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たいくつなまいにち

 学校生活は退屈だ。


 いつも通りに終われば、いつも通りの放課後、ひとりの帰り道。毎日毎日、暗くなる時間が早まることだけが、唯一の変化だ。街灯に切り取られた通学路に、ふわりとため息が白く浮かぶ。


 冬は嫌いじゃない、むしろ好きだ。冬になると生き物が姿を消す。わずらわしい虫も、むせ返るように茂る草木も。どうせだったら、人間だっていなくなってしまえばいい。ひとりでいることがどうしようもなく気楽だからだ。


 寂しいなんて気持ちはとっくに品切れてしまった。売れちゃったんじゃない。賞味期限切れだ。教室の隅っこでぽつんと陳列されている「わたし」の「寂しさ風味」はいくら値引きシールを貼っても、誰かが手をのばすことがなかった。売れないなら、仕入れる必要もないでしょう?ただ、無味無臭の「わたし」はいる。何十人もいる教室という賞品棚にひっそりと並んでいて、みんなが通り過ぎる。それでいいんだ。「寂しさ風味」のあとに「絶望風味」が入荷したけれど、「わたし」が消えても、陳列棚にぽっかりとあいた隙間に覚える違和感ぐらいしか、みんなは思わないだろう。


 そんなの、いやだ。


 だからわたしは学校の教室で、退屈な日常を過ごしていた。家から学校、学校から家。体を運ぶだけの往復運動。赤血球が体を駆け巡るのに似ている。体の細胞が粛々と体を巡るのに似ている。だけど、体だって時々エラーを起こす。それがときに重大な疾患を起こすことだってある。わたしの場合は、本屋だった。


 通学路の途中にある個人経営の本屋は、低い天井から薄ぼんやりとした蛍光灯のひかりに照らされた狭い店内は、二世代前の時代の雰囲気を醸し出していている。ビルの1階にあるけれど、奥まった入り口のせいで本屋があるなんて最初は気づかなかった。


 店先にある日貼られた古い映画のポスターが目についた。白いシャツを来た青年がベルベットカラーのシルクの上で、カメラよりももっと遠く、空をにらみつけている。


 最初、わたしを引き止めたのは彼の視線だった。こころを奪われた、というのとは違う。感傷的でロマンチックな映画との出会いじゃない。自由を奪われる感覚、日々のルーティンに棹さされた異物の混入。一瞬、わたしは夢のなかにひきこまれそうになった。一瞬だけ。すぐに理性と言う名の免疫細胞が異物を排除した。そういえば、そのときも、こんな寒い日だった。正気を取り戻して、ひとつ、身震いした。さっさと退散すればいいのに、だけど、寂しさから絶望へのシフトチェンジをしつつあった当時、退屈と腕組みをした好奇心が薄暗い店内に足を運ばせた。以来、2年も使っているのは、店主の本を選ぶセンスに惹かれているからだった。


 まるで習慣のように入ろうとすると、スマートフォンを掲げた少年がカメラを店のほうに向けていた。わたしの姿を見ると、にやりと笑った。何かを期待するような、押し付けるような笑いで、思わず視線を逸らした。そらして、何だか落ち着かなかったけれど、自動ドアの先の本独特の匂いが、いつもの変わらずにそこにあった。


 本は好きだなんて陳腐な言い回しだ。だけど、本当だから仕方ない。悲しさも寂しさも、薄汚れた欲望も、悪意に満ちた嘘も、始まりから終わりまで連れて行ってくれる。ここから、ここではないどこかへ。赤血球だって、夢ぐらいはみるんじゃない? アンドロイドだって夢を見る可能性を否定できないんだから。


 まばらな店内は入口付近の新刊と雑誌、そしてお金儲けのハウツー本のあたりにひとがいる。わたしの好きな店主自薦のコーナーは店の奥のコーナーにひっそりと置かれ、手書きのポップが所在なさげに隔月に更新されるばかりだった。ちょうど、今日がその更新日だった。


