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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
95/144

95話 人形メイガン3

 

【95】人形メイガン3




 エイダンは先程テオが酒場で起こした事の顛末を知っている訳ではない。目の前の若者も、それをそれと認識したのは今日が初めてだ。

 だから、言ってしまえば、期待はしていなかった。物理的な成果を目指す効率や意義ばかりを重視して、人の心に寄り添わないとテオが言ったところで、軽薄な人間がせめて悪さをしないようにする手間が増えるだけだと思っていた。


 けれど実際、話して聞かせてみると、この若者は割合、利他的な考えもできるようだとエイダンは思う。

 ただ、そこに何らかの欠如があるとすれば、それは想像力の類だろうとも。顔のないものを想像できない。平らな言葉の上から、立体的な風景にまでイメージが発展しない。具体的な場所、人、状況。それらを見知っているものに落とし込んだだけで、熱心な顔をして頷くのだから、他人への関心が欠如している訳ではないはずだと、エイダンは考える。


 情緒を育てろとは、なるほど、どんなものも言いよう次第だ。そうエイダンはホゾキの言葉を思い出した。


 テオに足りていないものを、今日彼に出会ったばかりのエイダンが言ってしまってもいいのなら。

 それは内面的な問題の中だとしても、最も表層的な部分に関することだろう。人とのつながりから情報を取得するインプット部分。内側から湧き出たものを相手に提示するアウトプット部分。そこがどうしても拙いのだ。

 言ってしまえばテオは、感情がないだの、考えがないだの、そういった軽薄な類ではない。そこで何が起きているのかが分からず、自分の思ったことを表す方法をあまり知らないがゆえに、行動が上滑るのだろう。


 エイダンはそこまで考えて、小さく息を吐いた。少々の沈黙を挟んだエイダンは、そんな様子を緊張した面持ちで見上げていたテオへと向き直る。きっとこの青年に話して聞かせるには、具体的な盤面と駒が必要なのだろう。


「いるだけで、いいんだよ。でも、そうだね。出来ることなら、林に入る前に少し待って、あのご婦人と顔を合わせてもらえるかな。きっと、すぐに君の顔も覚えてくれる。君がここに来れば、安心して眠れることも、朝が来たならドアを開けられることも、すぐに分かるようになる」


 自らを見上げるテオに向けてエイダンは答えた。その返答を聞いたテオは、言葉の一つ一つを確認するように、こくこくと頷く。こういう土産細工がどこかで売られていた気がすると、エイダンは心の中で小さく笑った。


「分かった。ありがとう。さっきは、その、ごめんなさい。俺、考えなしだった。次からはもっと、ちゃんと、自分で考える」

「それはいいことだ。けれどね、今のだって、悪いだけのことではないように思うよ。君はきちんと、自分の中の疑問を解決しようとしただろう。取りあえずこの場ではいい顔をして、実際には手を抜くことだってできたろうに。だから、人にその疑問や不満を打ち明けて、助けを借りるのは悪いことじゃないよ。少なくとも、僕はそう思う」

「でも、邪魔にはならない?」

「なりやしないとも。君が黙ったままヘマをしたら、ホゾキは喜び半分と面倒半分で、きっと、おもしろい顔を見せるかもしれないけどね」


 そう言って、エイダンはくふくふと笑った。エイダンの丸太のような腕に抱かれた人形が、大きな体とともに揺れる。取れかけの目玉のボタンが落ちやしないかと、向かい合ったテオの方がはらはらするようであった。

