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必ず、連れていく

作者: 上村スミス

 あたしがその記事を見つけたのは、太陽から降り注ぐ光の強さが増し始めた初夏のことだった。


『公園に訪れる子供を襲う、見えない変質者?』


 事務所のデスクに座って、机に肘をつきながらネットニュースを流し読みしていたあたしは、そのタイトルを見つけたと同時にマウスホイールを動かす指を止めた。

 少しだけ身体を動かして、モニターの向こう側を覗き見る。

 それほど広くない事務所内に設置された、やたらと大きな二つのソファ。その片方に仰向けで寝そべっている人物の様子を伺う。

 ……その人物――あたしが座っているデスクの本来の持ち主――は、顔の上にハードカバーの本を乗せて、静かに寝息を立てている。あんなふうな眠り方で、寝苦しくないのだろうか?

 ……まあいい。起きていないのなら、それでいい。

 あたしはもう一度、発光するモニターへ向かった。


『――○○県××市の公園で、複数の児童が何者かに身体を触られるなどの被害を受けていたことが明らかとなり、近隣住民から動揺の声が上がっている。

 被害を受けたのはいずれも小学校低学年の児童で、友人と公園で遊んでいる際、何者かに首や腹など、身体の複数個所を触られた。だが、いずれの児童も犯行に及んだ人物の姿を見ておらず、警察が捜査を進めている――』


「…………」


 背もたれに身体を預けながら、ぼーっとモニターを見ながら考える。

 ……なんだろう、これ。

 このむず痒い感じ。よくわからないけど……。


「その記事が気になるのかな?」

「わっ」


 突然耳元から声がして、あたしは飛び上がりそうになった。

 慌てて振り向くと、そこにいたのはさっきまでソファで眠り込んでいたはずの人物。

 長身で、長髪で、美人……あるいはイケメンの、女性。そして、この事務所の主。


「駄目だなぁ、音子(ねこ)ちゃん。いくらここが君のバイト先の探偵事務所で、お仕事が既に終わっているのだとしても、勝手にわたしのパソコンで遊んでいるだなんて許されないと思わない?」


 あたし……尾取音子(おとりねこ)の雇い主にして、この探偵事務所の所長――蔵木(くらぎ)所長は、軽く腕を組みながら、いつもどおりの不敵な笑みでそう言った。


「……仕事が終わったら定時まで好きにしていいって言ったのは所長でしょうが」

「ああ、そういえばそうだったかな? でもさ、いくらバイトだからと言っても、お賃金を貰う以上少しくらい真面目にしようとか……」

「そっちはソファで眠りこけているんだから、お互い様でしょ」


 蔵木所長は小さくため息をつきながら肩をすくめる。

 演技臭い仕草だけれど、この人がすると憎たらしいほどに似合っていた。すらりと長い手足と高身長――ときに中学生にすら間違われる、ちんちくりんなあたしとは正反対――をもってすれば、どんな動作も絵になるらしい。


「それで? 一体どんな記事だったのかな」

「……別に、普通の記事ですけど。公園に変質者が出たっていう……今時珍しくもないでしょ」

「それはそれで切ないねえ。いつからこの国は、石を投げれば変質者に当たるようなおかしな国になってしまったのかな」


 そこまでは言ってない。……それにあんただって、相当変質者の素質があると思う。

 所長があたしの肩越しにモニターを覗き込んできたので、すっと身体を引く。男だろうと女だろうと、整いすぎている顔面が近づいてくるのは心臓に悪い。

 所長はしばらくじっと記事の文章を眺め、ふむ、と顎に手を当てた。


「なるほどね。音子ちゃんが気になった理由がわかったよ」

「……どういう意味ですか」

「見えない変質者……確かに、ウチの事務所に相応しそうな事件だね」


 あたしは深くため息をつく。……またそんなことを。


「だから、ただちょっと気になっただけって言ってるでしょ」

「その、ちょっと気になったのが重要なんだよ。音子ちゃんの勘の鋭さに、わたしは一目置いているんだから。だからこそ君を雇っていることをお忘れなく」


 ……あたしが勘の鋭い女だったら、こんな怪しい事務所のバイトなんてしてないわい。

 あたしがじとりとした視線を送っていることには気付かず、あるいは無視しながら、所長は実にうきうきした笑顔を浮かべた。


「××市ね……多少距離はあるけど、電車を乗り継いでいけば行けなくもないね。よし音子ちゃん、デートがてらこの公園の事件を調査しようじゃないか。どうせ依頼もなくて暇だし」

「……あのねえ。そうやって遊びに出かけている間に依頼人が来たらどうするんですか」

「大丈夫大丈夫。依頼人なんて早々来ないさ」


 探偵事務所の所長としては問題のある発言だけれど、正直頷かざるを得ない。

 ウチの事務所は閑古鳥が鳴いているのが通常営業で……むしろそうでないと困ってしまう。

 ――なにせウチは、『心霊現象専門の』探偵事務所なのだ。

 つまりウチに来るご依頼は「幽霊が出たからなんとかしてください」みたいな、怪しげなものばかりということだ。

 そんな事務所に依頼が殺到したりしたら?

