91話 懐古9
【91】懐古9
失敗した。
テオがそれにようやく気付いたのは、聖職者のひ弱な拳が自らの肩口を叩いた頃だった。
聖職者の、武器を握らない柔らかい拳が、ぱすりという軽い音を立てる。やがて、テオの上着の表面を撫でるように、その拳はずるずると持ち主の膝元へと戻っていった。
痛みはなかった。
なかったが、確かに殴った。
テオは、聖職者を名乗る目の前の男が、その時になって初めて、暴力と言えるようなものに手を出したことを認識した。その感情は驚きに近かったのかもしれない。
「なにがしたいんだ、どうなったら、満足するんだ」
灰色の目を微かに見開いて黙り込んだテオに向けて、聖職者の男が呻くように呟く。しかしそれが独り言でないことなど、誰の目から見ても明らかであった。
テオは黙ったまま、一歩引き下がった。床面に靴底を擦るような仕草で後退したテオに、俯いていた聖職者はふと顔を上げる。
聖職者の男が放ったのは非力な拳、ただひとつ。それで何かが変わることも、ましてや現状が改善することも、聖職者は特に求めていなかった。
だからこそ、テオがそこで引いた事が不思議でならなかったのだろう。床に座り込んだまま見上げたテオの目が、うろうろと動揺するように揺れる様子に気がついた聖職者は怪訝に顔を顰める。それを見たテオは、その視線から逃げるように微かに俯いた。
「ど、うって」
テオは俯けた顔をそのままに、そう言い淀んだ。微かに眉尻を歪めたテオは、床板の上につく爪先を睨める様に俯いて思考する。
満足するだなんて、そんなこと。
ただ、答えて欲しいだけだった。だから、いつか彼らの口から吐き出されるはず答えとやらを待っていた。基準も尺度も分からなかった判別の方法を、持ち込まれた教えとやらの結論を、彼らが示すはずのその解答とやらを、ただ待っていたつもりだったのだ。
喧嘩の仕方とやらは、既に彼らが提示した。重戦士の男が自分を殴ったように、それこそがこの場における対峙法ではなかったのか。そう定義したのはそちらではなかったのか。だからこれも間違った手法ではないのだと思っていたのに。
だって、そうだろう。
重戦士も、殴ったから、殴り返した。
斥候も、殴ったから、殴り返した。
魔術師も、殴ったから、殴り返した。
そこから進もうとしなかったのは、どっちだ。
ぐぐ、と喉を潰すように黙りこくったまま、そこまでを考えたテオは、はたと何かに気がついたように息を飲んだ。
その気付きに、誰よりも目敏く、一人の男が反応する。黒く絡まった髪の下、同じ色の瞳を剣呑にひん曲げた男が口を開いた。
「何をちんたらしているんだい。さっさとそれも、な、殴ってしまったらどうかな」
その言葉に、テオは弾かれるように顔を上げた。その視線の先にいる男、ホゾキは、先程の言葉を吐いた口をそのままに、にたりとその口角を上げる。
「おや、おや、いったい何が違うんだい。それと、そっちと、君の中ではいったいどこが違ったんだい」
そう言って、ホゾキは長い腕を態とらしく大きく振り、聖職者の男と、その隣に寝転がる斥候の男とを指さした。芝居ぶったその仕草に、ホゾキの隣に並び立っている金属鎧の大男は、その顔に呆れを隠さないまま腕の中の人形を抱え直す。
ホゾキの言わんとすることを、テオはすぐに理解した。理解出来てしまったのは、その考えこそが自らの中に浮かんでいたからだ。
重戦士の男を。斥候の男を。魔術師の男を。
テオは確かに自らの手で害した。聖職者の男にまで手を出さなかったのは、彼がテオを害することがなかったからだ。それは同じ暴力というものに対する反撃であり、彼らの求めた定義に合わせた釈明であったとテオは考える。
ならば。ならばだ。
今しがた、どれだけ力ないものであったとしても、テオの肩を叩いた聖職者の腕に、その持ち主に、同じものを返さないのは、何故だ。
どうして。
テオはそれを、聖職者の男に出来ないのか。
聖職者とそれ以外で、一体何が違うのか。
どれだけ力が弱くとも、それは魔術師の男だって同じだ。本来後衛を担う魔術師の腕力など、前衛を勤めるテオに比べれば、たかが知れていたのだから。
