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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
92/144

92話 懐古10

 

【92】懐古10




 テオはホゾキの言葉の促すままに、聖職者の男を見下ろす。

 足元が、ぐらぐらと揺れるような錯覚があった。それを無いものとしてはいけないと、テオの中に警鐘が鳴る。そして同時に、本能的であり理性的なその感覚に従わなければならないというあまりにもぼんやりとした感覚も、確かにテオの中には存在した。


 目の前の、おおよそ一般において正とされる教えを唱える聖職者を、もしも害していいのなら。

 それが、実態を抜きにして、もし権利と呼べるものであったなら。


 線引きが出来る自信がテオには無かった。

 もし仮にそれが出来たとして。その切っ先で引いた溝のような線は、果たして本当に“正しい”のか。他者からの判決も、自分自身の判断も、それを正しいとするとはどうしても思えなかった。


 お前たちが家族を殺したくせに。お前たちが師を辱めたくせに。お前たちが、死者の一端にいっぱしの眠りすら許さなかったくせに。


 そんな、撒き散らすことを抑えていた恨みの感情だって、テオの中には確かに存在するのだ。それを表に出して吠えたところでどうにもならないと飲み込んでいただけで、表出しない感情の存在自体が無かったことにはならない。

 どうしたって、きっと、ほの暗いようなその感情は、何かを踏みにじることを良しとしてしまうのではないか。

 それこそを、今ならば嫌悪できるという理性が、踏みとどまる最後の重りであるような気がしてならない。結局、それは、自制と言うには身綺麗すぎる、自尊心とはまた違う、自己保身に近い感情なのだろう。


 こんなものだったのだろうか、自分は。

 テオはがりがりと首の後ろを掻きむしり、考える。


 自分が思う理想は、もっと胸を張って何事かに挑んでいたのに。

 それに少しでも近づいているような気がしていたのは、本当にただその気になっていただけの、中身の伴わないものだったのか。


 浅い呼吸を繰り返し、テオは再度、俯いて黙りこくる。それでも、その沈黙の逃げを許す気はないと言いたげに、ホゾキはテオへと一歩近づいた。ひょろりと長い背中を丸め、テオがそむけた顔を覗き込むようにしたホゾキが口を開く。


「彼と彼らで違うと思ったのは何かな。何をもってして、き、君はそれらを区別したのかな。正しさかい。優劣かい。それとも君の中にある、き、君にしか分からないものだったりするのかい。もしそうならば、そ、そんなの僕らの知ったこっちゃないわけだけども」


 ホゾキの言葉の端々が、まるで先程テオが吐いたばかりの言葉であるようだった。人に向けたとげがくるりと回って自らに向いたことをテオは理解する。それでも、何かを言おうと開いたテオの口が、言葉を吐き出すことはなかった。


「どうしたんだい、な、なんで答えてくれないのかな。どうして行動で示さないのかな。ああ、もしかして。そうして黙って下を向いていれば、か、勝手に良いように事が転がるとでも思っていたりするのかい?」


 そう吐き捨てたホゾキの長い腕が、なぐさめるようにテオの肩をさする。一つ、二つと、その腕がテオの上着の上を上下したところで、違和感は訪れた。


 初めは指の先が痺れるような冷えだった。その凍えが指から腕へ、胴体から足へと伝わっていく。それでいて、のぼせたように白む視界を認識したときには、テオは脱力した自分の体を支えきれず、その場に座り込んでしまっていた。

 そうにまでなって初めて、テオは自分の体に異常が発生していることに気が付いた。


「な、え」


 上体を起こしていることすら億劫な体が、立ち上がろうとする意思とは反して床の上に足を投げ出す。ひゅうひゅうと酸素を取り込むことすら拒み始めた喉を必死に動かして、テオは自らを見下ろす針金のように細長い男を見上げた。


「うん。上手に“お座り”できたねえ。いい子。いい子。怪我だって顔だけじゃあないんだから、お、大人しくしていようね」


 力が入らず、ふるふると震えるばかりで持ち上がらない腕。地面をとらえることすら困難なほど、かくりかくりと滑る足。床に座り込み、顔色を青くして戸惑うテオへと、ホゾキは犬を褒めるように声をかけた。

 殴られた頬以外にも、先日までに散々負うばかりで治されなかった傷口が痛み始める。鬱陶しいだけのダメージが主張し始めた疲労が、思い出したように手足を重くした。


 吸引体質。

 それがホゾキが持つ、分かりやすく公開された威圧のためのカードだ。


 吸引体質における魔力の奪取は人間にも作用する。常に体の中にあって当然の魔力が、他者によって強制的に失われるということは、どのような現象を起こすのか。

 魔術師による魔術も、癒術師による癒術も、魔力と術式によって具現化された一足飛びの奇跡である。それらは当然、原動力たる魔力がなければ実現しないものだ。それを根こそぎ奪い取れるという体質は、それだけで魔力を頼りに活動する人間の天敵たり得る。