 ――それこそ、この国はおかしくなってしまったことになる。


 ■


 翌日、あたしと所長は電車に揺られながら目的地を目指していた。

 四人掛けのボックス席に、向かい合わせで座る。景色を見たいあたしは窓際に、車内販売員のお姉さんを見たい所長は通路側に座っていた。

 あたしはこれといって特徴のない、安売りのジーンズに薄手のパーカー姿。所長はいつも通りの……季節を問わず年中着ている、暑苦しいズボンスーツ姿をしていた。どう見ても暑いはずなのに、涼し気な表情をしているから不思議だ。絶対やせ我慢をしているとあたしは思っている。


「……さて、それじゃ」


 両足を組んで優雅に座っていた所長は、隣の席に置いてあったカバンの中からノートパソコンを取り出し、あたしに差し出す。


「どうぞ。急な出発だったから、向かいながら下調べをしないとね」

「……暇つぶしの調査のために、警察のデータ覗いてもいいんですか? しかもバイトの大学生が……」

「いいんだってば。許可はされてるし、パソコンが苦手なわたしより音子ちゃんがやったほうが早い。君がデータを悪用するような子じゃないことも知っているし」


 ……そういう問題じゃないでしょうに。

 驚くべきことに我らが蔵木探偵事務所は警察と密接な繋がりがあり、依頼の調査をする際に警察内部のデータを閲覧することが許されている。なんでも過去に、警察のお偉いさんが絡んでいる心霊事件を解決したからだそうだが……まさか警察も、単なるバイトに重要なデータを覗かせているとは思ってもいないだろう。ごめんなさい。


「パスワードだけは所長が打ち込んでくださいよ」

「いつでも教えるって言ってるのに……心配性だねえ」

「これ以上、責任を背負いたくないだけです。……ただでさえ危ない橋渡ってるのに」


 ノートパソコンを開きパスワードを打ち込んだ所長が、再びあたしにパソコンを差し出してきたので受け取った。あたしは手慣れた手つきで(我ながら慣れてしまっているのが怖い)キーボードを叩き、今回の事件現場である公園に関してのデータを絞り出す。


「……気になるデータは、ここ最近起こっている変質者事件くらいしかないですね。心霊事件だったら、過去に何か原因があることが多いですけど……せいぜい暴行事件か事故の報告くらい」

「その言いぶりからすると、暴行事件は若者同士の喧嘩、事故は子供が遊具で怪我をしたとかかな? 公園だものね」

「ま、そんなとこです」

「変質者に関しての情報は、どれくらいあるのかな」


 あたしはタッチパッドを指でなぞってカーソルを動かしながら、必要な情報に目を走らせる。


「変質者の正体については、殆ど憶測みたいになってますね……本当に目撃情報がないみたい。被害児童が全員女児だったので、犯人像は男性とされてるみたいですけど」

「別に女の子が好きな女だっていると思うけどねえ」


 ……あんたみたいにな。


「失礼な、わたしは大人の女性にしか興味ないよ。もちろん、音子ちゃんのことも、大人の女性として見てるってことだよ」

「何も言ってませんけど。……被害児童は皆、友人たちと遊んでいたところを襲われた……この辺りはネットニュースにも上がっていた情報ですね。逆に一人きりでいるときに被害に遭った子はいないようなのが、少し気になりますが」

「大勢で遊んでいるところを襲うことに興奮を覚える変態なのか……と、普通なら考えるのかな。だけれど、わたしたちは心霊事件の調査事務所だ。違う視点から……おばけの類が起こした事件なのだと考えようじゃないか。もし、そうなのだとしたら……」

「……一人でいるだけでは、心霊現象の条件を満たさない?」


 心霊事件・心霊現象というものは、何かしらの条件が満たされたときに発生する……らしい。

 例えば、立ち入ってはいけない場所に入り込んでしまったりだとか、壊してはいけないものを壊したりだとか。……いわゆる禁忌(タブー)を侵したときに、心霊事件は動き出すのだそうだ。

 いずれも所長の受け売りなので、正しいんだか、正しくないんだか。


「もっと、被害に遭った子供たちに関する情報はないのかな」

「ちょっと待ってください……ん?」


 もう一度データを眺めていたあたしはひとつ、被害児童たちの共通点を見つけた。

 でも正直、これは別に……そんな風に躊躇っていたあたしの様子に気がついたのか、所長が身を乗り出して聞いてきた。


「何か見つけたみたいだね?」

「いや、まあ……。でも、これはどうかなって……」

「いいから言ってみなさいな。……どんな小さな手がかりが、事件解決に繋がるかわからないんだよ?」


 珍しく探偵らしいことを……。

 その言葉に心を動かされた……わけではないけれど、あたしはとりあえず、気がついたことを言ってみる。


「えっとですね……。被害に遭った子供たちは、全員『かくれんぼ』をしていた時に変質者に触られたんだそうです。友達とかくれんぼをしていて、誰にも見つからないよう一人で隠れているときに突然身体を触られて、思わず悲鳴を上げてしまったんだとか」


 あたしがそう伝えると、所長は乗り出してきていた身体を座席の背もたれへと戻す。

 ――そして、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべだした。……嫌な予感がする。


「なるほど、なるほど……。じゃあ、それが条件なのかもしれないなぁ。さっそく公園についたらやってみようか」

「……あえて聞きますけど、何をですか」

「もちろん『かくれんぼ』さ。……ふふ、音子ちゃんは何年振りだい?」


 ■


 事件のあった公園は、駅から少し離れた位置にある新興住宅地を抜けた先の、小山の麓にあった。

 街中にあるような小さな公園を想像していたけれど、それはまったくの勘違いだった。想像の五倍以上はありそうな広大な敷地に、いかにも子供たちが喜びそうな大きめの遊具があちこちに設置されている。ブランコや鉄棒といったどこにでもありそうな遊具ももちろんあるけれど、大規模なアスレチックや山の形をした変わった滑り台など、そこらではちょっと見かけないような遊具が沢山ある。遊具はどれもこれも綺麗な様子で、錆び付いているようなものはない。

