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シュウマツ

作者: 長谷川香林

頂いたお題「腕時計」から書いた短編です。

 「あの黒紳士、また来てるんだね」

 出勤したばかりの同僚から耳打ちされる。俺は手元は動かしたまま、目線だけを該当の男に向けた。

 一番奥にある小さなテーブル席。明るい陽射しが照らすテラスや大きな窓辺があるテーブル席は人気がある。男がいつも座るのは、影に隠れるように設置されたおまけのようなテーブル。たまに従業員がまかないを食べたりもする。そんな目立たない、端っこの席。男はいつもその席を好んだ。

 白い壁や青い屋根の明るい建物が多いこの地域には、観光客も多い。皆陽射しに映えるような明るい服を着ている。

 その中で、いつも黒い服を身にまとっている男は目立った。地元の人間も、観光客もだいたいがラフな格好をしている。男は黒いスーツを着こなし、帽子もかぶっていた。

 初めは葬式帰りなのかと思った。来店が2回目、3回目ともなると、これが彼の定番の服なのだと分かった。彼はこの一月ほど、よく店で見かけるようになった。

 従業員の間で、その珍しい服装の男は早々にあだ名をつけられていた。それが「黒紳士」だ。確かに紳士という言葉が似合う。背が高く、細面の少し顔色の悪い男。


 初めて注文を受けた時、おすすめを聞かれたのでシナモンティーを勧めた。紅茶に、シナモンとオレンジで香りづけしてある。この店の名物だ。男は勧められるまま、それを注文した。代金を受け取ろうとしたら、男は困った顔をした。

「よく分からないので、ここから選んでいただけますか」

 男は丁寧な口調で、懐から取り出した黒い革の袋から、札や硬貨をカウンターに広げた。それらは、見たことがない国のお札や硬貨ばかりだった。珍しい絵柄や紙の風合い、大きさや色の違うバラバラな硬貨。遠い異国の香りがする。俺は仕事を忘れてしばしそれらに目を奪われた。

「足りませんか」

 男が少し不安そうな顔をして尋ねた。ハッと仕事モードに切り替え、そこから使える硬貨を見つけて何枚か取り出した。

「これで大丈夫です」

 男に示すと、ほっとした顔をした。

「それで買えるんですね。覚えました」

 男は俺の手元の硬貨を確認して、頷いている。

 男が残りの札や硬貨を袋にしまう間、注文されたシナモンティーを用意する。先程、硬貨を拾う時に気になっていた彼の手首に、ひそかに視線を向けた。

「ご旅行ですか」

 男の黒い服装を見るに葬式なのかもしれない。そう思いつつ聞いてみた。

「似たようなものです」

 男は肩をすくめた。やはり葬式だとか、その類なのだろう。それならば、きっと一見客だろうな。

「お待たせ致しました」

 男にシナモンティーを手渡す。グラスに入ったイエローブラウンを眺めて男が言った。

「きれいな色ですね」

 紅茶はだいたいこんな色だと思うのだが。

「シナモンとオレンジは香りづけだけなので。シュガーは要りますか?」

「なるほど。いえ、シュガーは結構です。ありがとう」

「いえ、ありがとうございました。どうぞごゆっくり」

 男は帽子を少し上げると、それにありがとうと返事をしてテーブルについた。一番奥の小さなテーブル席。予想に反して、そこが彼の定番席になった。


 男に関して分かっている事は少なかった。来店する日時はとくに決まっていなかった。一週間姿を見ない時もあれば、立て続けに通う時もある。時間帯もバラバラだった。いつも黒い帽子を被り、黒いスーツを着ている。外国のお金をたくさん持っている。毎回シナモンティーを頼む。一番奥の小さなテーブル席に座る。従業員の間で共有されている情報はそのぐらいだ。

 ただ、俺だけが知っていることがもう一つある。彼の腕時計だ。

 左腕に巻かれている腕時計。黒い皮のバンド。文字盤はシンプルだった。気になったのは、その針だ。止まっている。初めて見た時、時計が狂っているのかと思った。その時間の針の位置ではなかったから。でもそれをわざわざ指摘するほど親しくはなかった。

