伍話
昼休みのチャイムが鳴る。普段ならこのまま惰眠をむさぼるところだが、日向雅は机上を片付けると教室を出る。
「あ、日向雅!」
出たところで綾と遭遇する。
「ああ、綾か」
「聞いたよ、大丈夫だったの?」
「ん?……ああ」
どうやら、土曜日の事らしい。
当然だが、ニイナを綾に預ける際に雛子が経緯を説明したのだろう。
「俺は別に何もないよ……それよりすまんな、しばらくニイナが世話になる」
日向雅が頭を下げると、綾は慌てて首を振る。
「ううん、丁度両親とも家に居ない時期だし……でも、何かできることがあったら言ってね?」
「預かってくれるだけで十分だよ。それに、そんな長居はさせないから」
ニイナと綾が一緒にいると知れれば、綾にも危険が及ぶ可能性がある。
日向雅は一時でも早くニイナの素性を突き止め、対処するつもりだ。
そのためには、「帝」についての調査が当面の課題になる。
「悪い、じゃあ俺もう行くわ」
「え?あ、うんごめんね引き留めて」
綾と別れて図書室へと向かう。
はやる気持ちを抑えきれず、自然と足が速くなる。
水曜日。三日が経った。
「……だめだ。ここにも載ってない」
図書室にある旧人類史の資料はあらかた調べ尽くしてしまった。
旧人類史にまつわる本は二十一世紀に書かれたものが多いが、そこに「帝」の文字は驚くほど出てこない。
「五十年に一度ほどの記述しかない……本当に実在していたのか?」
「何がだ?」
独り言に返事が返ってきて思わず「うおう」と声が出る。
「清武……お前いつの間に」
気付けば、向かいの席に清武が座っていた。
「今来たところだけど……なにやってんの?」
「ん……まあ、ちょっと調べ物だ」
「ふうん……最近教室に居ねえと思ったら、図書室でインテリぶってたわけか」
「人聞き悪いな」
清武は、日向雅が机の上に積んだ本を手に取ってみる。
「旧人類史……?」
怪訝な表情で中身を開く。
「またニッチなジャンルを読んでんな……」
「……まあな」
高校では触る程度にしか学習しない旧人類史を調べているのだ、清武の反応は妥当である。
「図書室じゃ資料も少ないし……欲しい情報は見つからなかったわ」
「ふうん」
清武は適当に相槌を打って本をパラパラとめくっていたが、「あ」と言って手を止める。
「それならコージ君に聞いてみれば?」
「……コージ君?」
誰だそれは。
日向雅の反応に清武はため息を吐く。
「相変わらず世間に疎いなお前……社会科の山田だよ」
日向雅の脳裏に気怠そうな中年教師の顔が浮かぶ。
「……なんでコージ君?」
「名前が広次じゃん?だからコージ君。女子はみんなそう呼んでるぜ?」
「さすが……女子が絡むと博識だな」
「まあな。あの先生、妙に女子人気高いんだよな……なんでだろ」
話が脱線してきたので日向雅はひとつ咳払いをする。
「で、なんでそのコージ君に聞くんだ?」
「あの人、大学の専攻は旧人類史だったらしいぜ」
日向雅はふと普段の授業風景を思い出す。
「……ああ、だから現代史の授業あんなに怠そうなのか」
「ま、おかげで楽だけどな」
日向雅は手元の本を閉じる。
「ともかく、聞きに行ってみるわ」
「おう、コージ君普段は社会科準備室にいると思うから」
「ん、サンキュ。怠いからって断られないか心配だけどな」
「大丈夫だろ、あのオッサン旧人類史の話になるとノリノリだし」
日向雅は出した史料を全て棚に直すと、清武と別れ社会科準備室へと向かった。
社会科準備室は教室のあるA棟からは一番遠い、C棟の三階にある。
このC棟は主に専門教室が多くあり、教師が授業の準備で寄る以外では理科部などの部活でしか使用されないエリアだ。
特に昼休みのこの時間は、用がある人間などいるはずもなく休日のように静まり返っている。
日向雅は少し息を切らしながら三階にたどり着くと、もはや何のためにあるのか分からない社会科教室を通り抜け、準備室の扉を叩く。
「コージ先生ー」
「誰がコージ先生か」
「あやっべ」
口が滑った。
とりあえず変なあだ名を教えた清武を呪いつつ中に入ると、いかにも怠そうな表情をした、我らが社会科教師山田広次が椅子で半分振り返ってこちらを見ていた。
「って、芦原じゃねえか。珍しいな」
「ちょっと聞きたいことがあって」
日向雅が後ろ手で扉を閉めると、山田は椅子を回して体ごとこちらを向く。