 加えて、公園内の半分程は山に直接繋がっていて、森林公園のようになっていた。……気になって公園の入口付近を探してみれば、大きな石のモニュメントにまさにでかでかと『森林公園』と書かれている。このモニュメントもまた、遊具と同じくどこか真新しい感じがした。


「なるほど、確かにこれはかくれんぼがしたくなるね。大きな遊具に森の木々……隠れる場所には事欠かない。……というわけでさっそく」

「……ほんとにやるんですか? この歳でかくれんぼなんて、本気でやなんですけど」

「なに、人目が気になるの? 大丈夫だよ。ほら見てごらん、変質者事件の影響なのか、こんなに素敵な公園なのに全然人の気配がない」


 それについては気がついていた。確かに、こんなにも広くて遊ぶ場所に困らなさそうな公園なのに、人影が極端に少ない。……どこか、うすら寒い気さえする……。


「……なんか静かすぎる気もしますけど。まさかそれも心霊がらみが原因ってことはないですよね……」

「いや、単に平日の昼間だからじゃないかな」


 ……そうでした。

 これまで何度か、調査で幽霊的なものをお目にかかったことはあるが、未だに慣れることはない。怖いものは怖いのだ。

 だからこそ、わざわざ自分から首を差し出すようなことはしたくない。

 それに加えて……。


「ほらほら、ぐちぐち言わずにさっさと隠れる。時は金なりってね」

「元から金にはならない調査でしょ……って、ほんとのほんとにやる気ですか!? 何度も言うけど、歳を考えてくださいよ!」

「知ったことじゃないなぁ。せっかく手がかりがあるのなら、試すのが当たり前でしょ?」


 お前は何を言っているんだ、とでも言いたげな表情を浮かべているけど……そう言いたいのはこっちだっての。

 かくれんぼをするってことはつまり……隠れたあとに『もういいよ!』と大声を出さなければいけないってことだ。そんなのを誰かに聞かれたりしたら……あたしは向こう十年は、ここら一帯に近づけなくなる。

 なんとか回避できないかと頭を回転させた末に、ひとつピンときたことを伝える。


「そうは言っても、被害者はみんな子供じゃないですか。あたしがやっても何の意味もないですよ」

「もしかくれんぼが禁忌だったとして……かくれんぼをするのなんて子供が殆どでしょ。大人がかくれんぼをしても心霊現象が起こらない、ってことにはならないんじゃない?」

「……それは、そうかもですけど」

「大体、何の意味もないってことはないさ。そもそも、これが心霊事件なのかどうかすらもまだわかっていないんだからね。様相をはっきりさせるためにも、わかっていることからなんでもする! さあ、さっさと隠れた隠れた!」


 結局、所長の勢いに負けて、あたしは公園内を走り回ることになった。ちくしょう。

 やるからには本気でやれ、と所長の目が訴えていたのであまり手抜きはできない。しばらく思案したあたしはアスレチックに駆け寄り、その中にあった小さなトンネルの中に隠れた。子供用のアスレチックのはずなのにするりと身体が入ってしまったことに若干悔しさを感じながら、あたしはトンネルの中で体育座りをする。


「もー、いいかーい!」


 所長がなんの恥も躊躇いもなく、大声で叫んでいる……。

 やばい、知り合いだと思われたくない。しかし放っとけばいつまで経っても叫び続けているだろう……そういう人だ、あの人は。


「も、もういいよー」

「あれー? まだ隠れられてないのかな? もー、いいかーい!」


 ……ああ、くそっ!


「も、もういいよー!」


 力の限り叫ぶと、所長の声は聞こえなくなった。おそらくあたしを探し始めたのだろう。


「……はぁ」


 体育座りをした膝に、額をコテンとぶつける。……たぶん今、顔が真っ赤になっている……。

 ああ、事務所でのんびりネットニュースを眺めていただけなのに、どうしてこんなことに。いくら給料が美味くとも、仕事が終わった時点でさっさと帰ればよかった……。

 しかし、今月はお財布がわりとピンチなのが現実だ。今日一日のバイト代だけで、どれほどあたしの生活が潤うことか。それを考えると、一度かくれんぼをするくらいのことは、耐えるべきなのかもしれない……。


「…………」


 ……だけど、かくれんぼだなんて本当に何年振りだろう?

