壱話
「おーい、日向雅」
肩を揺さぶられ、目を覚ます。
「お、やっと起きたかネボスケ。とっくに昼休み始まってるぞ」
そう言って笑うのはクラスメイトの今井清武。中学から遠い高校に入学した日向雅にとっては数少ない友人だ。
「ん、サンキュ…ってもう半分過ぎてんじゃねえか」
時計は既に十二時半を回っている。よくよく周りを見たらすでに食事を摂っているような生徒はいない。
「わりわり、余りにもおもし気持ち良さそうに寝てたからよ」
「おう本音漏れてるぞ」
「まあそれは冗談としてだ。ほら」
清武は親指で教室の入り口を指す。
日向雅がそちらを向くと、その人影もそれに気付きこちらに手を振った。
居たのは日向雅の幼馴染、和泉綾だった。
「お前に用だってよ」
用事、と聞いて少し嫌な予感がしたがとりあえず立ち上がる。
「そうか、悪いな」
「ほんとだよこの野郎」
清武は何処か恨めしそうにそう返した。
「……なんだよ」
「いやあ何でもないぜ?ただお前気を付けとかないと後ろから刺されても知らねえからな」
「何を阿呆なことを」
日向雅は一蹴し廊下へ向かう。
その間にかなりの殺意を浴びた気がするがきっと気のせいだ。
廊下に出るとすぐに、綾が声を掛けてきた。
「あ、日向雅おはよ」
出会い頭になんだ全く。
「あいおはよう。でどうした」
「うん。今日の放課後にヒナ姉が来てほしいって」
日向雅の表情が一瞬にして変わる。思わず「げ」と声が出た。
ヒナ姉と言うのは、歳の三つ離れた二人の幼馴染だ。いわゆる近所のお姉さん、なのだが正直なところそうは到底見えない。いろんな意味で。
「また何か手伝わさせる気だなヒナ姉…」
日向雅の様子に綾は苦笑する。
「まあまあ、今日は私も一緒だから」
「え?お前部活は?」
帰宅部の日向雅と違い、綾は水泳部に所属している。それもエース選手だ。これまでに数々の記録を作っている。
「今日と明日は休みだよ。プールの点検日」
「……たまの休みに、ご苦労だな」
次第に自分の顔がげっそりしていくのが分かる。
そんな日向雅の様子とは反対に、綾は何処か嬉しそうに見えた。
「三人で集まれる機会なんて久しぶりだもんね」
「あーまあ……そうだなあ」
昔は毎日のように集まって遊んでいた日向雅達だが、二年前に日向雅が一人暮らしを始めて以来、三人で集まることは殆どなくなっていた。
日向雅はひとつため息を吐くと、承諾する。
「わかったよ。あまり気は乗らんが行くだけ行ってやる」
「うん。じゃあ、放課後下で待ってるね」
そう言うと綾はさっさと自分の教室へ戻っていった。
日向雅も自席に戻ろうと振り返る。
「ほう……」
「うわびっくりした」
背後に清武が忍び寄っていた。
「お前……そんな話教室の前でするなよ」
「へ?なんでだよ」
「わかれよ。傍から見たらデートの約束だぞ」
「んー?」
日向雅は先ほどの会話を振り返る。
「……いや、ないない。どう見ても唯の用事伝達だろ。そもそも俺と綾だぞ?」
清武は大きく溜息をつく。
「日向雅さんよぉ。あんた疎すぎるぜ世間に」
そう言うと日向雅の肩をポンポンと叩いた。
「和泉さんと言えば部活のエースで気配りも上手でおまけに美人。男子人気の的なんだぞ?」
「それは前にも聞いたけどさ」
日向雅の口を清武が制する。
「はいはい、わかってるよ。『タダノオサナナジミー』だろ?ただマジで周りの目には気を付けとけよ」
「へいへい」
日向雅は適当に受け流すと自席に戻る。
清武もそれに続き当然のように正面の席に陣取ると、日向雅の方を向いた。
「そう言えば、日向雅知ってるか?最近話題のマジシャンの件」
「ん?……ああ、あの最近失踪したっていう?」
そうこうしているうちに予鈴が鳴り、日向雅は昼飯を取り損ねた。
放課後、日向雅は特に居残りする予定もないのでさっさと荷物を纏める。
「あーあ、いいよなあお前。俺も幼馴染欲しかったなー」
「ほっとけ。じゃあまた明日な」
適当に清武をあしらい教室を出る。
玄関を出て綾と合流し、見慣れた通学路を進む。
次第に住宅地へと入っていくと、学校周辺ではチラホラ見えた人影も少なくなっていき、十分も経てば日向雅達以外に歩行者はいなくなっていた。
午後四時の住宅地は、非常に静かなものだ。
足音だけが日向雅の耳に響く。
「なんか、一緒にこの辺を歩くのも久しぶりだね」
静寂を破ったのは綾の方だった。
「ん?まあ、そうだな。俺がこっちに来ることも無かったしな」
「……ねえ、日向雅」
綾は日向雅の顔を伺いながら話す。
「まだ……帰れないの?」
