初夏のともしび
緑の山間を、歩いていた。葉の隙間から落ちるきらきらとした光のなか、鞄背負って息を切らせながら。汗をぬぐった指を地図に這わせた。バスを降りてどれだけ歩いただろう。そろそろ目的地のはずである。
先月、祖父が死んだ。
二年ほど前から入院し、会うたび痩せていく祖父の最期に、俺は立ち会うことを許されなかった。じゃあまたくるから。そう言って病室を出たときには元気そうだったが……その日の夜中、祖父は息を引き取った。両親の慌ただしさから異常を察したが、家にいるよう厳命されたのだ。
入院中の祖父にだれよりも会いに行ったのは、きっと俺。祖母はとっくに他界していたし、親は仕事があったからだ。顔をみせるたび喜んだ祖父がする話を、なんとなく聞いていた。
(じいちゃんがいなくなって、ひと月)
だが、俺の生活はなにも変わらなかった。寂しさや悲しさで胸が潰れるのだと身構えたが、心はちっとも動かなかった。祖父の冷たい身体をみたときでさえ、だ。現実と夢の狭間にいるような浮遊感に支配され、涙を流すことなく淡々と葬式は終わった。自分でも薄情だと思った。……五年近くを共に暮らした人が、消えたのに。
(人が死ぬってこんなものなのか)
俺も、両親も忙しそうだがいつもと変わらない。俺が知らないだけで死を悼んでいるのかもしれないが、表面上に取り乱したところはない。普通に、時間に追われる日々を送っている。
祖父が生きていたことは、やがて記憶の片隅に追いやられ、風化し、忘れさられるのだろうか。
空を仰ぐと、天井のように枝がいっぱいに広がっていた。煩いぐらいの虫の音や鳥の声が耳朶に触れるのも、新鮮でうざったい。目に鮮やかな空の青と深い緑が、感傷に浸る俺には煩わしかった。
祖父の記憶の場所へ、やっと足を踏み入れたのだ。
通り過ぎる道の些細なことが、想像したとおりだった。時おり走りさる汚れた軽トラや、青々とした棚田、畑で働くまばらな人の姿。道端にはびこる雑草と、さびたガードレール。ぽつぽつとあった家屋に、道の途中でみえた古色蒼然とした社……。ざあ、と風が吹いて生い茂る木々を揺らした。
『……とな、よう遊んだんや。元気でなぁ、こっちの話聞かん奴で、よう手ぇ引っ張られてな。……みにいったんや。夏には少し早い……をなぁ』
懐かしげに、だが棘が刺さったように目を伏せた祖父を思い出す。古びた写真を眺めては何度も話してくれたその顔は、不鮮明なものだった。すでに俺の中から祖父があやふやになりつつあるのだ。重くなった足を、無心になって動かす。あの写真には、二人の少年が写っていたと、思う。
(そういえばあれ、どこへやったんだったか)
ここを訪れるに当たって探したが、みつからなかった。祖父がいつまであの写真を手にしていたのか。思い出せずにいる。
つうっと汗が目の近くを伝った。休み休みに歩いたせいか、目的地へ着いたころには昼をずいぶん過ぎていた。
(この古い家が、じいちゃんの家)
急な坂になっているガタのきた石畳が、小さいけれど立派な門へ続いていた。その奥に、木々に囲まれた家屋がみえる。ぽかんと呆けて俺はその家をみつめていた。既視感があったのだ。
『……ちゃうかったから、……住んどった時期があってなぁ。そこで良うしてもろたから、じいちゃん……になったんや。ええとこやで、行ってみぃひんか、真一』
祖父の声が、時間を越えて耳朶をかすめていく。
「おおい、坂山さんとこの子ぉか」
唐突に声をかけられた。振り返ると、隣家から初老の男が出てきていた。
男は寺橋ですと名乗り、こちらが名乗る前に名前を言い当てた。連絡をくれたろう、と笑いかけられる。あ、と得心がいって頭を下げた。この家の管理を任せている人である。代わりにうちの田畑を貸していた。共働きの両親にとって、この遠く離れた土地は手に余るのだ。
「少しの間、お世話になります」
寺橋さんは目を細くしてうなずいた。
「ようきたなぁ。迷子にならんかったか」
まるで遠く離れた身内が訪ねてきたような、あたたかな対応だった。
案内されるまま戸口の開け放たれた家へ入ると、ひんやりした風が頬をなでた。雨戸はすべて開けてあったので、風が通るのだ。気を利かせた寺橋さんが掃除してくれたらしい。ちりんちりん、と風鈴の音が聞こえてくる。
