94話 人形メイガン2
【94】人形メイガン2
しかし、身を固め、大薙刀の柄を握り締めたテオは、はたと気が付いた。
エイダンの示した倒木の辺りにも、ましてや、それ以外を含めた自分達の周辺にすら、敵意も気配も感じない。これはどういう事かとエイダンの長身を見上げたテオへと、エイダンは一度肩を竦めて見せた。
「何もいないと言っただろう」
「……む。じゃあ、なに」
「さっきの話の続きだよ。そこに何もいないと、どうしたら分かるのかな。僕たちみたいな人間は、生物の気配を探ったり、暗がりに目を凝らせるけれどもね。そういったことが出来るのは、経験や技術がある者だけだよ。あの道沿いに住んでいる人々に、そこまでの察知スキルはない。それは分かるかい」
「……うん。分かる」
「だから、僕達みたいに、そこに何も無いことが分かる人間が、彼らの代わりに見回りをするんだ。見て、聞けば、それが分かる人間がね」
そう言ったエイダンは、強ばったままだったテオの肩を軽く叩いて見せた。筋肉質の大きな手のひらが、テオのオーバーサイズの上着がはらむ空気を潰すように上下する。なだめるようなその仕草に、テオも固めていた身を解いた。
「言ってしまえば案山子のようなものだよ。そこにいて、そこに居るべき以外の何者かを追い払う。何も来なくたってね」
「でも、そんな、何もいないって分かってるなら、人が回らなくてもいいんじゃないのか。何もいないって伝えればそれで終わりにして。見回りを頼むのだってタダじゃないだろ」
テオはそう言って、自らの肩を叩くエイダンの腕から逃れるように一歩下がった。エイダンはそれを追いかけることはせず、抱えたままの人形の存在を確認するように腕を揺すり、口を開く。
「そうだね。だから、彼らは初め、兵士にそれを頼んだ」
「じゃあ、なんで兵士がいない」
「何もいないことを確かめて、何もいないから立ち去った」
「なら、なおさら、なんで冒険者が続けてるんだ。何も無いって分かってるんだろう。ならこれって、報酬をぼったくるみたいな、なんていうか、詐欺じゃないのか」
テオはそう言って、口をへの字に曲げた。微かに寄せられた眉の下で灰色の目が胡乱げに細められている。それに向き合ったエイダンは、自分を半ば睨むように見つめるテオへと、改めて向き直った。
「怖いだけの心に、大丈夫だと伝えて寄り添うことに価値を見出す人もいる。夜を怖がる子どもの腹に手を当てて、眠りにつくまでそばにいるようなものだよ。兵士にはそれが難しいんだろう。こんな状況だからね」
そう言って、エイダンは南の空を見上げた。月が昇るわけでもなく、日が沈むわけでもないそこに何があるのか。釣られるようにして同じ方向を振り返ったテオにはすぐに分かってしまった。外敵と内を分け隔てる盾のように、人々の拠り所になっている場所、城壁がある。
「……兵士は、壁に行くから?」
哀愁を振り払うのように頭を振って、テオは口を開いた。
思い返してみれば、テオの故郷だって、ずっとずっと遠くとも、あの壁の向こうにあった。生みの親二人とたった一人の姉。彼らと過ごした土地があの壁よりも後ろだったら、今頃は違う人生だったのかもしれない。
それでも、それを今更ながら望むかと言われれば、テオにはもう分からないのだ。全てを投げ打っていいと思うには、テオにとって、その後に出会った二人の存在はあまりに大きすぎた。
ほんの少し、違和感を伴って生まれた沈黙は、お互いに無視をすることにした。先程のテオの言葉を受けて、微かに息を吐き出したエイダンが言う。
「そうだね。そして、壁の内であろうとも、急を要するところは他にもある。優先順位の問題だ。でも、冒険者にはそれがない。全くとは言わないが。それでも、それを気にするのは冒険者の仕事ではないんだ。ただ、報酬があり、防衛に出向けない人手があり、そしてそれらが噛み合った。今回は僕も君も防衛戦の志願者だから、ひとえにホゾキの采配と言えるけどもね。それだってやっぱり、その後先を考えるのは僕ら冒険者ではないんだ。言われたことを、もらえるものがあるという理由だけで遂行できるのも、必要なことなんだよ」