それが一回きりのものであっても、それは重戦士の男だって同じだ。彼が太い腕でテオを殴り飛ばせたのは最初の一回きりで、その後は到底人を殴れる腕ではなくされたのだから。
そして、これ関して言うならば、テオの中で最も警戒度の高い人間に対する反撃は比例して激しいということも垣間見えた。このパーティの中で、テオを押さえつけ、拘束出来るのは、恐らく重戦士の男だけだった。そして同じように、テオが警戒し、真っ先に戦闘不能に陥らせたその男を復帰させられるのも聖職者だけである。
何が違うというのだろう。彼らと、聖職者とで。
その区別をすることは、自分勝手な尺度を押し付けたとテオが断じてしまった彼らと同じになるということではないか。何が違うのかと、異なる点を自覚しなければ、その差異を自らの言葉と行動で証明できなければ、それは、それは。
しかし、それなのに、それならば、と。
目の前でへたり込む聖職者を、今もなお、害せないのは、なぜだ。
聖教が嫌いだった。自分たちが正しいと信じて疑わず、自分の大事なものばかりを踏みにじる聖教が嫌いだった。であるにもかかわらず、テオは自らを正しいと断ずることもできずにいた。
だって、聖骸は成果を上げていて。
だから、聖骸は人々を守れていて。
ゆえに、聖骸は必要とされていて。
それがテオが生きてきて感じた現実だったから。だからこそ、そんな彼らが作られるのは、仕方がないのだろうと。そう、諦める他なかったのだ。
自分に、人間に、出来ないことを代わりに成し遂げてくれる何者かの、その果てしない力に、憧れを抱いたからこそ。
テオは、テオこそが、そう、思ってしまっていて。
だからこそ、テオは聖教のことを嫌悪してなお、その正しさを疑うことはなかった。彼らが正しいと述べるなら、それが自分にとってどれだけ忌々しかろうと、それは正しいものなのだと、そう信じていた。信じるしか、この心のやりようがなかったのだと、そう思う。
けれど。聖職者が、人を殴った。
その事実は、テオのそれまでの認識を揺るがすには十分だった。
正しい人が、正しいままで、人を妨げられるのなら。
人を殺してはいけないという。ものを盗んではいけないという。そんな有り体に言えば美しいような教訓は、一体どれだけの意味があるのだろうか。
あなたは人を殺してはならないが、私は人を殺しても構いません。
あなたはものを盗んではならないが、私はものを盗んでも構いません。
そんな道理はない。そんな道理が正当化されるなら、それを尊重する意味が無い。リターンのないリスクは取るに足らず、見返りのない抑圧など到底持続せず定着とは程遠い。そしてなにより、定着しない道理は外なる理であるからこそ、人はそれを外道と呼ぶのだろう。
倫理とは何を持って立ち上がるのか。自らの中にあった尺度が、どれだけ不確かな感情に基づいていたのかを、テオは今ここで自覚した。
「正当防衛だなんだというのは、ど、どちらが主張するものであっても否定しないとも。それの意味するところが、い、一発殴られたからと言って十発殴り返していいってものかどうかは置いておいてだ。まあ、テオ君のほうならば、その辺のさじ加減なんかも、た、多少は融通してもいいとすら僕は思っている。でも、じゃあ、だからね、ほら、どうぞ。君は今、それを害する権利を手にした。違うかい?」
喉の奥をくつくつと鳴らす様な薄ら笑いを張り付けたホゾキが言う。肩を揺らしたホゾキの隣に立つ金属鎧の大男は、酷く渋い顔をして溜息を吐いた。それでも大男はホゾキの言動を咎める気はないらしく、腕の中の人形の耳をふさぐように抱え直す。
「ほら、どうしたんだい。いったい何を悩んでいるんだい」
そう言ってホゾキは長い指を口元にあてて、なおもふすふすと笑った。ぼさぼさの黒髪が目元までも覆ってしまっているせいで、その表情はほとんどが窺えない。
しかし、それでも。
そこにあるのが嘲りや軽蔑の類であっても、きっとそこに嫌悪を含まないであろうことは、テオにも理解が出来た。
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