座っていて、駅が近くて、同じ部活に入っていて、それで、まあいいや。あんまり話しすぎると辛くなるようなことも出てくるかもしれない。何というか普通の女の子で、普通の女の子だと思っていたんだけど。他の書き手の一人によると彼女は母親に対してかなり反抗的らしい。男子もあまり好きではないとか。まあそれはいいのだけど。めちゃくちゃモテるタイプって訳じゃないし、積極的に恋愛したいタイプじゃなさそうっていうのは知ってたし。それでも気になるのが
「おい。お前ちゃんと話聞いてたか?」
いつの間にか黒板は未知の数式で埋め尽くされており、そばには目の据わった男性教師がこちらを見ていた。これは別に誰も知りたがらない情報だとは思うけど、僕は数学の授業全般が嫌いである。