そう言ってエイダンは一度、目を伏せた。自然な流れでその旋毛を見下ろされた人形が、取れかけた木製の目玉をぶらぶらと揺らす。
なんとなしにそれを眺めたテオは、大事に抱えられながらも無惨な姿になりつつある人形を見ていられず、顔を逸らした。痛々しいとは、また違う感情だった。
「まだ不服かい」
「不服、というか」
「意味が無いことだと思うのかな?」
「……だって、何も出ないんだろう。こんなこと、やるだけ無駄じゃないのか。なんにもならないことするより、やっぱり大変なところに行ったほうが……」
人形の痛ましさから目を逸らした事実を隠すように、テオはエイダンを盗み見る。その視線を受けて、エイダンは大きな手のひらで包むように人形を隠し、口を開いた。
「じゃあ、やめるかい」
「……やめて、いいの」
オウム返しのようなテオの言葉にエイダンはいずまいを正して口を開く。済んだ青の瞳は、微かに険しく細められていた。
「君がこれをやめると、次の人員が決まるまで、どれだけの時間がかかるかは詳細には分からないけれど、きっとそれは一晩か二晩よりは多くかかると思うよ。その間、あの林沿いに住んでる人は、夜になると怖くて怯えることになるね。僕たちがここに入る前、窓を開けていたご婦人を覚えているかい」
「うん」
エイダンの言葉にテオは素直に頷く。エイダンが今も手にする小型ランプを点灯させた頃、確かに近くの民家から、自分たちを覗く婦人の目があったことを覚えていた。
テオが質問に肯定したことを確認したエイダンは、自分たちが通ってきた獣道へと目を向ける。来た時と変わらずにその道を辿って林を抜ければ、件の婦人のいた民家はすぐに見えるはずだ。
「あの人は、僕が林に入るのを待ってから眠りにつくらしい。そしてこの辺りに住む誰よりも早く起きて、僕が林から出てくるのを確認してから、やっと家の外に出て庭木の水遣りをする」
「……うん」
「夜になっても誰も林を見に行かない。だから、朝になっても外が安全か分からない。そうしたら、あのご婦人は、一体どうするのかな」
「……眠れないし、外に出れない、んじゃないかな。眠れない夜は長くなるから、きっと怖かったり、寂しくなったりする。明るくなって家族が外に出るなら、帰りを待つ間は、多分、不安で仕方なくなる。送り出した家族が、ちゃんと、無事に帰って来られるのかって」
「うん。そうだね」
テオの言葉を聞いたエイダンは、険しさを称えていた目元を緩ませた。表情を弛めたエイダンと比べ、テオはすっかり萎びたように俯いている。垂直に立てられた大薙刀に、まるで抱きつくようにぐるぐると両腕を巻き付けていた。
「それって、多分、きっと、つらいね」
「うん。そうかもしれないね」
それでも口を開いたテオの言葉に、エイダンはゆっくりと頷いた。テオの思った“きっと”が現実にならなくとも、それが実現するかもしれない、させてしまうかもしれない。そういうことに悲しんでいるテオの様子に、エイダンはどうしても、安堵してしまったのだ。
人を見捨ててしまえる。
人を裏切ってしまえる。
エイダンは、ある日、そういう自分があることを知ってしまった。
こんなものは要らないと。惨たらしく死ななくてもいい、ただ、今すぐ目の前から消え失せてくれないかと。
そう友を相手に吐き捨てたくなった自分自身の存在を覚えている。
だからこそ、内と外の線引きの曖昧にしたテオの不安に、憧れのような、懐かしさのような、過去とも未来ともつかない何かを感じたのだろう。
そんなエイダンの思いを知ることもなく、テオは俯けていた顔を弾かれるように上げた。その灰色の瞳は、強い光を湛えなくとも、確かにしっかりとエイダンを見つめ返している。
「分かった。これ、俺がちゃんとする。だから、どうしたらいいのか、教えてください。どうしたらあの人、ゆっくり眠れるようになる?」
そう言ったテオの灰色の目は、真っ直ぐにエイダンを見上げていた。