 小学生の低学年のころは、さすがのあたしも外を走り回って遊んでいた。走るのは苦手だったので鬼ごっこは下手っぴだったけれど、かくれんぼはそれなりに上手だったと思う。

 身体の小さかったあたしは(今も小さいけど)他の子達では通り抜けられないような隙間を使って、上手く身を隠していた。いつも一番最後に見つかることを、自慢にすら思っていた気がする。かくれんぼをするたび、新たな隠れ方を考えるのが楽しくて、だんだん隠れ方もエスカレートしていったっけ……。


「……あー」


 ひとつ、嫌なことを思い出してしまった。

 ある日、学校でかくれんぼをしていたあたしは、体育倉庫の屋根に登れることに気がついた。

 体育倉庫の裏手には使わなくなった運動器具が放置してあって、それを足場にすれば簡単に屋根に登ることができたのだ。あたしはこれ幸いとばかりに屋根に登り、わくわくしながら息を潜めて、友達に見つかるのを待っていた。

 ところが、いつまで経っても友達が見つけに来ない。一体どうしたんだろうと屋根の上からこっそり様子を見てみると、何故か友達に混ざって担任の教師があたしのことを探していた。どうやらあまりにもあたしを見つけることができなかった友達が、何かトラブルに巻き込まれたんじゃないかと思い教師に相談をしたらしかった。

 これはまずい、と思ったのも束の間、ちょうど担任の教師と目が合った。案の定あたしは、一緒にかくれんぼをしていた友達と物凄く怒られ、わりと大きな問題となった。あの時友達が見せた「お前があんなところに隠れなければ」という視線が今でも忘れられない。思えば、あの日を境にあたしはかくれんぼをしなくなったかもしれない……。


「はあ……」


 小さくため息をつく。

 思い出さなくてもいいことを思い出してしまった。かくれんぼなんてしなければ、余計な事を思い出して気を重くすることもなかったのに。

 ……見つかるのを待っている間は何もすることがない。かつてはわくわくしていた時間だったのだろうけれど、今はただただ、無為に時間が過ぎるのを待つだけだ……。あたしは膝に顔をうずめながら、さっさと見つけろと所長に念を贈り続けた。

 いつまでそうしていただろうか、ふいに両肩にポンと手が置かれた。ああ、ようやく見つかったのか、わざわざ後ろから驚かせようとして……と呆れたところで、違和感に気付く。


 ここは、小さなトンネルの中だ。

 こっそり後ろから両肩を叩くなんて、できるわけがない。


「……っ」


 一気に体に緊張感が走る。

 額から、背中から……じとりと嫌な汗が伝う。

 両肩に置かれた手は、あたしの身体を撫でるかのようにするりと動いた。首元に、ひやりとした感触がする。首を絞められたわけでもないのに、自然と呼吸が荒くなる。

 やがて冷たい手は背中側を伝い、両脇を通ってお腹へと回る。お腹の前で両手が組まれ、後ろから抱き着かれたような形になる。

 だけど、背中には硬い壁の感触しかしない。

 お腹と脇腹には、確かに柔らかな腕の感触があるのに……!

 恐怖で奥歯がかちかちと鳴る。声を上げたいのに、声を上げられない。

 下腹部に、ぐっと力が入るのを感じる。見えない両手が、あたしの身体を後ろへ引っ張っている。


 ()()()()()()()

 

 なぜか、そう強く思った。

 この手は、あたしをどこか知らない場所へ連れて行こうとしている――!


「……ッ!」


 いよいよ限界を迎え、叫び声を上げようとしたその時。


「……みいつけた」


 お腹に感じていた両腕の感触が、突然消えた。ずるりと、背中側の壁に吸い込まれていったように。

 恐る恐る顔を上げると、トンネルの出口の向こうに知った顔が見えた。いつも通りの不敵な笑み……だけどちょっとだけ優しさが覗いている。


「お待たせ。……ふふ、寂しくて泣いちゃった? いいんだよ、わたしの胸で泣いても」

「……うっさい」


 トンネルから這い出て、所長の腰にパンチを食らわせる。

 太陽の日差しを浴びて、ようやく体温が戻ってきたような感覚がした。


 ■


「連れていかれる?」

「……なんでか、そう思ったんですよね。ただお腹を引っ張られたから、そう思っただけかもしれないですけど……」


 あたしたちは公園から離れ、近隣の新興住宅地へ来ていた。事件に関する聞き込みをするためだ。


「いやいや、そういう感覚は結構重要だよ。事件の輪郭を掴む情報は、少しでも多い方がいい。様相さえはっきりすれば、あとはわたしがなんとかするさ」

「……そうですね」


 あの公園で、なんらかの心霊事件が起こっていることははっきりした。

 加えて、禁忌となる条件も殆ど確定した……子供だろうと大人だろうと『かくれんぼをする』という簡単な条件を満たせば、今回の心霊事件は起こる。

 禁忌の内容次第では放っておいても問題はないけれど……今回の事件の禁忌は少し条件が緩すぎる。公園内でのかくれんぼを禁止することは難しいし、そもそも禁止したところで子供たちはいずれ遊んでしまうだろう。

 些細な心霊事件であっても、繰り返されれば大事故に発展することもある……のだそうだ。従って蔵木探偵事務所は、無償での事件解決へと乗り出すこととなった。


「でも、聞き込みで何かわかりますかね? 警察の過去のデータをいくら探しても、あの公園で死者が出たことはないみたいですよ」

「データはデータ……生の声程、詳しく教えてはくれないさ。それに……」


 所長が前を向きながらニッコリと笑った。何かと思えば、所長好みの美人な若奥さんがいる。


「別に、毎回現場に死体が埋まってるわけでもないさ」

「はぁ……?」



 結果として、住宅地での聞き込みの成果は、殆どゼロに近かった。

 聞き込みで得られた情報は、せいぜい公園の成り立ちくらいだった。随分昔からある公園なのだが、アスレチックなどの変わった遊具は、ここら一帯が新興住宅地となるタイミングで新しく建てられたものらしい。意外と綺麗な公園だと思った背景には、そういう事情があったわけだ。

