96話 人形メイガン4
【96】人形メイガン4
眉尻を下げて頬を緩めたテオは、くん、とエイダンに一歩近づいた。幽霊話で脅かして以降、あまり進んで近寄ってこなかったテオが自ら距離を詰めたことにエイダンは驚く。懐かない家猫にすり寄られた気分だ。そんなエイダンの思いに気付かず、焦げ茶のくせ毛を揺らしたテオはエイダンの腕の中を覗き込んで口を開いた。
「その子、なんていうの」
「うん?」
「名前、なんていうの」
エイダンの腕に抱かれた人形を見つめたテオが尋ねる。エイダンはテオの問いかけが指す“その子”を見つめ、やがて口を開いた。エイダンにとっては、少なくともこの場でのテオが人形を名のあるものだと尊重した、それだけで答えるに値する思いがあった。
「メイガンだ。一人娘で、少しばかりやんちゃなのが悩みだった」
「元気な子なんだな。ねえ、どんな色が好きなの?」
「明るい青や、赤が好きだったよ。ああ、いや、黄色も好いていたかな。おしゃれが好きな子でね。よく新しい服が欲しいとねだられたよ」
懐かしむように腕の中を見下ろすエイダンが言う。その表情を見上げたテオは、一つ二つと頬を掻いて、迷ったように口を開いた。
「あのさ、嫌じゃなければなんだけど」
「なんだい」
「俺で良ければ、ええと、あの、手当て、しようか。少し、怪我を、してるみたいだから」
エイダンの腕に抱かれた人形を見下ろしてテオが言う。その言葉と共に、エイダンへと視線を合わせられない不器用さと、たどたどしく選ばれた言葉が、テオの気遣いと臆病さを覗かせた。
「俺、裁縫は得意なんだ。兄弟子もさ、俺以上にやんちゃなのに華美た格好するのが好きだったから、よく動き過ぎたり引っ掛けたりで服を破いてて。でも針仕事とかできる人じゃなかったから、代わりに俺が直してたんだ。だから、その」
「いいのかい」
「うん。いいよ。あんたが嫌じゃなければ。ああ、でも、今は手元に道具がないから、明日以降になってしまうけれど」
「構わないとも。ありがとう。本当に、なんと言ったらいいか」
そう言ったエイダンは小さく首を横に振って俯いた。エイダンの澄んだ青い目が抱きかかえた人形を映す。髪も服も擦り切れて汚れ、目玉すら取れかけた姿がそこにはあった。
「これを大切にしていなければ、この子にも分かってもらえないんじゃないかと、本当は少しばかり不安だったんだ。僕の中にあるこの子の手掛かりは、これしかないのに。正直に言うと、僕は手先が器用じゃなくてね。へたに手を出しても、取り返しがつかなくなってしまいそうで自分では直してあげられなかった。でも、人にも頼めなくて。君なら、ああ、とても助かるよ」
そう言って顔を上げたエイダンの言葉にテオは首を傾げる。
いくら最前線の街とはいえ、服飾関係の職人が全くいないわけではない。兄弟子ニールが壊滅的に手仕事に向かないだけで、ある程度、自前で装備の手入れが必要になる冒険者でもそうだ。人形の手直しは別の技術が必要だったりで大変だろうが、しかしギルドに登録している人間の中に、そういったことが出来る人間が全くいないとも思えない。頭数だけでいうのなら、組合というだけあって、ギルドに出入りする人間はそれなりにいるのだ。それなのに、頼む相手もいないというのは不思議だった。
「誰にも頼めなかったの?」
「ああ。この子のことを可哀想がられるのは構わないがね。どうしても、そこには気味の悪さも付きまとう。君はそうは思わなかったようだけど」
「そんな。気味悪いだなんて、どうして」
エイダンの言葉にテオはぐんぐんと縦に首を振る。驚きに見開かれたテオの灰色の目を見つめ返したエイダンは、やはり小さく笑って口を開いた。そこから吐き出されたのは、どこか諦観や自責を含んでいるような声色だ。
「この人形は人の手が作ったものだ。人形とはもとよりそういうものだからね。そんな神より賜った体でないものを、僕は同等のように扱っている。言ってしまえば僕はね、他人よりもこの人形を優先する。主の愛を受けて作られた肉の体をないがしろにしておいて、人の手が作ったただの布と綿の塊を重んじるんだよ。そしてそれは、彼らにとって、神様への反抗に思えるらしい。嫌悪感は、変えられないんだ。彼らにとって僕のこれは軽度であれこそすれ、背信行為の一種に見えるんだろう」
「でも、あんたって、その、前は聖騎士だったんだろ。なら……」
「ああ。神を軽んじてなどない。でもね、僕は裏切った」