「おおきぃなったなぁ。もう中学生か。はは、覚えとらんかもしれんけど、こぉんなちぃちゃいころ真一くんきたことあったやろ。よう覚えとんで。修三郎さんが手ぇつないで歩いとったんや」
寺橋さんは、ごもごもと口を動かしてしきりに話しかけてくれた。祖父のこと、この辺りのこと、注意すべきこと、昔のこと、明日は祭りがあること。特に祖父の思い出は多く話してくれた。物静かだった祖父は、引っ越してきたばかりなのと口下手な寺橋さんに野菜の世話を教えたらしい。新たな隣人を喜んで、飲み交わしたこともあると。
「……そうか、もうあの人は逝ってもうたんやなぁ」
俺は曖昧に微笑むことしかできなかった。
なぜ、この人のほうが祖父の死を悼んでいるのか。身内の俺は、なぜ他人事のようにしていられるのか。郷愁を覚えたのは、ここを訪れたことがあったためか。祖父の昔話は関係なかったのか。
寺橋さんご夫婦のところで夕食と風呂を済ませ、引きとめる彼らに礼を言って祖父の家に戻ったのは、七時を大幅に過ぎたころだった。がらんとした部屋にあがると、すぐさま横になる。歩きづめだったため、身体が重かったのだ。特に足が怠くて仕方がない。
畳の匂いがした。虫の音やこずえの音、近くを流れる小川のせせらぎが聞こえてくる。ぶらん、ぶらん、と風に揺れるちゃちな電球は古色を帯びた梁にかかっていた。天井が高く、組みこまれた梁が太く立派だった。元々の家屋を増築・修繕しているせいで、古い梁や柱はあちこちにあるのだ。
なにもすることがなかった。電気こそ届いているがテレビはないし、電波が届かないため携帯も使えない。当然、パソコンもない。文明の利器がなければ暇もつぶせないのか。俺が生まれる前は、この状況が普通だったらしいのに。
(信じらんねぇ。ネットもできないなんて)
未練がましく触っていた携帯をしまって縁側まで転がると、夜空いっぱいに星が輝いていた。夜はこれほど明るいものだったか。ここは時間がやけにゆっくり流れている。ちりんちりん、と聞こえてくる風鈴の音が心地いい。
(こうやって星を眺めたんだ? じいちゃん)
祖父は五年前までここに住んでいた。祖母が亡くなってから街へ……俺の家へ移ったのだ。入院するまでまめに戻って、掃除や畑の手入れをしていた。俺は、それを知っていて手伝おうとしなかったし、田舎を疎んじてきた。
今さら訪れたのには理由があった。この家を両親が手放そうとしているのだ。祖父の大切な場所がだれかの手に渡る。そう考えたらいてもたってもいられず、飛び出していた。
(今日は金曜で、明日は祭り。日曜に母さんが迎えにくる……。祭りが始まるまで、なにをしていよう)
行かなきゃいけない。そんな焦燥に駆られても、中学生なんかにできることはない。
ちりんちりん、と遠くで風鈴が鳴っている。ああ、そういえば風鈴は魔除けになるのだと、だれかに教えて貰ったのだった。この家は守られているのだろうか。
思いをめぐらせるうちになにかが顔に触れて、眠りは妨げられた。いつの間にか眠っていたらしい。起きあがると身体がだるく、節々に痛みが走った。敷いた布団ではなく畳に転がっていたのだから、当然である。
そこで俺は息を詰まらせた。視界の端、縁側に祖父が腰を下ろしている――
「じいちゃ……」
身を乗り出すと、それはなにかの見間違いだったようだ。瞬きの間に消えてしまった幻へ、空虚な笑みが落ちる。祖父はひと月も前にこの世をさったのだ。だれもいないに決まっている。
ちりんちりん、と音がする。自嘲してうつむいた俺は、背後の気配に全然気づかなかった。突然目隠しされて「だーれだ」と問われ、みっともなく悲鳴をあげた。
「うわああっ!」
ひやりとした手がゆるんだ隙に逃げ出し、犯人を振り返った。
「そんなビックリせんでもええのに。久しぶりやなぁ、修」
笑いかけてきたのは少年だった。歳は俺と同じぐらいで、今どき見慣れない坊主頭である。汚れたシャツと膝下までの綿パン姿で、太めの眉が田舎くさい。
馴れ馴れしく伸びてきた手を弾き、俺は後ずさった。
「ど、どっから出てきた! お前だれだ。ドロボウ? 強盗か?」
そいつは口をぱくぱく開け、驚きに目を丸くし、徐々に冷たい顔つきになった。
「なんや? お前こそだれやねん。修ん家やぞここ。そっちこそドロボウちゃうんか。こんなとこでなにしとんねん。くそ、間違ぉたやろが」
ドロボウだって?
