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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
84/144

84話 懐古2

 

【84】懐古2




 その違和感にはすぐに気がついた。

 負傷して血の滴る自分の左腕を、これ以上の出血が無いよう圧迫しながら聖職者に近づいたテオは、鬱陶しく付きまとう痛みに顔を顰めた。背中を流れる冷や汗は、きっと怪我の痛みのせいだけでは無かった。


「怪我したので、治してください」

「祈らないのに?」


 聖職者の男の言葉に、テオは思わず首を傾げた。以前治療を施してくれた時の和らいだ聖職者の表情など見る影もない。ただ、土でも睨むかのような温度のない瞳がテオを見詰めていた。


「いの、れないと、治してくれない?」

「そりゃあ」

「う、……なら、いい」


 つい先日、痛ましげな顔で傷を癒してくれた人間はもう居ないようだった。平気な振りをして向き合うことを避け、テオはまるで恐ろしく思えてしまったその相手から逃げ出した。えぐれた傷の痛みが治まることはなかった。


 その次の日は、パーティでの活動は休みということになった。

 未だに動かせば痛む腕を自前で手当したテオが一人、ギルド内の酒場で夕食をとっていた時のことだ。


 偶然居合わせたらしい同じパーティの魔術師が、聖職者の男を連れてテオに近づいてきたものだから、テオはただそれを黙って受け入れた。


「ものを知らないなら学び方というものがあるだろう」


 魔術師のその言葉を聞いたテオは、はじめ、何の話かと思った。

 咀嚼していた煮豆を飲み込んだテオは首を傾げる。その時、魔術師の隣に立っていた聖職者の男が顔を顰めたものだから、きっと自分の聖教嫌いが原因なのだろうと、テオはすぐに思い至った。


 そう思考が結びついた時には既にそれが早とちりかどうかすらテオには関心はなく、ただ早くこの場を立ち去りたいという願望が勝っていた。逃げ癖がついていたのだと、後のテオは自らを叱責するだろう。


「……ものを知らないように見えますか」


 魔術師の男からしても。聖職者の男からしても。高等な教育を受けたその二人と比べて、テオは確かに学業というものを知らない。


 テオが知っている言葉も、知識も、算術や倫理観も、なにもかも。孤児院となった教会を除けば、それらは師匠ミダスと兄弟子ニールによりもたらされたものだから。“自分は教師でも医者でも建築家でも、ましてや政治家でもないのだから、先生と呼ぶのはやめなさい”と言った師匠ミダスが、このパーティの魔術師と聖職者の学んだ相手に学業で勝ると胸を張っていいのかも分からない。


 だから、魔術師の男の“ものを知らない”という言いようの、一体何が間違っていたのか、テオには皆目見当もつかなかったが、それでも。

 その言葉が、テオの癪に触ったのは事実だった。その隠しきれない不機嫌が、棘となって言葉に付着した。

 そしてそれをつぶさに受け取ってしまった魔術師も、勿論いい気分などではなかったのだろう。


「ものを知っている人間が、祈りのひとつできないはずもない」

「祈りが品性のバロメーターになるのなら、俺は愚鈍な人間でいいです」


 丁度平らげたところだった皿の横に代金を置き、テオは逃げるようにその場を立ち去った。釣り銭のやりとりをするのも面倒で、少しなりとも多めに置いてきてしまったが、それで困るような金遣いはしていない。これも逃走費用だと割り切る他なかった。


 いまだつきつきと痛む腕の傷は、やはりしばらく治りそうもない。加えて、耳鳴りのような頭痛がするようだった。


 そういう、ほんの少しで収まりきらない違和感が、数日続いた。治りきらない腕の傷と、増えた擦り傷の痛みがただ、鬱陶しくて仕方がなかった。


 また、ある日は、どうにも体の調子が悪かった。

 城壁の外の最前線で、くたくたになるまで大薙刀を担いで走り回ったテオが、一旦撤退の掛け声を聞いてパーティの仲間の元へと戻った時のことだ。

 違和感と面倒が、実害に形を変えて自分へと腕を伸ばしていることに、テオはその頃になってようやく気が付き始めた。


 聖職者の男には、既にテオの負傷は無いものとなっているようだった。壁際まで撤退したパーティの中で、黙々と負傷した脇腹に持参した止血帯を巻き付けながら、テオはただ次の出撃が遅れることを願っていた。