「…………」
日向雅は正面の雲を見つめたまま歩く。
「……帰るも何も、もう俺はあの家の人間じゃねえよ」
「そ、っか……」
「ほら、もう着くんだから無駄話は後でな」
日向雅は話を遮ると、ペースを上げる。
すると直ぐに看板が目に入った。
地域に根差した個人病院『飫肥内科外科』が目的地だ。
日向雅と綾は慣れた動きで門を潜ると、診察口とは別の入り口から中に入る。
まだ診療時間中のため、中の看護師達に挨拶する。
「あれ、日向雅君に綾ちゃん久しぶりだねー」
その中の一人、前見た時より少しふくよかになった印象の女性が寄ってきた。
師長の木原さんだ。日向雅達が小学生の頃からこの病院で働いている大のベテランである。
「こんにちは木原さん。ヒナ姉いますか?」
「ヒナちゃんなら自分の部屋にいるよ」
木原さんが「どうぞどうぞ」と言わんばかりに廊下の方へ手を流す。
二人は会釈すると廊下を通り、昔から変わらないその場所の扉をたたく。
「……」
反応がない。
日向雅は綾と顔を見合わせる。
「多分、あれだよな」
綾も苦笑いで頷く。
「あれだね、多分」
「はいるぞー」
日向雅はドアを開け放つ。
「おー、二人とも来たか。まあ入りたまえ」
部屋の中央に鎮座した紙の山から生えた手が日向雅達を手招きする。
その様子に日向雅は溜息をついた。
「……変わんねえなあ、ヒナ姉」
「その台詞はポジティブに受け取ることにするが、ひとまず出してくれないか」
綾が紙束を掻き分け、日向雅が腕を掴んで引っこ抜く。
その中から出てきた白衣を着た金髪の少女、こいつが二人を呼びつけた張本人、飫肥雛子だ。
「ったく、チビなんだから埋もれないように片付けろって何回言わせるんだよ」
「私には散らかしているつもりはないんだがな……あとチビとはなんだ、二十二歳のレディに向かって失礼だな」
「はいはいお姉様、っと」
日向雅は引っこ抜いた姿勢のまま抱え上げると近くに転がっていた椅子の上に放る。
放られた本人は一瞬目を丸くするが、すぐに眉を顰める。
「……これがお姉様に対する態度か?」
「いいから片付けろよ」
見た目はアレだが、雛子は基本スペックが高い所謂「天才」と言うやつで、近年制定された飛び級制度を使って、二十一歳の時に医大で博士号を取得している。
現在は仕事で海外を飛び回る父親に代わりこの病院の院長代理を務めている。まあ、肩書は院長だが、まだ研究し足りないらしく、普段の業務は職員に任せて自分は自室に籠って研究漬けの毎日だ。
その影響で、今のように書類の整理を疎かにし決壊して生き埋め、なんてことは日常茶飯事だ。看護師がたまに様子を見に来てくれなければ一日中埋まっていることだろう。
日向雅は綾と床に散らばった資料やらを大方片付けると、近くの椅子へ適当に座った。
「んで、今日はどうしたんだよ」
日向雅が問うと、雛子はボサボサの長髪を掻きながら答えた。
「ああ、ちょっとお遣いを頼まれてくれないか。君達明日は休みだろう?」
日向雅はカレンダーを思い浮かべる。
「あ、確かに。明日は祝日だっけな」
「で、だ。今度実験で使う道具が壊れてな。調達したいんだが、この辺では無くてな、高校の近くまで行かなければ手に入らないんだ」
日向雅はすかさず突っ込む。
「いや通販使えよ」
「あれは時間が掛かるだろう?週末の実験には間に合わせたい」
「でもその距離なら自分で買いに行けばいいじゃんか」
「ヒュウガ……私に電車に乗れと?」
雛子が少し口角を上げて言う。
いや乗れよ。確かに想像はつくけど。
雛子は昔からインドアを極めており、人酔いも激しい。
電車に一人で乗せるのが危険なのは間違いないだろう。
日向雅が反論に困っていると、雛子は話を再開した。
「君たちは学生定期を持っているだろう?」
「あー……」と綾が苦笑い。
確かにそっちの方が経済的ではある。
「もちろんタダでとは言わんさ。小遣いも出すから、そのまま二人で遊びに行けばいい」
「うぇ?」
変な声が出たのは綾だった。
何か言いたげに口をパクパクさせている。
「綾、君も部活ばかりで気が滅入るだろうしな。ヒュウガを一日好きにするがいいさ」
「言い方どうにかならんの?いやまあ、俺は暇だし構わないけど」
「だそうだぞ綾。行って来たまえ」
「ううぅ……はい」
綾はそのまま俯いてしまった。普段の姿勢の良さが嘘みたいに猫背だ。
「じゃあ、先方には私から伝えておくから、二人ともよろしく頼む」
「はいよ」
その後、うなだれたままの綾が復活するまで三人で雑談をしてから帰路に就いた。