予期しなかった切り返しに、頭が真っ白になる。ここは祖父の家で、こちらは身内だ。ドロボウ呼ばわりされる理由がない。こいつはだれだ。寺橋さんの身内か――と言いかけ口を噤む。寺橋さんご夫婦は二人暮らしだと、聞いたばかりである。近場にもう二、三件家は建っていたが……田舎では遅い時間でも気軽に人が訪れるものなのか。
(っていうか、修ってだれ)
まさか、ここにだれかが住み着いているとか――
ありえない。もしそうなら寺橋さんが追い払う。
みたところ、武器のようなものは持っていないが……
「ここは祖父の家だ。俺は孫の坂山真一。ドロボウなわけないだろ!」
俺は手近にあった座布団を投げつけた。
「孫お? お前が? そんな話聞いたことあらへん」
侵入者は素っ頓狂な声をあげ、座布団越しにまじまじみつめてくる。
「そっちこそ修ってだれだよ、侵入者。強盗じゃないならなにしにきた!」
「ご、強盗ちゃうわ! なんでそんなことせなあかんねん! 俺は、修が帰ってきたんや思て慌てて……だあぁ、もう! 俺は新崎滋、修は修三郎! こう言うたらわかるんか!」
俺はまごついた。修三郎、とは祖父の名前だ。新崎という名前も覚えがあった。
その瞬間、丸めた座布団が飛んできて、かろうじて受けとめる。
「じゃあここおるんは……えーっと真一? お前一人しかおらんの?」
「他にだれかいるようにみえるか」
滋がなにか言いたそうに口を開く。
そのとき、ドン! という音が響いた。心持ち身体が揺れる。驚いて目を周りに向ければ、さらにドン、と音が続いた。狼狽する俺とは裏腹に「始まりよった」、と滋が縁側を降りていく。そこから侵入したらしい。確かにどこからでも入りこめるが、雨戸を閉め忘れたことに舌打ちする。
なんの音か尋ねると、「花火! 祭りが始まったんや」という返答があった。
は、と当惑する俺の手を、半分座敷にあがった滋が引っ張る。
「こっちきてみ。ほら、あっこんとこ!」
先ほどいがみ合ったのを忘れたような、こだわりのなさに呆れる。だが、指された方角から暗闇を切り裂く光と音はのぼった。ドン、という音は一拍遅れて聞こえてくる。パチパチパチ、という火花の散る音。視線が釘付けになった少しの間に、次の花火が空を駆けのぼる。気がつくと、祭りは明日じゃ……と口走っていた。すると、滋が「はぁ?」と怪訝そうにする。
「今日が祭りやん。なに言うてるん」
ひょっとして、金曜の夜から土曜の夜まで爆睡状態だったのか? 歩きすぎてそこまでくたびれていたのか?