 もう一度あの重い獲物を担いで戦場を走るには、体力の回復が間に合いそうにない。それに加え、連日消えない精神的な重みが、実体を持って足に絡みついているようで鬱陶しかった。


 ふらつく足取りを叱責し、テオは聖職者の男の元に近付く。先のリーダーの話では出発の号令は間近らしい。疲労からの回復が間に合わず、十全のパフォーマンスは難しくとも、最低限の働きはしなくてはならない。

 パーティメンバーへの身体強化の施術は聖職者の役目だ。それはテオが自らで行うよりもずっと質のいい身体強化の魔術だったが、始めに施されてから時間も立ち、その効力は切れかけていた。


「あの……身体強化、切れそうなんですけど、追加……」

「まだ切れないだろう」


 テオの言葉を、聖職者の男は言葉少なに遮った。ぎくぎくと痙攣を始めた目元を抑えるように、手のひらで自らの視線を隠したテオが背中を丸めて更に口を開こうとすると、分かりやすく聖職者の男は顔を顰める。


「でも、次に出ると途中で切れるから、掛け直す暇が無くなる……」

「だが、まだ戦えるだろう。君は愚鈍でいいと言った。ならば、君より優れた人の言うことは聞けるね?」

「……なら、いいです」


 結局、テオはそう言って身を引いた。

 自らで補った身体強化の術式はどうしても聖職者のそれに劣る。ぐらぐらと踏ん張りの利かない体は、余計に負傷と疲労が増えるばかりだ。

 戦闘を終えて城壁を立ち去る頃には、テオは疲れきり、前を向くことさえ諦めていた。

 俯いて歩くテオの目に、自らのブーツの爪先が目に入る。幾重もの魔物の血を踏み越えたそれは、清潔に掃除された床板を踏むことさえ躊躇うほどに汚れてしまっていた。


「ど、して」


 両手を合わせて、指を絡めて。

 彼らの見慣れた形を取って目を瞑れないだけ。それだけが、こんなにも厚い壁になるのかと、そう息を詰めたテオは頭を振る。


 それだけなものか。至らないのだろう、自らは。そうでなくては、彼らの態度も、自らの不遜な感情も、まるで無駄で非効率なだけの代物ではないか。世の中が、自らが、それだけで捨ておきたくなるほどに無情なものか。そう願いたいばかりの意地が、テオに弱音を飲み込ませた。


「どうして、うまく、やれないんだ」


 その代わりに吐き出されたテオの呟きは、他の誰の耳に届くでもなく腹の底へと落ちていく。その宛先は、間違ってはいなかったのだろう。少なくとも、その頃のテオにとってはそうだった。

 体も、足も。腹の、ずっと奥底も。ただ、重苦しくて仕方がなかった。


 それはまた、さらにその次の日の事だった。

 報酬の分割を終え、自らの手取りを確認したテオは密かに眉をしかめる。明らかに不足したそれは、テオの手の中で酷く軽い音を立てていた。


 酒場で酒を酌み交わしている他の仲間達の側へとテオは近寄る。わいわいと声を上げていた仲間達の喧騒は、そこから爪弾きにされていたテオにはやけに喧しく感じられた。


「なんだ」

「報酬のことで、お話が」

 

 近付くテオに気が付いたのは斥候の男だった。男所帯のパーティの中でも特に背が高く、座っているだけでも威圧感がある風体に、テオは思わずたじろいだ。

 テオの言葉を遮るように鼻で笑った斥候の男の隣で、酒を煽っていた重戦士が口を開く。最近新調したばかりの重い鎧と盾を床に転がしたその重戦士は、このパーティのリーダーだ。


「野蛮人と食う飯はない」

「食卓の話ではなく、取り分の話をしています」

「渡しただろう」

「少なすぎませんか」

「金勘定を語るなら祈りのひとつ身につけてからにしろ。全く、何を根拠に不服を述べる」

「……もう、いいです」


 そう言って踵を返したテオの背中を追いかけるように言葉がかけられる。下卑た笑い声が、その声に纏わり付く様だった。


「なるほど。離反者などに育てられればそうもなるか」

「なんの、話ですか」

「神の教えを離れた聖骸の話だ。お前の師なのだろう。聖骸ミダス。浅ましい一本足の」


 その言葉の続きをテオが聞くことは無かった。反射的に伸びたテオの手が、言葉を吐く重戦士の顎を下から鷲掴んだからだ。


 唐突に暴挙に出たテオは、無表情でゆっくりと横に首を振った。これ以上は喋るなと言う言葉は、煮えくり返った腸の蒸気で言葉にならない。


「なに、しやがる!」


 テオに顎を掴まれた重戦士が、その腕を振り払って怒鳴った。殆ど反射のように振るった重戦士の太い腕が、テオを殴り付けて転がす。近くのテーブルを巻き込んで倒れ込んだテオは、ただ無感情な灰色の目で重戦士を見上げていた。