「なんだあ?俺に教えられるのはせいぜい四十八手くらいだぞ」
「おい教育者」
山田は暫く日向雅の顔を眺めると頭を掻いた。
「……なんだまじめな質問か?毎日退屈そうに授業受けてるお前が?」
「……否定はしないけど、残念ながら授業範囲の質問じゃないんだよ」
山田は面倒そうに後頭部を掻き続ける。
「なんだよ、じゃあ何が聞きてえ」
「帝について」
ピタリと手が止まり、日向雅を見上げてくる。
「……高校生が持ち出す単語じゃねえな。そんなマニアックな言葉、何処で聞いた」
「ん……」
質問に対し日向雅は言い淀んでしまう。
その様子を怪訝そうな顔で山田は見つめてくる。
日向雅は表情を変えずに立っていたが、やがて山田がため息を吐いた。
「なんか、訳アリだな。そうだな……放課後またここに来い、特別授業してやる」
その日の放課後、日向雅が準備室に入るとそこには大量の資料と移動式の黒板が用意されていた。
「おう芦原ぁ、そこ座れ」
「……なんだこの空間」
「しょうがねえだろ、指導要領にねえもんは教材が紙の本しかねえんだ。旧方式だからしっかり聞いとけよ」
ちなみに旧方式というのはいわゆる座学の授業だ。あらかじめインプットできないためしっかりと授業を聞きメモを取る必要がある。
日向雅は用意されていた椅子に腰かけた。
「……よし、じゃあ芦原、まず聞くがお前『帝』についてはどこまで知ってる」
「全然知らねえよ。古語辞典引いて出てくる程度しか」
「じゃあまずはそこからだな」
山田は一冊の本を手にした。
「芦原ぁ、日本で一番偉い奴は誰か知ってるか」
「そりゃあ、総理大臣だろ?」
「まあ、及第点だな。政治の頂点、国の首長と言われるのは内閣総理大臣であってる。それはこの日本国憲法にも定められている通りだ」
山田は持っていた本を掲げると、反対の手で同じ本をもう一冊掲げた。
「こっちは、一九四六年に初めて制定された日本国憲法だ。内閣総理大臣が国の首長になったのはこの時だ」
マグネットを使い二冊を黒板に張り付けると、懐からもう一冊何かを取り出した。
「そしてこっちはそれより前、一八八九年に制定された憲法だ。これより前に憲法は存在しないわけだが、この旧憲法が使われなくなるまでの約二千年の間、日本のトップに居た人物が『帝』だ」
「二千年も?」
「まあ、正確な年数は分かってないがな。だが日本という国が出来て以降ずっと政治の中心にいた人物なのは間違いない」
山田は指し棒を取り出すと、黒板に張り付けた本を指す。
「さて、『帝』は一九四六年に政治の表舞台から姿を消したわけだが、この後も国の保護の下で存続していく」
日向雅は眉間に皺を寄せる。
「……なんでだ?政治しない人間を国が守るのか?」
「まあ、理解は出来ねえだろうな。旧人類のやることは感情優先が多い。俺たちの感性じゃ理解不能だ……それもまた面白いところなんだが」
山田がひとつ咳払いする。
「で、だ。細々と続いた帝一族だったが、旧人類の絶滅宣言が出る二〇年前に滅亡した」
「ふむ……」
山田は机に手をつく。
「どうだ、疑問は解けそうか?」
「……いや、まだ全然」
「そうか……じゃあ、もっと遡って教えてやるか」
山田の授業は下校時間ギリギリまで続いた。
今日一日で日向雅が得たのは、帝一族と旧人類の繁栄と滅亡についての知識だけだった。
ニイナに繋がりそうな情報は引き出せず仕舞いだ。
日向雅の表情を見て、山田は明日も引き続き教えると言い残し職員室へと戻っていった。
下校中、日向雅は考える。
歴史通りなら、帝一族は日向雅が生まれる遥か昔に滅んでいる。
現時点の知識で考えられる可能性は、一族が密かに生き延びていた可能性だ。
「……いや」
日向雅は首を振る。
一族は国に保護されていたと言った。
それならば、国から隠れて生き延びるのは難しいはずだし、もし国が一族の存続を隠していたとしても、ニイナを匿った地点で国からのアプローチがあるはずだ。
少なくとも一週間以上経って、これだけ目立つ動きをしておきながら何もないという事は国が関与しているとは考えにくい。
それに、気になるのはあの追手だ。とても公務員という風貌ではなかった。国の保護下からニイナが逃げ出す理由もわからない。
日向雅は頭を掻き毟る。
とにかく、また明日だ。