 2回目に彼が来たとき、今度は自分できちんと使える硬貨を出した。あの時に言っていた通り覚えていたのだろう。

「ちょうどです」

 俺がそう言うと、嬉しそうに微笑んだ。男の為に、またシナモンティーを作る。

 店内を見渡す男の左腕をまた盗み見た。ちらりとしか見えなかったが、やはりそうだ。前に見た時と同じ針の位置だった。時計が狂っているのではなく、止まっているのだ。男は、なぜか止まったままの腕時計を巻いている。

 興味がわいた。どういう理由でそんな腕時計を身に着けているのか。本来時間を確認するための道具なのに、その機能が全く役に立っていない。

 男の恰好には一貫性があるのに、そこだけぽっかりと意味が抜けているようだった。あるいはその逆かもしれない。


 一月を過ぎる頃には、個人的に挨拶をするようになった。

「今日は少し暑いですね」

「昨日は南風が強かったですね」

「夜から雨が降るようですよ」

 当たり障りのない極簡単な会話だ。一方的に話しかけていたが、俺の言葉に男は律儀に返事をしてくれた。

 だが、従業員の中で、彼に話しかけようとする人は自分以外にいなかった。黒づくめの背の高い男の風貌はどこか陰気で影があった。

 会話の中で微笑んだりはする。だがそれを知っているのは恐らく自分だけだった。自分が応対していない時、男はただ機械的に注文をして飲み物を受け取っていく。表情を全く動かさないわけではない。ただ、その筋肉の動きは少ない。多分よく見ないと分からない。接客中に、いちいちじっと相手の顔は見ない。だから、誰もがその些細な表情の動きに気が付かない。結果、どこか陰気な黒紳士、という位置づけになっていた。

 あの腕時計がなければ、おそらく自分も彼にそれほど興味は示さなかっただろう。ただのよく来る、ちょっと変わった常連客。

 最初に、旅行かと聞いて、似たようなものだと答えた。仕事だったら、仕事だと答えるだろう。彼はこの一月ほどずっとこの町にいた。およそ旅行をしているような恰好でもなく、仕事でもない。そこにも興味をそそられた。

 これは単純に自分の性分なのだと思う。いつも何かのネタを探して観察をしてしまうのだ。一日のほとんどを、この店の従業員として過ごしていた自分には、もはや作家としての将来性は見えていないけれども。それでも探してしまうのは、やはりただの性分なのだ。


 珍しく雨が降った。昼ぐらいにパタパタと降り出した。次第に雨脚が強くなり、本降りになった。

 まだ午後の早い時間。テラス席の、雨に当たる席を片付ける。今日は少し肌寒い。この分では客足は伸びないだろう。まあいい。ちょうど仕事も終わりの時間だ。

 最後の一つの椅子を店内に入れる所だった。灰色の雨がけぶる雑踏の中から、あの男が現れた。ぼんやりと色のない灰色の世界。そこから男の黒い姿が、モノクロのコントラストを強めるように現れた。黒い蝙蝠傘をさしている。急にそこに現れたように見えた。もちろんそんなことはない。男はそのまま、まっすぐにこの店に向かってきた。

 俺の姿を店の前で見かけると「やあ」と声をかけた。男から声をかけられたのは初めてだった。俺は、ぺこりと頭を下げた。

 蝙蝠傘を畳むと、俺の隣に佇んだ。雨の降る鈍色の空を見上げている。

「すごい雨ですね」

 男の蝙蝠傘は濡れていて、そこからしとしとと雫を滴らせていた。小さな水たまりをいくつも作っている。しばらく歩いていたのだろうと分かる。突然現れたわけではない。それに少しほっとした。

「いらっしゃいませ」

 ようやく声を出す。男はそれに微笑んだ。

「中にどうぞ」

 扉を開けて男を促す。先程出したばかりの傘立てに、濡れそぼった傘が入れられた。

「ありがとう」

 男はそう言うと、また微笑んだ。

 いつも通りにシナモンティーを注文する。今日は肌寒い。ホットもありますよ、と声をかけると、ではそれを、と言われた。温かいシナモンティーを用意しているところで、男が言った。