可能性を否定しきれず黙ると、滋が不審もあらわにこっちをみていた。
「なぁ。お前……修んトコの親戚やねんな?」
「孫だって言っただろ。そっちこそなんで……じいちゃんを知ってるんだよ」
「そりゃあ、うっとこはずっとここ住んどるし、坂山のご隠居の話かて聞いたことぐらいあんで。おとんもおかんも、世話なっとったし」
ご隠居? 修三郎というのが祖父のことなら、祖父は田舎でご隠居と呼ばれていたのだろうか。その祖父が遊んでやったのが、この滋なのか。
(なんか、会話がつながってないような)
いっぽうで庭に降りた滋も「そうか、親戚やったら似ているわけやな」と呟いている。そろりと部屋へあがった俺の背中が引っ張られた。まだ用があるのか。身を捻ると、滋はにぃっと歯をみせた。
「どうせやし、一緒に祭り行かへん?」
はよう、と引っ張られるまま出たことを後悔したのは、走り出してすぐだった。
「お前なんで道を走らないんだよ」
滋が先導する近道は、明かりもろくにない暗所である。真っ暗な細い山道や田んぼのあぜを突っ切る背中が、信じられなかった。
ガサガサと茂みが揺れるたびなにかが飛び出さないか、ビクつく暇もない。置いていかれて堪るか、と追いすがるので精一杯だ。
(くっそ、どこまで走るんだあいつ)
祭りの場所さえ知らずに飛び出したのだった。今さら帰れと言われても無理な話である。
「だぁってはよ行かな祭り終わるやん。ほら、あっこの明かり」
茂みの先に赤い明かりがちらついた。夜の闇に不思議なほどに明るくみえた。呼吸も乱さない滋が指した場所は、急な角度の石段である。大きな赤い鳥居がその天辺に陣取っていた。
「あ、あそこまで、走るのか」
息を切らせて問いかけると、滋はにっと笑みを作った。俺たちは山一つ越えていたのだ。
石段には花火見物で座る人たちがちらほらといた。仰ぎみた鳥居の向こう側から赤々した提灯の明かりがあふれ、祭り拍子や笑い声が聞こえる。辿ってきた道が暗かったせいか余計に目映い。
「結構人多いんだな。そんな大きい祭だったんだ?」
「そうやで、ここらでいっちゃんでっかいやっちゃ。知らん人もぎょうさんくるしな。って、お前もそうやん。観にきたんやろぉ、花火」
なぜか、あの朱の鳥居が異界への門のように思えた。玉垣がぐるりと囲った赤い光の照らす場所へ、別種の世界へ、橋をかける門だと。こちら側はこんなにも暗く、静かで不気味なのに。
――気ぃつけて歩きや。すごい人やからなぁ。
そんな言葉を聞いた気がして、思わず振り返った。神社へといたる真っ暗な夜道を、ぽつぽつと明かりが照らしている。そこをすり抜けて門へ吸いこまれていく、人、人、人。見知った顔などいやしない。その間にも空には色とりどりの光が舞っている。こんな田舎に、と驚くほどの人出である。
(気のせい……? なんだ、この違和感)
くしゃりと俺は前髪をつかんだ。祭りの熱気に早くも当てられたのか、地に足が着かないような浮遊感があった。頭の芯がぼやけているような、じんとした不明瞭さだ。その背にバンと衝撃が走り、覚醒はうながされた。
「ほらほら、ぼうっとしとらんと行くで。まずはラムネやんなぁ」
釈然としないながらもジーンズをまさぐって、俺は固まった。あるはずの財布がなかった。どこかに落としたのか。そもそも忘れてきたのか。ヤバい、と顔に出たらしい。「もしかして金ないん」とあっさり見抜かれた。取りに戻る、と踵を返すと、
「おごったるって!」
驚いて向き直った瞬間、背後の夜空で花火がはじけた。影が足下で大きく伸びた。パチパチパチ……と火花を散らして落ちる花を、滋はみつめて笑う。
「別にええやん。今日は祭りやで。それにお前足遅いねんもん、帰っとったら終わってまうわ」
てってって、と降りてきた滋に光のなかへ「はよう」と誘われる。暗がりから赤い光と祭り拍子のあふれる鳥居の奥へ。そこにあったのは石畳に沿って並んだ露店と、田舎では信じられないほどの賑わいだ。提灯の明かりに導かれる人の流れの先に、古びた社がみえた。人波はざわざわとさざめいている。