 そして同時に、魔力とは放出される超常現象のためだけにあるものではない。魔力を礎にした奇跡とは、時として強固な肉体をも作り上げる。外へ放出された魔力が火をおこし、傷を癒すのなら、内に込められた魔力は骨を固くし、鋼のような筋肉を構築するのだ。それゆえに、テオのような魔術適正のない人間にこそ、魔力の吸引という手段は十分に牙を剥く。

 外部に向けて放射することがあまりない魔力は、その肉体にとっての酸素とそう変わらない。少なすぎることはもちろん、多すぎることすら害になるものだ。体内に内蔵できるキャパシティは一定であり、それを増減させるには時間がかかる。魔術のように急激に上下しないエネルギーであるからこそ、変化というそれ自体が及ぼす影響は大きかった。


 ホゾキにとって、魔術適正がなく強固な肉体を持つ人間は、撫でるだけで腰をぬかす犬とそう変わらない。それと同様に、魔術適正があろうとも、魔力を失いその技術を使えなくなった魔術師や癒術師もホゾキの敵はなりえない。貧弱な肉体を持つ傾向にあるそれらでは、それなりの体術を修めたホゾキには叶わないからだ。少なくともホゾキは、テオを弱いと断ずることのできるニールに対してまで、教える側の立場を取れる程度には高い能力を誇っている。


 ホゾキにとって、自分の相手となる者が強いか強くないかは、あまり関係のあることではなかった。彼にとって重要なのは問題なのは、それらがどこで諦めるかである。


 すっかりと体を支える魔力を吸われ、酷い貧血に近い状態に陥ったテオは、そういう意味では根性なしの部類であった。

 力の入らない手足と、酸欠からくるめまいにより、すっかり戦意喪失したらしいテオは、現状を理解できているのかいないのか、喚くつもりも、ましてや抵抗する気もないらしく、大人しくされるがままで床の上に座り込んでいる。これがニールであったなら、驚異的な気力と根性、有り余る反骨精神だけでホゾキに殴りかかっていたことだろう。


 ひっくり返りそうな胃をなだめるように自分の腹をさすったホゾキは、案外あっさりと目を回して座り込んだテオの背中を軽く叩いた。テオがされるがままになっているのは、一種、この場の終わりを期待したからだ。くらくらと揺れる視界を持ち上げたテオは、ホゾキの黒い目玉を見上げた。


「さあ、あ、明日からは、ばってん印のお仕事だ。そこの彼が教えてくれるから、よ、ようく聞いておくんだよ」


 その言葉に応えるように、一連の流れを黙って眺めていた大男がホゾキの隣に並び立つ。ぼんやりとした頭でそれを見上げたテオは、大男の腕に抱えられた人形が目についた。


 黙ったままテオを見下ろす大男は、混沌とした酒場には場違いな子ども向けの人形を、酷く大事そうに抱えていた。

 毛糸で編まれた人形の髪は砂を絡めてくすみが目立つ。目玉代わりに付けられた取れかけのボタンが落ちないようにと、男の指先で支えられ、布の皮膚をゆっくりと撫でるようにずれていくようだ。


 その様子をなんとか見上げていたテオだったが、すぐに限界が来たようで、頭の自重すら支えられず、下を向いた。内燃した魔力が直接的に体を形作るだけ、魔力の欠乏は直接的に体調の悪化を招く。熱中症に近いめまいに耐えられず、吐き気を覚え始めたテオはひくひくと引き攣る喉元を押さえた。


「う、え」

「ああ、ご、ごめん、ごめん。もらい過ぎた」


 本格的に目を回し始めたテオが口元に手を当てて嘔吐くのを見て、ホゾキは肩に置いていた手を離した。それを見て苦笑いをうかべた大男が、降参のポーズのように両手を上げたホゾキに変わり、テオの背中をゆるゆるとさする。

 それを確認したホゾキは、事の成り行きを黙って見守っていた聖職者の男のほうへと歩いて行ってしまった。


 少しずつ楽になる呼吸を落ち着けるように、うなりながら頭をもたげたテオを心配するように金属鎧の大男がテオの顔色を窺い見る。その太い腕にしっかりと抱きかかえられた人形が、その持ち主と同じようにテオを見つめているようだった。


「大丈夫かい?」

「……だ、じょうぶ」

「少しなら待つよ。落ち着いて、息を吸って」


 大男のその言葉にテオは一つ頷いて深呼吸をした。ホゾキがパーティの人間たちを壁際に追い込んで話をしている様子を横目に、大男が口を開く。


「初めましてだね。随分と、やんちゃをしたようだけど、気は済んだかい」

「……わ、からない」

「そうかい」


 小さく首を振ったテオへと大男はひとつ頷いただけだった。気まずそうに目をそらすテオの肩を二度ほど叩いた大男は、気にした様子もなく口を開く。


「ところで、君の名前はなんと言うのかな」

「……テオ、ドール。テオで、いい。あんたは……」

「エイダン。僕の名前はエイダンだ。今はソロで冒険者をしているよ。元は、聖騎士だった」


 いやに澄んだ青い瞳を細めたエイダンは、その言葉を聞いてぎくりと身を固めたテオを見下ろしていた。




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