「外の」

 男の指先を辿る。テラス席を指差していた。

「外の席で頂いても大丈夫ですか?」

 男は俺にそう尋ねた。テラス席には、長い軒と庇がある。雨が当たらない場所ならば、一応外でも問題ないように作られている。

「大丈夫ですが、今日は雨が強いですよ」

 だから、先程一番外側の椅子を片付けていたのだ。

「大丈夫です。雨が好きなので」

 男がいつにもまして嬉しそうに笑った。多分、それは自分しか分からない小さな変化だろうが。

「どうぞ。あまり寒いようでしたら中にお入りください」

 男に温かいシナモンティーを手渡す。受け取った男は、ありがとう、と言ってテラス席に出て行った。

「こんな日に外で飲みたいなんて、やっぱり変わってるね」

 聞こえないと思って、後ろにいた同僚は声を潜めずにしゃべっている。誰がどうしようが勝手だ。人と違う行動をとる事の何がダメなのか。俺はそれに返事をせずに、エプロンを外した。

「お先に失礼します」

「おつかれー」

 同僚の声を背中で受けた。

 私服に着替えている間、男の事を考えた。また一つ、男の情報が増えた。雨が好きらしい。灰色の世界から現れた、黒い姿を思い出す。蝙蝠傘の影になった男の顔は、陰影が濃くなり、一層陰気だった。今頃テラス席でシナモンティーを飲んでいるだろうか。灰色にけぶる雨を眺めながら。


 ふと思い立って、店内に戻った。テラス席に目をやり、男がいるのを確認する。戻ってきた俺を見た同僚が少し驚いた顔をしていた。

「あれ? 帰ったんじゃなかったの?」

「いや、ちょっと飲んでから帰ろうと思って」

「あ、そう。何にする?」

 人のいない店内で、気安いやり取りをする。俺は、温かいシナモンティーを頼んだ。それを持って、テラス席に向かう。

 古い木材を使った、板張りのテラスをギシギシと音を立てながら進む。音に気付いた男が、顔を上げた。俺の顔を見て、少し驚いた顔をしてた。いつもと違う制服ではない姿に気付いて、声をかけられた。

「今日はもうお仕事は終わりですか」

 今日は二度も男から声をかけられた。いつもと逆だ。

「はい。あの、御迷惑でなかったら、俺もテラスで飲んでもいいですか」

 別に男に確認をとる必要はなかった。そもそも、この店には自由に座れる席しかない。男にわざわざ確認をとったのは、近くの席で飲もうと思ったからだ。男と話がしたい。そう思った。

 男は少しだけ目を見開き、そして微笑んだ。

「あなたがご迷惑でなければ、どうぞ」

 そう言って、自分のテーブルの椅子を一つ引いた。まさか、同じ席とは思わなかった。でも話をするならば、同じテーブルの方がいいだろう。俺は彼が引いてくれた、左隣の椅子に座った。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

 紳士然として、男はカップに口をつけた。

 外から店内のカウンターを見ると、同僚が驚いた顔でこちらを見ていた。まあ、そうだろうな。目が合ったが、そのまま目をそらした。

 カップに目を戻す。横の男を見ると、雨を眺めていた。ひさしから落ちた雫が、パチンパチンと石畳で跳ねている。

 横から、男の姿を眺めるのは初めてだった。鼻が高く、少し頬がこけている。それが、顔の陰影をより濃くしているのだと分かった。

 手元のシナモンティーに口をつける。ふわりとしたオレンジの香りと独特のシナモンの風味が鼻を抜ける。やはり温かいもので良かったな。少し肌寒いこんな日には、体を温めてくれるものがいい。ほうと一息つく。