それから日向雅は毎日放課後に準備室へ向かい、山田の講義を受けた。
帝一族の繁栄と滅亡、山田の知識を全て費やして語られた。
そして一週間が過ぎた時、いつものように準備室に向かうと山田は頭を抱えていた。
「コージ先生どうした」
「芦原ぁ……もう教えることねえぞ」
上げられた山田の顔には明らかな疲れが見て取れた。
そのまま資料に目を遣ると、ガシガシと頭を掻き毟る。
「史実は昨日までに言い尽くしたぞ、あとは神話部分になるなあ」
「神話部分?」
日向雅は慣れた手つきで椅子に腰かけながら疑問を口にする。
「神話ってのは作り話の一種でな、化学が未発達だった時代に旧人類が自身のルーツを求めて作った大昔話だ。神ってのは人間とか世界とかを想像した何かしらのことだな」
「……その神話ってのにも帝が出てくんのか?」
日向雅の質問に山田は「んー」と唸る。
「厳密には帝の先祖の話だからな。要するに帝は神の子孫なんだよ」
日向雅は眉を顰める。
聞き慣れない単語だらけで頭がついていかない。
「神ってのは旧人類が最も尊敬し、最も恐れる存在だ。それを利用して国を治めるために、帝が神の子であると神話で周知した」
「つまり、物語上での帝は、その神とかと直接の血縁関係があるわけか」
「そうだ。……作り話だし、お前の役に立つかはわからんが、神話も聞くか?」
日向雅は少し考えた。
今日までに手掛かりになりそうな情報はない。
少しでも可能性があるのだとしたら、聞いて損はないだろう。
何より、迷っている時間はない。
「頼む」
「よし、じゃあ準備すっから少し待ってろ」
「……よし、じゃあ帝に関係するところだけ掻い摘んで説明するからな」
十分後、大量の資料を手に山田が戻ってきて、チョークを手にした。
「じゃあまずは国の起こりからだが、男女一組の神が日本列島をつくった。終わり。」
「ちょ」
完全に聞く姿勢を取っていた日向雅の張っていた肘が折れる。
「いいんだよここらはそんなに大事じゃねえんだから。大事なのはこのカップルだ」
山田はチョークで黒板に家系図のようなものを書き始めた。
「このカップルの間に子供ができる。そのうちの一人が天照大御神と呼ばれる神だ」
「神の子も神なのな」
「まあ、この時代はまだな。この天照大御神は太陽を司る神だ。太陽の存在が大きいのは現代社会でも言うまでもないな?つまりはそれほど偉大な存在だったわけだ」
山田はそのまま、天照大御神を示す丸印から下に線を伸ばす。
「このアマテラスは皇祖神とも呼ばれる。要するにここが帝一族の出発点だ。……そして」
線の下に丸印を書く。
「この子孫の……えーっと、アマツヒコヒコホノニニギノミコトが、あれ名前あってるっけ」
「なっげえ名前だな」
山田はひとつため息を吐き、続けた。
「めんどくせえ、通称ニニギノミコトが初めて地上に降り立って国を治めたわけだ」
「地上に降り立った?それまでは何処にいたんだ?」
山田は人差し指を上に向ける。
「空の上に高天原と呼ばれる神の住む場所があんだよ。ニニギはそこから九州にある高い山に下りてきたんだ。この話を天孫降臨という」
「空から……降りてきた?」
日向雅の中で何かが引っ掛かる。
「……じゃあ、そのニニギとかいう神が最初の帝なのか?」
「いや、最初に帝を名乗ったのはその曾孫だな。でも、統治を始めたのはニニギだぞ」
日向雅は考える。
ふと、窓から外の景色を見た。
グラウンドでは運動部が練習に励んでいる。
遠くへ目を遣ると、鬱蒼とした森、山。
「えーっと、そのニニギノミコトが日本を統一して……」
山田が抗議を続ける中、日向雅は引っ掛かっていたものの正体に気づく。
「……なあ、先生」
「ん?」
「もし神が居たとしたら、帝が居なくなった今、どうするかな」
「そうだなぁ……」
山田は少し考えてから、答える。
「神にとって現代はよろしくはないだろうな。自分の力が及ばないわけだし。ひょっとしたら、もう一度アマテラス直系の子孫が降臨するかもしれねぇな」
開いていた窓から風が吹きこむ。
日向雅は一息置くと、もう一つ質問する。
「神話上では、帝に敵はいるのか?」
「んー……居ないこともねぇな。もともと地上では別の神が各地を支配してたわけだから……例えば出雲の大国主命は、王と言われるほど広範囲を統治してたがニニギとの争いに敗れ国を譲った。恨みは買ってるだろうな」