 わたしが少し高めの本棚の角を折れると、黒い制服姿の男の子たちが舌を鳴らして、体を捻った。カラフルな大判の本がいくつか。そして、華奢な体躯にあわない大きなカバンの口はぱっくりとひらいている。万引きだとはすぐにわかった。本屋がその被害にあっていることもしってる。だけど、それを目の当たりにするのは初めてだった。わたしはあまり、感情が顔に出ない。視線を自然にそらし、変わらない足取りで少年の後ろを通り過ぎて、すぐの角を曲がった。その間、私の全身を男の子たちの視線がべったりと張り付いていた。


 やり過ごしてしまおうか。実際、そうすべきなんだろう。男の子たちの持っていた本は、美術書や写真集のたぐいだ。高価な本。あれ、いくらで売れるんだろう。需要があるのかな。盗品を知らずに買ってしまった人も罪に問われるんだっけ。そんな考えが天井からの温風のように体をすり抜けた後に、体の奥が熱くなった。きっと、この店のひとは困る。とっても困る。


 普段のわたしなら、やらないことをした。かかとを鳴らす。最初の音はとても小さかった。もう一度鳴らす。今度は少し、大きい。だけど、何かに変化はなかった。


(もういいじゃない。わたしはできることをやった)


 でも、私はもう一度かかとを鳴らしていた。カツン。今度はもっと大きい。


(なんで? あんたがやることないじゃない。本屋での万引きなんてよく聞く話じゃん。あんたが見逃した1冊や2冊で潰れるわけじゃないじゃん)


 カツン。


 カツン。


 すると、不意に、背後に気配を感じた。


(ほうら、言ったじゃん。止せばいいのに。でも、あんたが望んでいたことでしょう?)


 振り返らないでわたしは歩いた。なるべく2人から離れた道で、はやく店の外にでなくちゃいけない。ぐっと制服のボタンを握りしめる。


 視界が火にあぶられた感熱紙のように黒く薄ぼやける。早く、早く、早く! 左から腕が伸び、肩に衝撃があった。足がもつれ、わたしは平積みになっていた本に崩れた。


「なんか見たか?」


「な、なにも……」


 顔なんか見られない。わたしは男の子の靴の先を見て、首を振る。男の子は舌打ちをした。「そうだよな、お前はなんにも見てねえ。そうだよな?」


 うなずく。何度もうなずく。じぶんでも滑稽なくらいにうなずく。すると、嘲るような笑いを含んだ声が「キモいんだよ、お前」といって、電子音が響いた。カメラが起動した音だ。撮影されている、こんな姿を。なんでこんなことになったんだろう。ごめんなさい。赤血球が白血球のマネなんてしちゃだめなんだ。わたしはわたしを日々日々家から学校までを往復するだけの役割だけしていればよかったんだ。役割以外のことなんか、しなくちゃいけないんだ。


 男の子の手が伸びて、わたしの髪を掴んだ。頭皮が引っ張られる。激痛に、恐怖に顔が歪む。スマートフォンのライトが無遠慮に目を刺す。


「きめえな、おい、そのきめえ顔、こっちに見せろよ」


 ことばの切れ間に髪を引っ張る。思わず声が漏れる。いやだ、いやだ、撮らないでよ。すこしでもカメラから逃れようとして手が宙を切ると、わたしの手が男の子の手を払った。硬質な衝撃音が響き、電子端末が滑る。男の子が怒声をあげようとしたそのとき、彼の行動が止まった。


 ハンガーのフックのように細長く、背中を丸めた男性店員さんがボサボサの髪の毛の隙間からまっすぐにこちらを見ていた。困ったように、手のひらで頬をなでている。


「困るんですよね、その、トラブルとか」


 ふたりの男の子は唸った。


 髪を掴んでいた男の子が乱暴に手を離し、店員さんの足元に転がったスマートフォンを拾うとその脇をすり抜けようとした。だけど、ビクリと体を震わせて、体が硬直する。細い店員さんの左右にある空間に、壁が現れたように阻まれたというのが近い表現だった。