――迷子にならんよう、手ぇつなごか。
まただ。
雑多な音に混ざって耳朶に触れる、姿なき声のあるじを探した。人影のなかに、それらしい人物は見当たらない。先ほどから違和感がぬぐえなかった。この声はだれなのか。知っている気がするのに。
「おーい、さっきからなにしてるん。知り合いでもおったん?」
言葉を濁した俺へ渡されたラムネはキンキンに冷たかった。
射的に輪投げ、綿飴に焼きそば、金魚すくい、ピンス焼、リンゴ飴……全部滋のおごりだった。ほとんど一人分や一回分を二人で分けた。オマケしてくれる人もいた。「悪い。帰ったら返すから」と宣言すると「律儀やなぁ」と滋が苦笑する。
「こんなん一緒に楽しいなぁて思うたら十分やのに。って、あ! ほらあっこ、ヨーヨーあんで。あっちは綿飴作らせてくれるんやて!」
えええ、と面倒がった俺の腕を滋が引っ張った。最初から話をまったく聞かない滋のペースだが、一緒にいて不快ではないのが不思議だ。滋の開けっぴろげな態度のせいだろう。巻きこまれるのが嫌じゃない。
屋台が切れた社の前では、休憩中の人がたむろしていた。座れる場所はすべて埋まっている。そこでターンして、俺たちはまたあの光のなかへもぐった。
ちょうど、浴衣を着こんだ子どもたちが入れ違いに駆けてくる。古びた狐の面をそれぞれつけて、風車や飴を手にけらけらと笑いながら。それを見送って、あ、となにかを思い出しかけた。振り返ると、転びかけた子どもが追ってきた親に抱えられていた。何気ない光景に目が釘付けになる。
「な、時々ぼうっとしとるけど、なぁんか懐かしいもんでもあったん?」
「いや……なんか、見覚えあるような気がしたんだ。きたことないはずなのに」
滋は「ふうん?」と興味深げに笑っていた。
一通り露店を回り、最初の石段へ自然と戻ってくる。そこも大勢の人で埋まっていた。けたたましい音と共にあがる花火を眺めるには、絶好のポイントなのだ。
「なぁ、修元気しとるん?」
鳥居にもたれかかってラムネをあおる滋が、静かに口を開いた。
心臓がはねる。祖父は死んだ。そう伝えれば良いのに躊躇ってしまう。
「俺なぁ、修に会いたかってん。身体弱かったやろ。……あいつ向こうで元気なん? 身体壊しとらん? 遊びにくる言うとったのに全然こぉへんねんもん。もう三年経つんやで」
ほんま薄情やんなぁ、と滋が小さく笑うのを横目でみながら、絡まった謎がほどけるのを感じていた。いや、この可能性に気づきながら俺は逃げていたのだ。その蓋が開けられていく――
聞いたことがあった。
祖父は、子どものころ一時期だけ田舎に住んでいた。身体が弱かったため療養する目的で静かなこの山に。家族と離れて暮らす彼の世話を頼まれたのは、縁のあった新崎家だった。今でこそ寺橋さんの暮らす隣家は、新崎の人が昔住んでいた……
たまに家族がやってくるだけの生活でも、祖父は寂しくなかったと話していた。それは友だちがいつも遊びにきてくれたからだ。そのかいあって祖父は十二の歳にはすっかり元気になった。身体も街の生活が可能なほど、丈夫に。
その後はずっと街で暮らし、結婚して、仕事を退職し、再びここへ戻ったのだ。祖母が亡くなるまでの数年間を、あの家で。
どうして戻ったの、と祖父にいつか訊ねたことがあった。不便な田舎にどうして戻ったの、と。こんななにもない場所に。そのとき、祖父はどんな顔をしていただろう。
「元気、だよ」
声が、震えた。
そうだ、新崎という名前に覚えがあった。祖父の昔話に散々出ていたのだ。お隣に住んでいた少年。そのあたたかい家族。祖父を受け入れてくれた人たち。今、隣にいるこいつは――
『友だちとよう遊んだんや。話聞かん奴でなぁ』
そう懐かしげにしゃべった祖父の横顔と、色あせた写真が不意によぎる。
「……元気でやっているよ。いつもここを思い出してるって、言ってた」
言っていた。だから戻ったのだ、と。
