プロローグ
善人が必ず報われる事はない。善が悪に墜ちるのは一瞬であり、その逆も然り。僕はそのことを何よりもよく知っていた――。
※
――12年前、大阪にある星野家にて。
『また゛捕食者゛による痛ましい捕食死です。都内在住の家族のうち3人が、゛捕食者゛に襲われ、死亡しました。犠牲者の名前は天瀬優徳、天瀬明希菜、天瀬奈緒ちゃん。なお、家族の長男とみられる6歳の男の子は、特殊魔法治安維持組織によって保護されました。命に別状はないとのことです――』
激しい雨が降る夜、家の外で響く雨粒の音を消して、テレビがニュース番組を流している。
「可哀想に……6歳って、一希と同い年でしょう?」
「僕たちも気をつけないといけないな」
リビングにいる父と母は、そんな内容をすっかり慣れた様子で、日常会話として消化していた。
当時は僕も6歳の子供だ。悲しいや怖いと言った感情も、画面の先の言葉では、特には沸かないと思う。難しいと思っていたニュースも、深く興味を引くものではなかった。
玄関のチャイムが鳴る。
「こんな時間に誰かしら? 百合は今日は学校に泊まる日だし……」
何回も鳴らされる雨の夜のチャイム。まず、こんな時代に夜にチャイムが鳴ることなど、珍しいことであった。
「……?」
二階の自分の部屋で黙々と宿題をしていた僕も、一階の廊下にまで来た両親の会話を覚えている。
「車がエンストして家に帰れなくなった?」
「ええ。男の方が二人組で」
「それは大変だ。すぐに温かい飲み物とタオルを用意してあげなさい」
「どうしたの、お母さん、お父さん?」
何やら慌ただしいのと、妙な胸騒ぎがして、僕は勉強机から顔を振り向けて、一階に向けて声をかける。
「家に帰れなくなってしまって、立ち往生しているって人が来たの。もう夜だし危ないから、取りあえず中に入れてあげないと」
応答は、母親。医者である母に検事の父親。どちらも正義に満ちていて、善良な市民だった。だからその時も、純粋な人助けと言う良心からなる、行動だったのだろう。
僕はそんな両親が大好きだったし、尊敬していた。
だけど。
「――何をするんだっ!?」「――きゃあーっ!」
善人が決まって報われる事は、ない。
金目当てによる、魔法強盗犯罪者。
抵抗する父の怒声を背に、必死に二階まで上がって来た母が、僕に言ったのは、クローゼットの中に隠れて、だった。
そうして、こちらに向けて必死に腕を伸ばす母親の後ろから、魔法は放たれた。
「お母、さん……」
僕は言われた通り、クローゼットの中に隠れていた。
父も母も頭が良い。きっと死んだふりをして、悪い人がいなくなったら、立ち上がるんだろう。それに母は医者だ。血まみれになっている自分の身体くらい、すぐに治せるはずだ。父も、優しくてお節介な人だ。そんな凄い人が、呆気なく死んでしまうわけがない。
「おい早くしろ! 特殊魔法治安維持組織が来ちまうぞ!」
「子供部屋なんか見てどうする!? そんなところに金目の物なんかねえよ!」
僕は、家族の死体と共に、一夜を明かした。
パトカーと黒い車が何台も、家の前に停まっている。
警察や特殊魔法治安維持組織から、色々と聞かれた。僕は分かる範囲の事はなんでも話し、大人たちは僕の事を可哀想なモノを見るような目を向けてから、各々仕事に戻っていく。
「かずくん……大丈夫……?」
「僕は大丈夫だよ。なんではるかが泣いているんだよ?」
隣家の幼なじみであり、母親の病院に勤める看護師の娘でもあった雛菊はるかが、涙を浮かべて、両手をくしくしと顔に擦って声をかけてくる。
「だって……だって……っ。かずくんのお父さんとお母さんが……っ!」
僕は、父と母が亡くなった雨上がりの家をじっと見つめあげてから、はるかに視線を向けた。
僕に父譲りの正義感があるのかは分からない。母譲りの優しさがあるのかは分からない。けれども、はるかが泣いてしまうのは悲しいと感じたし、罪のない両親が善意の結果によって殺されたのは、悔しかった。怒りも、感じていた。
――その、一方で。
(……あれ。はるかの髪って、真っ黒だったっけ……?)
確か、栗毛色だったような気が。
よく目を凝らす。特殊魔法治安維持組織の黒いスーツと黒い車はともかく、救急車やパトカーの上のサイレンランプは確か、赤色だったはずだ。それなのに何故か、くすんだ色――強いて言えば、灰色に見える。
警察官や救急隊員の制服も、家の庭に生えている木も、果てのない天も、全て、色褪せて見える。
後の病院の検査で分かった結果だと、どうやら僕は、事件のショックで脳に異常が起き、色彩感覚を掌る神経が駄目になってしまったらしい。
最後に見た色とは、ずっと死んだふりをしていたと思っていた、母親の身体から流れていた、赤い血。あの夜、僕の家に来た魔法犯罪者は、僕の両親だけではなく、僕の世界から色も奪った。
それから十年後。
――魔法が使えないんだよね?