 男は何も話さなかった。さほど親しいわけではない。話の糸口など特に思いつかなかった。しばらく、ぼんやりと雨を眺めながら紅茶をすすった。

 ふと、男の左腕に目が留まった。そうだ。止まったままの腕時計。ずっと気になっていたもの。見ると、やはり今日もその針は止まったままだった。

 12時の少し前。そこで止まっていた。秒針も、動いていない。男が雨を眺めていたので、俺はそれにじっと見入ってしまった。

 すると、男が口を開いた。

「これが気になりますか」

 顔を上げると、男はじっと俺の顔を見ていた。不躾に見すぎていた。

「あ、いえ。すみません」

 俺は慌てて目をそらした。

「いえ、大丈夫ですよ。ただ、あまりこれを気にする人はいなかったので」

 男はこれ、とその文字盤のガラスを右の人差し指でスッと撫でた。

「珍しいな、と思っただけです」

 男はさして気になっていないような口ぶりで言った。

 聞いてみてもいいだろうか。せっかく、男からその腕時計の話を振られたのだ。タイミングは今しかないと思った。

「あの、どうして止まったままの時計をしているんですか」

 尋ねると、男は少し眉を寄せて困ったような顔をした。

「止まっているわけではないんですがね。まあ、私としては、止まったままの方がいいかとも思っています」

 男の言葉の意味が分からなかった。再び男の左腕に目を落とす。やはり、針は動いていない。秒針さえも。

「シュウマツになると動きます」

 男はそう言った。シュウマツ。週末? 24時間じゃなくて、週単位で動く時計だろうか。そんな時計は聞いたことがない。ごく普通の時計に見えた。だが、男はおそらく世界各国を回っているような人間だ。あの各地の見慣れないお金を持っていたのはそのせいだろう。もしかして、そう言ったものがどこかの国には存在するのかもしれない。そう思った。

「でも、よくお気づきになりましたね。初めにお会いした時からですよね」

 男の言葉に、一瞬ヒヤリとした。見ていた事が男にはバレていた。

「すみません」

 頭を下げて謝った。客に対して、不快な思いをさせてしまった。

「いえ、すごいなと思ったんです。よく観察されているなと」

 顔を上げてと言われたので、恐る恐る男を見た。いつもと変わらない顔だった。それにホッとした。

「すみません。何というか、職業柄、というか、性分なんです」

 理由を素直に口に出す。

「カフェの店員さんというのは、観察眼が必要なんですか?」

 男が少し驚いた顔をした。それが何となくおかしくて、つい笑ってしまった。

「いえ、俺本当は作家なんです。全然、芽が出ないんですが。仕事がなくて、今はここで働いてます」

「そうですか、作家さん」

 男は感心したように、ほうと頷いている。

「今はお書きになっていないんですか?」

「そうですね、今は生活の為に働いていて、そっちに時間をとられてしまって」

 言い訳がましい事を口に出している自覚はあった。

「それはもったいないですね」

 男は一口カップに口をつけてから言った。

「皆さん、自分の人生はずっと続くものだと思いがちですが、実は案外と短いものなのです。自分がいつ死ぬのか、それが前もって分かっていたならどうしますか? そう、例えば、あと3か月しか、人生の時間が残されていないとしたら」

 言われて、想像してみた。自分が死ぬ日が分かっている。あと3か月。人生があと3か月しかなかったとしたら、自分は何をするだろう。確実にここでは働いていない。

 小説を書きたい。一番に思いつくのはそれだった。それしか時間がないのだとしたら、自分の中に眠っている物語を出来る限り書き残したい。自分が生きていた証を残したい。誰が認めてくれなくてもいい。いつか誰かに届けばいい。自分が書いたという、生きていた証を残したい。そう思った。

「ね? それがあなたが本当にやりたいことです。人生で一番大事なことは、それを見失わない事です」

 俺が考えていた事を見透かしていたのだろうか。男がいたずらっぽく笑った。

「人生は、案外と短いんですよ」

 男はまたその言葉を繰り返した。自分の中に、何か火が灯ったような気がした。

 その時、目の端に男の腕時計が入った。動かなかった秒針が動いた気がした。思わずそれに見入ってしまった。確かに、秒針が一つだけ動いている。

 思わず、男の顔を凝視した。男は腕時計を確認すると、ああ、と呟いた。

「見てしまいましたか?」

 その言葉に、こくりと頷いた。

 その瞬間、店のドアが乱暴に開かれた。二人でそちらに目をやると、同僚が青い顔でこちらに向かって叫んでいる。

「大国が戦争を始めたらしい! 今ラジオで緊急放送が流れた」

 それだけ言うと、大変だ大変だと店内へ駆け戻った。

 ざわっと身の毛がよだつ。

 恐る恐る、男の顔を見た。男はにやりと薄い笑みを浮かべた。

「内緒ですよ」

 人差し指を口に当て、笑っている。だが、その細められた目の奥は笑っていなかった。

 今まで見たことがないその表情に、一瞬で背筋が凍った。

「小説楽しみにしていますね」

 男はそう言うと、席を立った。再び蝙蝠傘をさして、けぶる雨の中に消えていった。そう、今度こそ本当に消えていった。煙のように。

 終末。

 そうだ、あのシュウマツは、週末ではなく、終末のことだった。男が持っていたのは、終末時計だった。その秒針が一つ進んだのだ。

 ごとんと頭がテーブルに落ちた。

 この話、絶対小説にしよう。もし、この先も俺がまだ生きていたら。

 それ以来、黒い紳士の姿を見ない。


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