街へ帰っても忘れられない場所だったのだ、ここは。祖父が子どものころに過ごしたのは、たったの三年だ。そんな短い期間を、宝物のようにずっと祖父は胸にしまっていた。それは亡くなるまで変わらなかった。入院中だって会いに行くたび昔話を祖父は繰り返し語り、当時を懐かしんだのだから。
「一緒に行かないかって誘ってくれてたんだ。祭りの花火がきれいだからってずっと言ってて……。それで俺、ここへきたんだ」
何度水を向けられても俺は行かなかった。学校や塾、部活を優先し、遊びに没頭していた。祖父の誘いなどいつでも行けると軽くみていたから。
なぜそんな風に思っていたのだろう。次があると、当たり前のように。
ぱんぱんと花火が打ちあがる。終わりが近いのか、先ほどから打ちあがる間がどんどん短くなっていた。
傍らで、そうなんや、と滋は大きくうなずいている。満面の笑みが胸に刺さった。
「修が元気ならええねん。ありがとな真一。花火きれいやろ? 修もなぁ、花火きれいやなぁて言うててんで。この祭り、あいつ好きやってん」
ひときわ大きな花火が空を彩った。反射的に見上げた俺を、滋が突き飛ばす。
その瞬間、鳥居から真っ黒な影が押し寄せた。え、と思ったときには遅かった。血の気が引いた。滋がその波に呑まれる。手を伸ばしたが届かない。
滋、と叫んだ。滋、と声の限りに。しかしそんな声は、響いた花火と歓声にかき消された。大きな大きな花火が目いっぱいに映って……やがて視界は真っ暗になった。
真っ暗に。
ちりん、ちりん、と風鈴の音がする。
うっすらと瞼をあげると古びた天井がみえた。がばり、と身を起こして四方を確認し、ここが祖父の家だと思い出す。水の音と蛙の鳴き声が聞こえてきた。辺りがまだ暗い。夜だとわかった。
……今のは、夢?
風が吹きこみ、寒さに肌が粟立った。雨戸は開け放したままだ。ぶるりと身体が震える。ぐっしょりと冷たい汗をかいて、息があがっていた。ぽた、と手になにかが落ちて、自分が泣いていたことを知る。
(手が、届かなかった)
子どもだった祖父がここを離れた三年後、あの祭りの日に滋は消えた。石段から足を滑らせて落ちたのだ。かなりの落差がある石段だ。その年の夏休み、遊びにきた祖父は一足早い夏の祭りに間に合わなかった――
(すぐ隣に俺、いたのに)
大切な場所にもかかわらず祖父が長い間戻れなかったのは、このせいだ。戻ることができなかったのだ。子どもが独立し、祖母と二人きりになって、やっとこの家へ目を向けられたのか。五十年以上の時間を要しても癒えない棘は、祖母が他界し街中へ越してからも、ずっと祖父を苛んでいた。
知っていた、はずだった。
小さなころに手を引かれたあの祭りで、祖父は言っていたのだ。ここで大切な人を失くしたと。会えなかったことを後悔していると。言っていた。あの石段で転がりかけた俺を、必死に抱きかかえてくれた祖父が。人が多いから手をつなごうか、と微笑んだ祖父が。ラムネを買ってくれて、滋と同じように二人で回った露店の合間に。楽しいと笑った俺へ向けられた、どこか痛みを伴う微笑も。
滋の満面の笑みが、瞼の裏に焼きついて重なる。
あの、ひときわ大きな花火と、押し寄せてきた人影も。
どうして忘れていたのだろう。
こんな大事なことを、どうして。
俺が滋を助けられたら、祖父は後悔せずに済んだのに。
(なにも、変えられなかった)
変えることなど、できないのかもしれなかった。
あれが過去なら、変えようがなかったのかもしれなかった。
(どうして俺だったんだよ。どうして、滋に会うのがじいさんじゃないんだ)
涙が止まらなかった。仰向けに倒れこんで、腕で顔を覆う。
祖父に今こそ会いたかった。しかし、もういない。こうだったんだよ、と伝えられたらいいのに、祖父はひと月も前にいなくなってしまった。その喪失感に打ちのめされた。
悲しかったんだ……
ちりんちりん、と風鈴は風と遊んでいた。
夜が、明けようとしていた。
翌日、俺は縁側で古びた帳面をめくっていた。黄ばんだ紙面に綴られた文字を追うたび、重苦しいなにかが胸を塞ぐ。