 もういちど、ふたりは唸った。子犬が威嚇するような声だった。


「万引きは困るんだよね。けっこう馬鹿にならないんだよね。それに被害届けしなくちゃいけない。時間が取られるなんてまっぴらだしさ。かばんに入った本、戻しといてくれるかい」


 男の子たちは途端、引きつった口角を見せた。かばんを放りなげる。軽い音を上げて、店員さんの足元に落ちる。店員さんはしゃがみもせずに長い腕でかばんを拾い上げると、中を見て、怪訝そうに首をかしげた。


「あったかよ、本は?」


 視線を本棚に向けた。さっきまで男の子たちがいたコーナーの床に、2冊の本が落ちていた。とっさに捨てたんだ。そのうちの一冊は衝撃でページが折れ曲がっている。男の子たちは優位に立ったと思ったように、急に声を張り上げた。


「冤罪じゃねえか。録画しておけよ。冤罪だ、冤罪だ!」


 もうひとりの男の子がスマートフォンのレンズを店員さんに向ける。


 その時、店員さんの目の奥に暗い揺らめきがあった。まるで瞳の奥に何か別の生き物がいて、それが鼓動しているようだった。だけどそれを男の子たちは気づいていない。わたしの心臓が跳ね上がる。やめて、やめて! 冤罪だ、冤罪だと叫ぶ男の子が訴えるや、動画をSNSに流してやるやらをまくし立て、お店のなかにいた人たちの視線があつまると、ますます大きくなる。


「謝れよ! 謝り方ぐらいわかんだろ?」


 店員さんの表情はぴくりとも動かない。


 だけど、目。目の奥だけは違う。


 鼓動が早鐘のように鳴り響く。やめて、やめて……(違うよ)、そのひとを怒らせちゃだめだ……(あんたも逃げるんだよ、今すぐに!)。心と体が目の前の店員さんの存在にまっぷたつに引き裂かれる。人間の心というものは縛られ、動物的直感は恐怖から逃れたがっている。何かしゃべろうとしても、溢れそうなのは言葉ではなくて悲鳴だ。絶対に駄目だ。悲鳴に釣られてあの目がこっちを向いたら、わたしはきっと……


 きっと?


 息が荒くなる。ヒートアップする光景に、店の中のざわつきも増す。呼吸が苦しい。鼻からの空気だけじゃ足りない。でも、口を開けば、叫びが溢れ出す。生温かい筋が口元を流れた。無意識に拭うと、それは血だった。下唇を噛みしめて、深く切ったんだ。血の筋に視線を奪われていた視線を上げると、店員さんの目がこっちを向いていた。だけど、それはさっきのものとはまったく違っていた。波打つような鼓動のある視線じゃない。戸惑いと、まるで深い穴に吸い込むような渇望の感情が、その視線を通してわたしに流れ込んでくる。彼の視線は、わたしではなく、わたしの手と口元の血に向けられていた。


 男の子たちも血に視線を向け、あからさまに動揺をしたようだった。緊張をはらんだ空気が霧散する。そのタイミングで、おばあさんがわたしに向かってハンカチを差し出した。


「あなた、血が出ているじゃない! 怪我しているわ。ひどい!」


 そのひと言で状況は一転した。


 男の子たちは気まずそうに舌打ちをすると、無言で店を飛び出していった。外にいたカメラを持った男の子も仲間だったようだ。ワンテンポ遅れて、その子も逃げていったふたりを追っていった。万引きというささやかな悪事の勲章を撮影しておこうと思っていたんだろう。


 その騒動に巻き込まれたわたしは、動けなかった。持ち合わせてもいない義侠心のせいだろうか。それとも男の子たちの暴力のせい? 違う。男の子たちが逃げ去ったことを見てとったわたしが視線を戻すと、店員さんは身動ぎもせずに、わたしを見ていた。


 あの、渇望の目で、このわたしを。

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