 しかし、それ以外の情報は皆無に等しい。そもそも周辺が新興住宅地なのもあり、昔からここに住んでいる人に会うことができなかったのだ。こういう土地ではなかなか古い情報に触れることができず、調査が行き詰まりがちになる。

 ところが、所長は上機嫌な様子で、角砂糖を五つ入れたコーヒーを啜る。……進展のない調査に疲れたあたしたちは、住宅地から少し離れた位置にあった喫茶店で休憩をしていた。


「いやぁ、この辺りは若くて美人の奥さんが多くてたまらないね。これだけでも、ここに来た意味があったってものだよ」


 壮絶に顔のいい所長はそのアドバンテージを存分に使い、複数人の若奥さんから情報を仕入れていた。そのいずれもがあまり事件解決には役に立たないものだったけれど……奥さんたちと楽しく会話できたこともあり、本人は充分満足しているらしい。


「……機嫌がいいのは結構ですけどね、事件のほうはどうするんですか。まるで情報が集まってないですけど」


 あたしは思わず不機嫌な声を上げる。インドア派を死ぬほど連れまわしたあげく、自分ばかり楽しげにされたとあっては、あたしだってへそを曲げるというものだ。

 ところが、所長は素知らぬ顔を浮かべるばかり。……それどころか、クイズの答えが分からなくてぐずっている子供を見ているような目であたしを見た。

 

「焦らない焦らない。まともな情報が手に入らないのは想定の範囲内だよ。むしろ、この時点で解決の糸口となる手がかりが見つかっていたら、相当運がいい」

「……はあ? じゃ、なんですか。あたしのことを無駄だと分かった上で連れ回してたってことですか」

「まさか、無駄だなんてとんでもない。あちこちを連れまわした結果として、いま我々はここにいるんだよ。音子ちゃんは、どうしてこの喫茶店で休憩しているんだと思ってたの?」

「え? ……歩き疲れて、偶然見つけたからじゃないんですか」


 あたしがそう言うと、所長は実に愉快そうに笑う。


「ふふ、公園の周囲が新興住宅地な時点で、昔から住んでいる人が少ないことは分かり切っているだろう? けど、まったくいないってことは早々ない。――この喫茶店は、この辺りで最も古くからあるお店のひとつなんだよ」


 あたしは思わず目を見開き、お店の様子を伺う。

 入店したときも思ったが、お店の様子に古臭い印象は全くない。むしろここ最近……住宅地と共にできたのではないかと思うほど小綺麗だ。……本当に昔からあるお店なのだろうか?


「数年前に、内装外装まとめてリニューアルしたらしいよ。だから見た目は新しいけど、経営自体はあの住宅地ができるよりもずっと昔からやってるお店だ」

「……そんな情報、いつの間に」

「音子ちゃんが、わたしと奥さんたちの会話をつまらなさそうに聞き流してたときー。どうせ碌な情報出てこないと思って、真面目に聞いてなかったでしょ? 音子ちゃんは人脈ってものを軽視しすぎなんだよ。人と人の繋がりって、案外馬鹿にできないんだよ?」


 ……む。反論したいけれど、実際話半分に聞いていたので何も言い返せない……。


「というわけで、本当の聞き込みはこれからさ。すいませーん!」


 所長は威勢よく店員さんを呼ぶ。

 ホールを担当している店員さんは一人だけのようで、品のよさそうなおばさんだった。所長はコーヒーのおかわりを注文すると、流れるように雑談を始める。


「そういえば、ここのお店って随分な老舗なんですって? 初め見た時は綺麗なお店だったんで驚きました」

「あら……どなたからお聞きになったんですか? 老舗なんてほどでもないけれど、祖父の代から続けさせていただいておりますわ。おかげであちこちが痛んできてしまったんで、数年前にリニューアルしたんですよ」


 ……完璧に情報通り。あたしは舌を巻いた。

 その後、所長はいつも通りの様子でおばさんから話を聞きだしていく。会話し始めは店員として一線を引いていたおばさんも、所長の面の良さと調子のいい会話で、だんだんと砕けた様子になっていく。とてもじゃないが、あたしには不可能な芸当だ。

 いくつかの無関係な質問の後、所長は真に知りたかった情報へ切り込んだ。


「そういえば……ご存じです? 住宅地の向こうの公園で変質者が出たって……」

「ええ、もちろん知ってるわ。怖いわね、この辺りじゃ事件なんて起こったこと無いのに……」

「さっきその公園を見かけたんですけど、とっても綺麗な公園でしたね。あそこも、近年建て直したんですって?」

「ええ、本当によくご存じね。――でもねえ、あそこの公園はねえ」


 ……来た。あたしは喉を鳴らし、所長の目はぎらりと光る。


「……どうかなさったんですか?」

「ああ、いえね。子供の頃の話なのだけれど、女の子はあの公園で遊んじゃいけないってよく言われていたのよ。――おばけが出るんだって」

「おばけ、ですか?」

「ええ。学校の七不思議とかってあるでしょう? それと同じような感じで、街なかの奇妙な場所ってことで随分噂されていたらしいのよ。女の子があの公園で遊ぶと、おばけに連れていかれちゃうんだって」


 ……()()()()()()()


「だから、あの公園は男の子専用の遊び場だったのよ。昔は木や藪がたくさん生えていたんだけど、ある時を境に一部伐採したらしくて、グラウンドのようになっていたのね。男の子たちはそこで野球やサッカーをしていたらしいわ。……だからわたしは、あの公園で遊んだ記憶がぜんぜんないの」