達筆で読み解くことは難しかったが、それに指を這わせる祖父の姿が脳裏にこびりついていた。長閑な昼下がりに合わない心中が恨めしくなる。
「なぁに熱心に読んでるの、真一。呼び鈴押したのに無視してくれちゃってさ。連絡のひとつも寄越さないで」
不意に人影が手元を遮った。ぎょっとなって後ずさる。覗きこんできたのは母だった。庭を回ってきたようだが、まったく気づかなかったのだ。
「え? 母さん? え? くるの明日の予定じゃ……あ! 俺、まだ帰るつもりないんだけど! それに連絡は寺橋さんがしてくれたし、携帯は圏外で――」
言いながら手にしたものを隠したが、遅かった。にこーっと母は笑ったと思うと、ひょいと俺からそれを奪う。あ、と声をあげたが、連絡をしなかった負い目から強気に出られない。
「すぐは帰らないわよぅ。おじいさんの家に行きたいだなんて駄々こねた息子が心配で、ちょっと早めにね。ゆっくりきたことなかったし……。で、これは?」
別にいいだろ、返せよ、と手を伸ばしても母は聞きやしない。パラパラと勝手に帳面をめくっている。その表情がふっと変化した。
「これ、おじいさんがよく見てらしたノートね。小さなころの日記だったんだ」
母の声色に懐かしさが滲んでいた。同意をこめた沈黙に気づいたのだろう、小さく苦笑している。
それは、今朝方空っぽの箪笥や鏡台、棚などを確認してやっと手に入れた祖父の手記だった。当時の記憶の断片がしまわれてあるのだ。
そこからするりと一枚写真が落ちた。二人の少年が写ったものだ。年ごろは今の俺より少し下だろうか。坊主頭の片割れが昨晩夢にみた少年と似ていた。――やはりここにあった。
ちりんちりんと風鈴が鳴る。入ってきた風に母が髪を押さえた。
「わ、いい風。涼しいわねぇ、クーラーいらないのかしら、ここ」
手記を置いて縁側から母は家へあがりこんだ。土間や梁に感嘆している。どうやらちゃんと家を覗いたのは初めてだったらしい。裏にポンプもあったと言うと、「うそ、どこ?」と母が目を輝かせた。その隙に写真を手記に挟み直し、ふと俺は風鈴をみつめた。
風鈴は、守るものでありながら、『呼ぶ』ものでもある。不意にそれを思い出したのだ。
「じいちゃんは待っていたのか……?」
それとも、待っていたのは滋のほうなのか。
(そんな、まさかな)
向こうから「真一ー」と呼ぶ声がする。
「いいところね、ここ。遠慮なんてせず、もっとお邪魔しておけば良かったな。仕事しごとで、あんた送るぐらいしかしてなかったから。お父さんもまったく寄りつこうとしなかったし」
それにお母さん、畑仕事なんてまったくわかんないからさあ、と母が苦笑する。
両親の結婚後、田舎へ引っ越した父方の家へ、母も気軽には訪れなかったようだ。父も無関心だった。田舎に思い入れがまったくないのだから、仕方ないのかもしれない。祖父の道楽だとこぼしていたのを知っている。
「母さん、俺、三つか四つのころきたことあるよな」
「やだ、覚えてるの?」
「昨日、寺橋さんに聞いて少しだけ。――うろ覚えに近いけど」
そう、と母は笑みを深くし、大きくうなずく。
「あ、そうだ、寺橋さんに挨拶してこなくちゃ」
あんた、ちゃんとお世話になりますって言ったでしょうね、と出ていく母を、引きとめた。
そうだよ。田畑はあるし、少し下ったところの小川はきれいだ。街中より涼しいし、景色も良いし、のどかで、なにもないけどゆっくり過ごすことができる。夜は、散らばったダイヤモンドみたいに星が輝くんだ。
しかし、頭のなかでいっせいに浮かんだそれらの言葉、すべて飲みこんで言ったのは。
「母さん、今夜、祭りがあるんだって。この辺りで一番大きな祭り」
あら、と母の顔が輝く。
俺は、昨日の不思議を思い返した。切ない気持ちが蘇る。それでも上手く笑えただろうか。
「一緒に行こう。花火がすごいから」
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
ご意見ご感想、お待ちしております。
橘高有紀