日向雅は、窓の外に目を遣ったまましばし黙り込んだ。
山田も何かを話すでもなく、ただ頭を掻く。
「……先生」
暫くの後、日向雅は口を開いた。
「ん?」
「ちょっと急用ができた。また明日頼む」
「……おーう、なんか知らんが頑張れ若者」
山田は資料を持ったままの手を振る。
日向雅は早足に準備室を去ると、そのまま靴を履き替え駅へと向かった。
「……もしニイナが帝だとした場合」
神話の記述を現実に当てはめるのはナンセンスだが、だとすればあの日ニイナが空から降ってきた理由は説明がつく。
「天孫降臨……」
正直、あの日の事は疑問が多い。一番は、あのクレーターだ。
最初から降ってくる予定だったのであれば、神なるものが何らかの落下対策を講じていてもおかしくはない。
あの現象が説明できない以上、神が未知のテクノロジーで行った現象ととらえるのが妥当だ。
だとすれば、やはりあの大男もニイナの関係者だろう。
帝が絶対的権力者である以上、それを知る現人類の中にも利用しようとするものが出てきてもおかしくない。
「……ニイナを早く安全な場所へ移さないと」
日向雅はとにかく、まずはこれを雛子に相談すべきだと考えた。
電車に乗り、病院の方へと向かう。
一駅の間隔が何時よりも長く感じた。
ドアが開くなりダッシュで改札を抜ける。
駅前の大通りを抜けて角を曲がったその時だった。
「っ!」
日向雅は慌てて足を止め物陰に隠れる。
息を整えて、角の先を覗いた。
「……やっぱり、あの男だ」
一度見たら忘れないであろうインパクトのある巨体が目に入る。
山中で日向雅に声を掛けてきた大男だ。
ここから病院までもう距離がない。
確実にニイナを狙いに来たのだろうか。
男は一人ではなく、他に二つほど人影があった。
何かを相談しているようだ。
日向雅はあたりを見回す。
もう少し近づいて話の内容を聞きたい。
日向雅の隠れている角の先に、電柱がある。横にはごみ置き場もありかなりお誂え向きだ。
忍び足で一歩ずつ、電柱の陰に隠れて進む。
幸い向こうも、男の大きな体が陰になりこちらには気づきにくいだろう。
何とかごみ置き場の陰に入り、話が聞こえる距離に入る。
「……この辺に来たことは確かなのだがな」
「のんびりしすぎたんじゃなーい?たかが足跡辿るのに時間かけすぎなんだよーう」
「ぬ……否定はできないが、焦って間違えるよりはマシだろう」
「この辺で、少年、探せば、いい」
少年?今少年と言ったか。
少年とは、日向雅の事だろうか。
日向雅の足跡を辿ってここまで来たというのだろうか。
背中に変な汗が出る。
「まーそうだけどさー、ウチとしてはさっさと見つけて帰りたいとも思うわけでー」
「ウズメ」
「おっとしっけー……で、どうするの大国主サマ?」
どくり、と大きく鼓動が鳴る。
機械組織の油圧が上昇し、脈動が早まる。
オオクニヌシ、と聞こえた。
日向雅の脳裏にこの名前が響き渡る。
「うむ、そうだな……」
返事をしたのはあの大男。
日向雅の前に立っていたあの男が、大国主。
「大国主命は、王と言われるほど広範囲を統治してたがニニギとの争いに敗れ国を譲った。恨みは買ってるだろうな」
頭の中に山田の声が響く。
神には寿命がないという。
もし眼前にいるこの男が、神話に登場する大国主だとしたら。
もしニイナが帝で、大国主が殺しに来たのだとしたら。
もしあの時落下した原因が、記憶喪失の原因が、この男にあるのだとしたら。
日向雅は音をたてないように隠れていた角まで後退すると、そのまま走り出す。
ニイナがいるのは綾の家だ。
病院とは目と鼻の先の位置にある。
ニイナのすぐそばまで追手が来ている。
すぐに、彼女を連れて逃げなければ。
「ん?」
「どったの、大国主サマ?」
「……気のせいか?」
日向雅は走りながら綾の番号にコールする。
『もしもし、日向雅?』
「綾か!?今どこだ?」
『部活の休憩中だけど……どうしたのそんな慌てて?』
「ニイナは家だな!?」
『え?うん、そうだと思うけど』
「ちょっと連れていくぞ!あと俺二、三日学校行けないと思うから!」
『え?……え、ちょ、ひゅ』
通話を切って、周りに気を配りながら角を曲がっていく。
大国主一行と鉢合わせ無いようにルートを割り出す。