「あはは、そういう噂って地域ごとに意外とありますよね。どこからああいう話って出てくるんでしょうね」


 幽霊が出るという暗い話題だったのにも関わらず、所長が笑い飛ばしたおかげかおばさんは調子よく話を続けてくれる。

 これもテクニックってやつなのだろうか? ……キツネめ。


「それがね、わたしは母から聞いていたのよ。わたしの親の世代から、連綿と受け継がれてきたわけ。おかしいでしょ? 大人になればおばけなんて馬鹿馬鹿しいと思うのが普通なのに、母があんまり真剣に『おばけが出るから遊ぶな』っていうものだから、わたしはすっかり怖がっちゃって。絶対あの公園に近寄ろうとしなかったんだから」

「へえ……」


 所長はおばさんに気付かれないよう、あたしに向かってウインクをした。


「――実は、そういうお話結構好きなんです。もっと詳しくお話が聞ける場所ありませんか?」


 ■


 その後、あたしたちは再び街中を駆け巡った。

 喫茶店の店員さんから始まった聞き込みは、店員さんの親からご近所にある別の老舗店、最終的に介護施設にまで及び、話が聞けそうな場所全てに足を運んで、ありとあらゆる話を聞いた。

 その結果、あたしたちは情報を手に入れた。……事件の核心に迫るような情報を。


「……やっぱり、亡くなった人がいたんですね。あの公園で」


 聞き込みをした人たちから戴いた情報は、お年を召している方が多かったこともあって話が抜け落ちていたり、曖昧だったりするものが殆どだったが……要約すると次のような話らしかった。

 ある日、とある親子連れがあの公園に遊びに来たらしい。

 その親子は、公園でかくれんぼをすることにしたそうだ。当時は今のようなアスレチックはなかったが、今よりももっと木々や藪が多く、かくれんぼをするのにはもってこいだった。

 親子は何度もかくれんぼを繰り返していたが……何度目かのかくれんぼで、隠れた子供――女の子だったらしい――から返事が返ってこなくなった。

 両親は必死になって女の子を探した。しかし、いくら探しても女の子の姿は見つからない。――かくれんぼに適した公園は、捜索が困難な場所でもあった。

 懸命な捜索の末に、両親はついに見つけたらしい。……変わり果ててしまった、我が子の姿を。

 以来、あの公園で女の子がかくれんぼをすると……死んだ女の子のおばけが出る。自分を見つけてほしくて、肩を叩いてくるのだそうだ。

 

「事故か、事件か……ともかく、かくれんぼ中に亡くなった子供の幽霊が、あの公園に出てきた――あたしの身体に触れた幽霊の正体ってことですね」


 あたしが所長にそう言うと、所長は珍しく笑みを浮かべていなかった。


「……どうかしたんですか?」

「いや……そうだね。それが顛末かもね」

「……? 妙に煮え切らないじゃないですか。何か気になることでも?」

「うーん……いや、やっぱりなんでもないよ。とりあえず、もう遅い時間だから今日はもう帰ろうか。このままじゃ音子ちゃんが残業になっちゃうよ」


 あたしは目を見張った。……あたしの残業を気にするような良心がこの人にあったのか。


「公園の幽霊はいいんですか?」

「事件の様相ははっきりしたからね。明日またわたしが一人で来て、なんとかしておくさ」

「……そうですか」


 なんとなく釈然としないが、所長がなんとかすると言うのならばなんとかできるのだろう。

 あたしたちは住宅地を離れ、来た時と同じ電車に乗り帰途についた。

 帰りの電車の中では、珍しく所長は大人しかった。何やら思案している様子だったが……大人しいのは結構なことだ。あたしは携帯で小説を読みながら、快適な電車の揺れに身を任せていた。


「……ふう」


 事務所でタイムカードを押して、そのまま自宅へと向かったあたしは、一も二もなくベッドに倒れ込む。

 ……今日は疲れた。もともと、あまり外出をするほうではない。加えて今日は年甲斐もなくかくれんぼをし、調査のために街中を歩き回り……とにかく体力を使った。インドア派の体力は既に限界を迎え、ご飯を食べる気力も起こらない。

 ご飯を食べなきゃ、着替えなきゃ、風呂に入らなきゃ、歯磨きをしなきゃ……頭の中で思考がぐるぐると回る。

 そのうちふと、かくれんぼ中に亡くなったという女の子の話に頭のスイッチが切り替わる。

 ……どうして、その子は死んでしまったんだろう。かくれんぼなんて、事故が起きるような遊びじゃないのに。

 かくれんぼで隠れている間に死ぬ……それは、孤独の中で命を終えたということだ。だから、幽霊として出てくるようになったんだろうか。誰かに見つけて欲しくて、気付いて欲しくて……わたしはここにいるよって、肩を叩きたくなったのだろうか。

 だとしたら……可哀想な話だ。

 誰かに見つけてもらうのが、かくれんぼなのに。

 自分から出てきてしまったら、意味がないのに……。

 とりとめのない思考が、浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる。そうして考えているうちに身体だけでなく脳も疲れてきたのだろう……あたしの意識は、闇の中へと消えていく。


 ――そして、夢を見た。


 ■


 あたしは車の後部座席に座っていた。

 運転席には、顔の見えない男の人が座っている。……でも心配する必要はない。だって、この人はあたしの最愛の夫だ。心配する必要がどこにあるのだろう?