 そんなテオの心配も露知らず、エイダンは目尻に皺を寄せてひと通り笑うと、あらためて自らを見上げるテオへと向き直った。その様子にテオは、思わず居住まいを正す。


「そうだ、ホゾキだ。あれは、君の肩を持ちたいみたいだった」

「そうなの?」

「僕にはそう見えた。まあ、次に見かけたら、声でもかけてみるといいよ。きっと、引きつった笑顔で迎えてくれる」

「なんだかそれ、困らせてるみたいだ」


 エイダンの言葉に、テオはそう言って項垂れた。さっきのあれで困らせていないつもりなのかどうかは置いておいて、取り敢えずところ、テオも先程の出来事に対しての反省の色はあるらしいと、エイダンは目を細める。少なくともホゾキという他人を困らせることは良しとしていないようだ。


「気にする事はないよ。あれはそういう人なんだ。まあ、臆病、なんだろうね」

「臆病?」

「僕はそう思っているよ。君がどう思うかは、あれと付き合ってから自分自身で決めたらいい」


 エイダンの言葉に、テオは考え込むように腕を組んだ。それを眺めたエイダンは、青い目を微かに細めて口を開く。


「まあね。時間はたっぷりとある。考え事をするには困らないのではないかな。頭を冷やすにもいいだろう」

「そう、だね。ちゃんと、ちゃんと、考える」

「思い詰めないようにね。ホゾキは恩を売りたがっている。利用するのも手だよ」

「うん、話すことが決まったら、相談してみる」

「そうだね。人はどうしても、一人で決めると不安になるから。後から決めた何かを思い返す時、誰かの顔を思い出せれば、きっと、少しは踏ん張りもきくのかもしれない」

「うん」


 エイダンの言葉に、テオはこくりと頷いた。しかしどうしてか、一度足元を睨むように下を向いてしまった。後はエイダンから話さなければならないのは巡回の開始と終了時刻くらいだったので、何かを迷ったテオの様子に気が付いたエイダンはしばしその葛藤の終わりを待つことにした。

 エイダンが首を傾げて黙っていると、テオは決心したように顔を上げる。それでも迷ったように二、三度ほど口を開けては閉じてを繰り返し、やがてテオは言葉を吐き出した。


「あ、あの、もうひとつだけ、聞いてもいい?」

「なんだい」

「その……その人形、どうしてそんなに大事そうなの」


 テオのためらいの理由に気が付いたエイダンが小さく息を吐き出す。その様子に、気を悪くさせたかと気まずい顔を隠せず、テオは再度下を向いた。

 触れてはならない話題であると自分で思っていただろうに、どうしてもそれを放っておくことはできなかったのだろうか。エイダンは矛盾したようなテオの態度と言葉を考えるが、その間もだんだんとしなびるように背中を丸めていくテオの様子にいたたまれなくなり、口を開いた。


「娘の形見なんだ。娘が最期に“これを私だと思ってほしい”と、そう言ってこれを残した。だから、これは言ってしまえば“娘役”なんだ。これを娘と思わなければならない。この子が、それを僕に望んだから、それくらいは守らなければ。でも、そうだな。まだ、探しているんだ。見つけなければ」

「なにを?」

「娘を」


その言葉の指す存在が、エイダンの腕に抱かれた人形ではないことは、テオにも分かっていた。だからこそ、“最期”に言葉を残さなければならなくなったエイダンの娘が、その命が、すでにどこにも無いことも、また、変わらずに理解ができてしまった。


「置いてきて、しまったんだ。きっと今もどこかを彷徨っている。死者は、正しく弔わなければ、眠れない。僕には、それが出来なかった。この子の死を、その時に、認めることすら出来なかったんだよ」


 エイダンのその言葉に、テオは唇を噛んだ。エイダンは自らのそれが、他者から見れば哀れだとか美談だとか、ましてや現実を受け入れられない男の現実逃避だとか、そうやって悼まれることが多いことも知っていたし、それをどうこう思うことも特にはなかった。誰がどう思おうが、それがエイダンの目的を邪魔することも手助けすることもないからだ。