かなり大回りにはなったが、ぎりぎり日向雅の体力の範囲内のはずだ。
「はぁ……はぁ……」
案の定、目的地に着くころには日向雅は肩で息をしていた。
和泉家の門前ではなく、その裏手の家の前で建物を見上げる。
「……まさか、またここに来るとはな」
表札には「芦原」の文字。
日向雅の実家である。
芦原家と和泉家は塀を挟んで裏同士であり、裏の塀を超えれば和泉家の敷地に入れる。
日向雅が和泉家へ入るところを見られるリスクを考えての行動であるが、正直あまり気の進む案ではなかった。
日向雅は、この家を出て行った身だ。
この時間、両親はいないことが分かっていても入ることには大きな抵抗があった。
日向雅は息を整え大きく深呼吸すると、覚悟を決める。
息を止めて裏庭へと抜けた。
そのまま塀を飛び越え、和泉家の勝手口に手を掛ける。
「……開いてるな、入るぞ」
日向雅は台所を通過しリビングへと入る。
「ニイナー!居るかー!?」
「……ひゅーが?」
返答があった方を向くと、ソファの陰からそろりとニイナが顔を出した。
「……なにやってんだそんなところで」
「いきなり大きな音がしたから、怖い人かと……」
ああ、もっともだ。
「ひゅーが、慌ててる。どうしたの?」
「ん……」
どう説明したものかと、顔に手を当てる。
が、そんなに余裕がないと判断した。
「訳は後だ。とにかく一緒に来てくれ」
「……うん」
ニイナは疑わし気な顔一つせず、日向雅の手を取った。
「ひゅーがと、一緒がいい」
眩しいほどの微笑みを向ける少女に対し、思わず目を逸らす。
対照的に、握られた手は固く強くなっていた。
「……行くぞ」
来た道を戻り、芦原家の門を出る。
「……」
二度と、ここを潜ることはない。
日向雅は自身が生まれた家を一瞥し、そう決めた。
二年前と同じように。
「ひゅーが、何処に行くの?アパート?」
歩いていると、おもむろにニイナが疑問を口にする。
「いや、あそこには戻れない。……そうだな、本当に悪いが」
「どこか遠くにでも行くつもりか?」
後ろから声。
振り返る。
心臓がかなり早くなる。
しまった、回り込まれた。
「少年、だいぶ探したがその甲斐はあったようだ」
日向雅の眼前に、大国主が現れる。
先程話していた二人も一緒だ。
日向雅は咄嗟に、ニイナを後ろに下げる。
「ひゅーが……?」
状況が読めないニイナは困惑した表情で日向雅を見つめている。
「大国主……」
日向雅が名を口にしたことで、男の表情が変わる。
「俺の名を知っているのか……まあいい、その子を連れて何処へ行く」
大国主が口を開く。
「……言ったら、どうする」
「そうだな、我々も同行しよう。でなければ……」
日向雅は息を呑む。
「……その子をこちらに引き渡してもらおうか」
大国主の目に敵意が浮かぶ。
これで確定した。
「断ると言ったら?」
「少年には大人しくなってもらう」
やはり、そうだろう。
日向雅を殺し、そのあとニイナを。
「……絶対に渡すわけにはいかない」
「そうか……残念だ」
大国主が大きく溜息をつく。
次の瞬間、日向雅の視界から消えた。
「っ!?」
「……!!」
日向雅の視界がぶれる。
気が付くと、大国主は日向雅の間合いに入り正拳を放っていた。
しかし、日向雅には当たっていない。
狙いを外したか?いや、わざと外したのか。
なんにせよ、数メートル離れた位置から一瞬で突きの間合いまで迫ってきた事実はぞっとしない。
二度目はないだろう。
「……君は」
大国主が何か言いかけたが、日向雅は構うことなくニイナの手を掴み走り出した。
とにかく距離を取らなければならない。
幸い、この街の地図は詳細にインプットされている。
うまく撒けるよう立ち回らなければ。
去っていく日向雅の背中を、大国主は突きの姿勢のまま眺めていた。
「……大国主様?」
その様子を見て、天狗の面をつけた男が声を掛ける。
大国主は、呆けた表情のまま声掛けには応じず、呟く。
「……あの少年、もしかすると」
「そうかもしれないねー」
後ろで様子を眺めていた女が陽気に返答する。
「だとすると、厄介だな」
「そだねー、急いで追いかけて確実に仕留めないと」
大国主は既に日向雅が走っていった方を向く。
「……急ごう、天子様に危険が及ぶ前に」
「あーい、行きましょー」