 隣の席から、あたしを呼ぶ声がする。顔を向けると、やはり顔の見えない子供がいた。

 あたしの、大切な子。――小さなころから体が弱くて、入退院を繰り返している。

 今日の退院も、ずいぶんと久しぶりだ。だけど、ここ数か月はすこぶる調子がいい。このまま行けば改善も見られるんじゃないか……と、お医者様も言っていた。

 今日は久々の、家族全員揃ってのお出かけだ。旦那もこの日のために休みを取ってくれた。

 向かう先は、大きな自然公園。無機質な病室で、医療機器に囲まれて日々を過ごしていた我が子に、穏やかな日光の下、緑あふれる自然の中で遊ばせてあげたかった。



 公園についたあたしたちは、今まで満足に作れなかった子供との時間を埋め合わせるかのように遊んだ。

 子供の身体の調子は本当にいいようで、少しくらいなら駆けることもできた。とはいえ、あまり無理をさせるのは良くない。はしゃぎたがる我が子を宥めながら、いろいろなものを見て、触れて……共に笑った。

 やがて、子供がかくれんぼをしてみたいと言い出した。

 あたしは、少し迷う。ほんの一瞬とはいえ、我が子から目を離すのは怖い。だけど、身体が弱かったおかげで、この子はまともに同年代の子と遊んだことがない。鬼ごっこやかくれんぼなどといった、誰もが一度はやったことのある遊びですら経験したことがないのだ。

 できれば、子供の望みは全て叶えてやりたい。悩んだ末に、あまり遠くへは行かないこと、身体がつらくなったらすぐに薬を飲むことを言い利かせ、かくれんぼをすることにした。

 愛する我が子とのかくれんぼは、とても楽しかった。子供はもっぱら隠れる側に回りたいらしく、旦那とあたしが交代で鬼をした。

 我が子の元気な「もういいよ!」が聞こえてくるたび、あたしの心に嬉しい気持ちが溢れる。

 ……ああ、これからはきっとずっと、幸せな時が訪れるのだろう。

 自分の子供と、当たり前のように毎日を過ごす。そんな幸せな、普通の日々を送ることができるのだろう。

 あたしたちが見つけるたびに、子供は本当に楽しそうに笑った。もう一回、もう一回と、満面の笑顔を向けてくる。

 そしてまた、姿を隠すために木々の影へと消えていった。



 次はどこに隠れよう。あたしはわくわくしながら公園を駆ける。

 お父さんが、お母さんが、あたしのことを探しに来てくれるのが楽しい。違うところに隠れて見つかるたびに、お父さんは驚いて、お母さんは笑ってくれる。

 それが嬉しくてあたしは夢中になって隠れ場所を探した。――さっきまで母親として、自分の子供を見ていたことも忘れて、あたしは隠れ場所を探すのに必死になった。

 あそこの木の影はどうだろう。あちらの藪の側は? ……どっちもさっきと同じような場所な気がする。せっかくなら、もっともっと変わった場所に隠れたい。

 気がつけば、公園の入口から結構離れてしまっている。……でも、これくらいならきっとだいじょうぶ。だって今日は、いくら走っても全然疲れない。あたしはもう少し奥へと進んでいった。

 あたしが見つけたのは、木々が密集してぐるりと円を描いているような場所だった。木と木の隙間はとても狭く、ようく目を凝らさないと中まで見通すのが難しい。

 隙間に体を入れてみる。……ちょっと狭いけど、なんとか入れそう。病院でずっと過ごしていたあたしの体は、骨と皮しかついてない。

 こんなところに入っていたら、きっとお母さんたちビックリするだろうな……!


「やめて」


 突然、誰かの声が聞こえた気がした。

 いや……誰かじゃない。これはあたしの声だ。

 ――あたしはすぐ側で、木々の隙間に体を滑り込ませる少女の姿を見ていた。


「やめて! そんなところに隠れたら……!」


 あたしがどれだけ声を張り上げても、少女は隠れるのをやめない。無理矢理にでも引っ張り出そうとしたけれど、体が金縛りにあったかのように動かない。

 やがて、遠くから母親の声がした。もういいかい……子供の返事を心待ちにしているかのような、浮かれた声。


 その声に応えようと、少女は大きく息を吸い――喉から咳が漏れた。


 一つ、二つと続いた咳は止まらなくなる。まるで魔物が眠りから覚めたかのように……さっきまでの幸せな時間は、儚い夢だったのだと嘲笑うかのように、少女の喉から咳が吐き出される。

 咳が収まると同時に、少女の口からヒューヒューと、わずかに息が漏れる音が鳴り始めた。少女の表情に、苦悶の色が満ちていく。健康的だった顔色が、青を通り越して白くなっていく。

 腰につけたポシェットから、母親に苦しくなったら飲むよう言われていた薬を取り出す。震える手で蓋を開け、口をつけようとしたところで――少女は大きくむせ、手の中から薬のボトルを取り落とした。……ボトルの中の液体が、黒い土の中へと染み込んでいく。パニックに陥った少女の呼吸は、さらに間隔が短く、激しくなっていく。