――ああ。
彼は少し、億劫そうにした。
――同情するなんて言うなよ、惨めに感じるのはこっちだ。
――惨めなもんか。
僕は、軽く笑って肩を竦めていた。
色褪せた灰色の世界でずっと生きてきた僕は、遂に出会ってしまった。あの日、歩道橋の上から見た光景は、僕の世界に色を差した。
「最低、信じらんないっ!」
(色が、見える……!?)
隣で赤面する理を尻目に、僕は、歩道橋の手すりをぎゅっと握り締めていた。
魔剣への付加魔法。灰色の世界を生きてきた僕が、十年ぶりに見た、色だった。その青い光は、とても綺麗で美して、儚くて、羨ましかった……。
砂漠の中の水のように、灰色の中で色を渇望した僕もまた、魔剣を手に入れた。そして、色も。
亡霊に取り憑かれたかのように、僕は力と共に、その付加魔法が見せてくれる世界に、溺れていった。
この魔法世界に剣術士は二人もいらない。
――同じ道を進んでいけると思っていた。家族を失った者同士だからこそ、分かり合えることも出来ると、俺は信じていた!
――目の前で同じ人間によって家族を殺されたあの光景は……僕の視界から色を消した。灰色になった世界に色を差したのは……紛れもなくお前だ。
――そして今……その色は……僕自身でだって生み出せる! お前はもう、この魔法世界に不要だ!
土砂降りの雨の夜で、僕は、もうひとりの剣術士を殺そうとした。
でも、何度傷つこうとも立ち上がる彼を前に、僕は敗北した。それどころか彼は、僕に救いの手を差し伸べた。彼は僕の世界にまたしても色を付け加えた。
かつての父の正義がそうであったように、また、母の優しさがそうであったように。灰色の世界で見えなくなっていたものが、ようやく、見えたみたいだ。
――君はいつまでも変わらないんだね。
真夏の都会。遥か遠くには陽炎がゆらゆらと浮かび、足元には1週間の儚い命を終えた蝉が、尚も生きようとあがき、最後の力を振り絞って、羽ばたこうとしている。
僕と彼は水滴が滴る炭酸飲料を片手に、会話をしていた。
真夏の日差しが、彼の顔に差し、僕は余りにもそれが眩しすぎて、直視できないでいた。
僕が犯した罪が、そう簡単に消えることはないのだろう。この灰色の世界も、あの日勇気を振り絞って、両親を助けることが出来なかった僕に与えられた、罰なのだ。きっと。
それでも、そんな僕にも、まだ残された道があると言うのならば――。
――僕は君に救われた。だから今度は、僕が君を助けたい。君がピンチになったり、なにか困ったことがあれば、僕は必ず、君の助けになるよ
――そんなに気負わないでくれ。俺だって、一希の言葉に納得や共感するべきところはあった。だからこそ、一希を助けたかったんだ
――うん……でも……。
彼はそうすると、足元にいた、死にかけの蝉を、じっと見つめる。多くの人を守り、戦ってきたその黒い瞳は、それでもどこか、憂いを帯びているようだった。
蝉は、ちりちりと言う声を鳴らして、それきり一切動かなくった。きっと、この世界で役目を終えたのだろう。
生温いそよ風が吹く中、彼は顔を上げて、やや微笑んで、こう言った。
――……だったら一希。一つ、頼みがあるんだ。
――なんだい? なんでも言ってくれ。
――……それは、もしも俺に何かがあった時、俺の代わりに、みんなの事を頼みたいんだ。もっと言えば、この魔法世界を。
善人が必ず報われる事はない。それでも、だとしても彼は、迷うことなく、その剣を振るっていた。
僕にはとても無理だ。……思わずそう言ってしまいそうな口を、僕は噤んだ。
僕は決して善人ではない。魔法犯罪者、そして、元を正せば゛捕食者゛によって人生を狂わされ、そして、君と出会い、過ちを犯してしまった。
僕に君の代わりを務めることは出来ない。でも、可能な限り、そうでありたいようには、したい。父と母もきっと、そうするべきだと、思ってくれると信じている。
――一希がその責任を果たし終えたらそのときは、きっと平和で穏やかな日々が待っているわ。貴方が殺めてしまった人の分まで、頑張って生き続けないと、怒られちゃうよ?
……ああ、そうだね姉さん。平和で穏やかな日々を迎える時までは、僕は、死ぬわけにはいかない。守り続けなければいけない。
全てが灰色となったこの魔法世界で、彼がまた色を見せて、僕にあるべき正義を示したように。
僕は人類の希望となりたい。
――追伸。
初めて会った日のお好み焼きのあの日の僕の奢り、まだ返してもらってないよ? 財布の中身が、少し足りていなかった。次は君が、支払う番だ。君にはいろいろと世話になったけど、それとこれとはまた別の話だ。だから、また会えた時までの、貸しにしておくよ。いつか返してほしい。
もう一人の、剣術士へ