テオの言葉を遮るようにエイダンが言う。途端にそれまであった穏やかさを隠したエイダンの雰囲気に、テオは押し黙った。それを合図として、エイダンは話を続ける。
「僕の住んでいた村はここより南にあってね。かつての仲間たちは、僕の妻と娘が住む村の防衛を諦めた。逼迫していたんだ。種による侵攻が苛烈になり始めた時期だったから。けれど、僕はそれを容認できなかった。大切な人を守るために聖騎士になったというのに、その指示は実質的にそれを見捨てて他に尽くせと言う。であるならば、僕はそれに従事することに意味はないと思ったんだ。仲間たちの反対を押し切って、僕は向かうべき戦場に背を向けた。急いで妻子のもとに駆け付けても、もう、手遅れだったけれどね」
語られたエイダンの身の上話にテオは黙したまま相槌を打つ。促されるようなそれに背中を押されるように、エイダンは話を続けた。
「だから、”元”聖騎士なんだ。その信用はね、上ではなく、下に伸びるものなんだよ。本来、聖の立場とは一度就けば離れるものでは無い。それこそ、死んでもね。けれど僕は自分の問題と他者の問題を切り分けて考えず、同じ天秤に乗せて比較し、その結果として他者をないがしろにできる。その証左が過去の僕の決断であり、ソロの冒険者としての今の在り方だ」
そう言葉を切って、エイダンは片手で顔を覆った。大きな手のひらにすっぽりと隠された顔色は、テオには窺い知れなかったが、しかし、本来ならば気楽に話す内容ではないことを話させてしまったことは理解した。一度だけエイダンから視線を逸らしたテオは、しかしすぐにその大きな体の上に乗ったエイダンの顔を見上げた。
「いいんじゃないか。それだって」
「いい?」
「その、こういう言い方がいいのかは分かんないんだけど。人が一人で大事にできるものって、そんなに多くないんだと思う。あんたは家族を一番にするって決めたから、そういうふうにしたんだろ。なら、それがよかったんじゃないか。我慢して仲間のそばにいたって、きっとそれは家族の代わりにはなんないよ。お前らのせいでって心のどっかで思いながらなんて一緒にはいられない。その時、その仲間たちを取ったって、いつかどっかで見捨てるよ。それなら、家族のことを選べたんだっていうのが、あんたにとっては大事だったんじゃないかな。多分、だけど。違ったら、その、ごめんなさい、変なこと、言って……」
尻すぼみになりながらもそう言ったテオは、最後には小さく頭を振って下を向いた。
どうしても思うことがある。教会の孤児院から抜け出したあの日、テオは水をまいた絨毯の上に燭台を倒して放火した。それは自分が逃げ出したかったあの時に、人を殺す目的がなかったからであり、あの協会の地下寝台にいたリリーの体を傷つけたくないためであった。けれど、こんなにもリリーの弔いが困難なものになると知っていれば、あの日の自分は水の代わりに油をまいただろうか。
どちらかしか選べないというほどのことではない。そうであるからこそ今のテオはまだ目的に邁進できている。ただ、実質的に実現不可能になってしまうくらいなら、反対のものを敵と定めて切り捨てることが時として必要であるということも、この年まで生き残った中で理解できるようになっていた。
だからこそ、どちらかを優先するという選択をしたこと自体を責めるのは、きっと、どこかがおかしいのだとテオは考える。そうでなければ、自分のような生産性のない感情に片寄った願いは、それだけで悪いものだと認めなければならなくなる。その願いが正しくないものである可能性を肯定しても、それが悪いものであるということまでも認めたい訳ではないのだ。
「はは、ものは言いようだね」
「それは、うん、そうだな」
「ありがとう。励まそうとしてくれたのは分かるよ」
「……別に、あんたが悪いばっかりみたいなの、なんだか、分からないけど、嫌だった。それだけ」
じりじりと地面の上に視線をなぞらせてテオは言う。その爪先が落ち着きなく足元をつつくので、だんだんとほじくり返された土が小さな丘を作っていた。
「うん。ありがとう。では、君に、この子のことを任せてもいいかな」
「あ、ああ、もちろん。任せてくれ、うんと綺麗にする」
こくこくと頷いたテオが答える。頼られることに喜び、安心する。それは優しいというに足る人の在り方なのかもしれない。ぼんやりとそう考えたエイダンは、微かな横皺を目元に寄せて微笑んだ。