 息苦しさに、少女は喉を押さえながら蹲る。薬の沁み込んだ黒い土が顔を……髪をぐちゃりと汚すが、そんなことを気にする余裕など、もう少女のどこにも存在しなかった。

 くるしい、くるしい、くるしい。

 たすけて、たすけて、たすけて。

 少女の目は確かにそう訴えているのに……あたしの身体は動かない。

 彼女がその身体の動きを止めるまで――あたしは眺め続けていた。



 悲痛な叫びが聞こえる。

 少女の母親が――喉から血を吐き出さんばかりに、我が子の名前を叫んでいる。

 母親が我が子の姿を見つけたのは、子供の身体が冷たくなってからだった。捜索の協力を頼んだ公園の客が、木々の隙間で小さく蹲っているのを見つけたのだ。

 我が子の変わり果てた姿を見た母親は――吠えた。

 悲哀と、後悔と、怒りと、絶望が入り混じったその絶叫は……公園中に響き渡った。


 周囲の景色が、まるで映像を早送りしているかのように切り替わっていく。

 猛スピードで過ぎ去っていく景色の中で、母親の姿だけがくっきりと映っていた。もう誰も隠れていないはずの公園で、母親は何度も何度も「もういいかい」と呟いている。


 ――母親の心は、子供の死体を見つけた時に壊れてしまった。

 最愛の子が死んだことを、受け入れることができなかったんだ。


 季節が過ぎ去っていくにつれ、母親の身体はだんだんとやせ細っていき、みすぼらしくなっていった。初めは付き添っていた父親も、いつの間にか姿が消えていた。

 やがて……子供が消えて以降、まともな食事を取っていなかった女は、衰弱した状態で亡くなった。

 その心だけを、公園に置き去りにしたまま――。


 ■


「う……」


 目が覚める。

 視界がぼやけている。……寝起きだからではなく、目がしらいっぱいに涙が溜まっていたせいだった。

 ずうんと重い上半身を起こす。着替えずに寝たおかげで、服はしわくちゃになっていた。

 洗面所に向かい、鏡に映った自分の顔を見る。

 そこに映っていたのは、目を真っ赤に充血させた、ちんちくりんな女子大生の姿。子供を持った母親でも、身体の弱い子供でもない。


「……はあ」


 またこれか。あたしは思わずため息をつく。

 心霊事件に関わった後は、毎回意味深な夢を見る。妙にリアリティがあって、起きると心底身体が疲れている。

 ……くだらない。とんだ妄想だ、これは。

 過去に起こった事件の断片を知り、そのピースを都合よく組み立てただけの……なんの確証も、信憑性もない想像だ。


「……単なる、妄想だ」


 自分に言い聞かせるようにつぶやいたあたしは、蛇口を思い切り捻って、顔面にぴしゃりと水を浴びせた。



 翌日。

 あのあとは結局寝直したのだが、今度はぐっすりと眠ることができた。起きてすぐに感じていた気分の悪さも、もうだいぶ薄まっていた。

 今日は大学の講義があるけれど……午後からなので午前中は暇を持て余している。


「…………」


 あたしは、蔵木探偵事務所に向かうことにした。

 事務所の中はお茶が飲み放題だし、冷房も好きなだけ使うことができるのだ。



「……あれ」


 事務所の前まで来て、中に誰かがいることに気付く。

 この事務所にいる人物など一人しかいない。ちょっとした誤算に、あたしはほんの少しだけ顔をしかめる。


「……ども」

「やあ、音子ちゃん。どうしたんだい、今日はバイトの予定は入っていないはずだけど。そんなにわたしに会いたかったのかな?」

「講義の時間まで、一人で静かに過ごそうと思って」

「一人で過ごすなら、家にいればいいじゃない? それなのにここに来るってことは……」

「家でガンガン冷房つけると、光熱費馬鹿になんないんで」


 デスクで優雅に砂糖入りコーヒーを啜っていた所長は、小さく肩をすくめる。いつも通りの、不敵な笑みを浮かべていた。

 あたしはソファに座り、カバンの中から文庫本を取り出す。


「……昨日の事件を、終わらせに行ってると思ってたんですけど」

「これから行くとこ。ここで時間を潰すなら、帰るとき戸締り頼むね」

「りょうかいです」


 所長はぐいっとコーヒーを煽り、自分で流しまで持っていった。そして手早く身支度を済ませ、いつも通りの暑苦しそうなスーツを羽織る。

 あたしはソファに深く腰掛けて、文庫本を広げる。挟んであった栞紐は、全体の三分の二ほど進んだ位置にある。どうやら講義が始まるまでに読み終えることができそうだ。


「それじゃ、行ってくるね」


 そう言って、所長は事務所のドアに手をかける。

 黙って見送ろうとしていたあたしの口から――勝手に言葉が転がり出た。


「亡くなった子を探してた母親は……何を思ってたんでしょうね」


 あまりにも唐突な質問だと自分でも思う。

 案の定、所長はこちらを振り返り、きょとんとした顔であたしのことを見ていた。

 しばらく黙り込んでいた所長だったが……やがて、笑顔を浮かべた。

 それは全てを理解したかのような、優しげな笑み。


「そうだね……。我が子をぎゅっと抱きしめたい、必ず連れて帰りたい……って気持ちで、いっぱいだったんじゃないかな」


 あたしが思わず目を見張ると、所長はドアの隙間越しにウインクをする。


「ま、わたしは母親になったことがないからわからないけどね」


 事務所のドアがぱたりと閉じる。

 冷房がごうごうと音を立てる部屋の中で……あたしは再度、文庫本へと目を向けた。


 結局その日、文庫本は一ページも読み進まなかった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 終わり方が奇麗でした。普通の怪異とは違うと思いつつ読みましたが、なるほど母親のほうで納得です。
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