「はん! 立派な武器がなけりゃ、ただのガキだな! 喧嘩の仕方を教えてやる!」


 酒場の床に倒れ込んだテオを押さえ付けようと、重戦士は更に一歩を踏み出した。横倒しになった椅子を蹴り飛ばし、勢い付いた重戦士の男がテオに伸し掛る。

 しかし次の瞬間、悲鳴を上げるのはテオでは無かった。無防備に伸ばされた重戦士の腕を掴み返したテオは、床に倒れ込んだ体勢のまま、重戦士の男を引き倒す。

 その勢いのまま、重戦士の関節を裏返すように捻ったテオは、床にうつ伏せに倒れ込んだその背中にのしかかった。


「な、てめえ! 離しやがれ!」


 がなる重戦士の肩を、黙ったままのテオは力任せに床に押し付けた。テオが掴んだままの重戦士の腕が、背面に垂直に伸びる。重戦士の背中に乗ったままのテオが膝で重戦士の肩を踏み付け、レバーでも倒すように取った腕を背面に押し付けた。


 こきり、という音は、嫌に軽く聞こえた。肩を外されたのだと重戦士の男が気がついた頃には、テオによって反対の腕も同じ様な始末にされていた。激痛に涙を浮かべる重戦士の男を、テオは無表情のまま見下ろしていた。


「う、があっ、ひ!」

「言葉を、選んでくださいませんか」

「な、なにを」


 声色を落としたテオの言葉が、床にうつ伏せに倒れた重戦士の頭上に降る。テオは自分が外した腕を放り投げると、抵抗できないよう上体に伸し掛かり、重戦士の首を絞めるように背中から腕を回した。


 自然と密着した体勢で、テオはそれでも足りないと言わんばかりに重戦士の顎を握り、自らの口元に重戦士の耳を寄せる。痛みに唸る重戦士のことも、周囲で困惑し怯んだ仲間達のことも、今ばかりはどうでもよかった。


「私の浅学なことと、師のことは関係がございません。どうか、その線引きをしていただきたく」

「は」

「……ええ、確かに、私は貴方々より学びを得ました。不足かとは存じますが、代金ばかりに、どうぞこの暴力をお受け取りくださればと」

「ひ、や、め」

「あなた方の言う祈りと同様、これも必要なことなのです」


 淡々と、声音の上下を抑えたテオは言葉を吐き出す。重戦士の男は確かに“喧嘩の仕方を教える”と言った。テオは今まさにそれを学んだのだろう。暴力だ。この男には、それを振るうことが許される。なぜなら奴こそが、それを喧嘩と定義した。教えられたのならば、それは実践せしめなければならない。喧嘩とは、売るか、買うか、それから始まるとテオは知っている。そして今回、それは確かにテオに向けて売られたものだった。


 故に、テオは。

 自らの知る“喧嘩の買い方”を模倣した。


 テオの人生の中で最も周囲に争い事を振りまき、時としてそれを買い取り、ごうごうと焚き付け、無慈悲に踏み潰していた男、兄弟子ニール。その男の言葉は、テオの中にいくつもの価値観を生み出してきた。


 テオドール、お前は弱いのだから。お前だけは弱いのだから。お前が最も弱いのだから。

 だからこそ、私たちの中でお前が最も“なめられて”はならないと肝に銘じなさい。お前がお前を守るために、お前が我々の師の名を辱めぬために。

 なめられないためにはどうしたらいいかなんて、そんなことは単純明快。相手のやりようをそのまま返してやりなさい。土俵など、揃えた上で崩してやらねば、愚かな者には通じやしないのだから。


 あの日、腰を抜かして座り込んでいたテオに向けてそう言い捨て、ただ笑っていた彼の喧嘩の買い方をそのままに。テオはただ、それを見習った。


「ご理解、頂けますね?」


 それまでのむすりとした顔で口を開いてばかりだった人間とはまるで別人のように、ふわりと笑みを張りつけたテオが言う。

 そう。例えばそれをする人間が強固であればあるほどに、その光景を“綺麗”だとテオは言うのだろう。




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