 けれども、テオの浮かべた表情は、そのどちらとも違うように思えた。


「見つかると、いいね」


 次に口を開いた時に何を言うかと、エイダンがテオの沈黙を見守っていると、吐き出されたのは嫌に震えた声だった。ぐ、と強く握りしめた指の皮膚が引きつっている。

 それ以上を言わず、テオが灰色の目で見つめ返すものだから、エイダンはただ小さく頷いた。それに向き合わないのは、なぜだか不義理な気がしてしまったのだ。


「ああ。見つけるよ。何をしても探し出す。あの時、不甲斐なくて出来なかったけど、次は、必ず。正しく見送るとも。必ず」

「大事なんだね」

「そうだね。苦しみのない場所へ、綺麗な魂を送るんだ。在るべき道を辿って、安らかに眠れるように。僕は地獄へ落ちるだろうが、あの子までそうある謂れはないはずだ」

「そっか。そう、だよな」


 テオはエイダンの言葉に頷いた。エイダンの言う言葉が、テオの中で近しいようで何の関係もないはずのものへと置き換わる。癖だとは分かっていた。何の関係も無いものも、自分の知る内側で繋ぎ合わせてしまいがちな、そんな癖だ。


 リリーを、その死を、その体を。安らかに弔いたかった。一般的な感性で輝かしいとされる役目を背負ったらしい彼女をただの死人として葬るために扱うのは、やはりこの世の中の一般的な感性において後ろ指を指されることは知っていた。だからテオは、自分に向けられるであろうその非難を受け入れなければならないと考えているし、そうである為に正しい人たちを咎められないとも思っている。けれども、その後ろ指が指す先は、本当に自分だけだろうか。そうした、ぼんやりとした恐怖がテオの腹の底にはあった。


 死んだ人間に罪はない。役目も、本当ならば無いはずだった。死んだ人間は死んだ人間に過ぎず、そこにあるのは生きた人間によって与えられた悲観や憧憬であって、押し付けられるような役割ではない。

 リリーの死体を棺に込めて、その蓋に土をかけられたとして。その名前を刻んだ墓石を、ぴたりと垂直でないにせよ、その上に立てられたとして。季節ごとに咲く花を、やはり季節ごとに違う温度になるだろう墓石に添わせるように携えられたとして。

 その土を、その墓を、その花を。踏みにじられないとは限らないのだ。ないはずの役割を放棄しただとか、個であるはずの体は神聖なものだとか、そんな、彼らの言い分が命すらも奪うのなら、きっとその死の尊厳に意味などは見出してはくれない。


 大事にしたいから、大事であるうちに、大事なままで、終わったものを終わらせたい。そんなテオの思いは、聖骸という資産を盗まれた立場からすれば、なんの言い訳にもならないのだろう。

 だから、テオは怖かった。怖くて仕方がなかったのだと、ぼんやりとではあるが、今日ここで確かに気が付いた。きっと正しい人たちは、正しいという自覚を武器に、やったぶんだけ、もしくはそれ以上をやり返す。その恐怖感こそが、テオがリリーの死体を直接的に奪取してしまえない理由だろう。


 けれど、そうか。

 たとえ自分が地獄に落ちようとも、手にしたいと願うものまでが、そうある謂れなんてないのか。

 自分が地獄に片足を突っ込んだままでも、その手を伸ばしたものまでが、同じようになるとは限らないのか。

 その背を押すか、足を掴むか、きっと、それはそういう違いなのだろう。


 テオはエイダンの腕に抱かれた人形を見る。それは大柄なエイダンに抱えられ続け、汗を吸い、砂にまみれ、汚れとほつれですっかりと酷い有様であったが、地獄の象徴ではなかった。少なくとも、ここにいる人間にとってはそうであることが、テオにとっては十分すぎる事実であった。


 たとえ自分の手に、同じように憧れた形ある思い出がなくとも、エイダンの抱く人形がそうあることが、テオにとっては許しの象徴に思えてならないのだ。その許しが自分のものでなくとも、テオにはそれが嬉しくて仕方なかった。




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