82話 臆病者の穴の底2
【82】臆病者の穴の底2
「悩み事はそれだけかな?」
「……そっちは、もう俺が自分で頑張るしか、ないんだと思うんだけど」
「うん」
身動ぎをしたテオが言い淀むと、その隣のエイダンは静かに頷いた。口を開いては閉じて言葉を選ぶテオを、エイダンは急かすでもなく静かに待つ。
こういう時、テオはエイダンが年の離れた大人であったことを改めて思い出すと同時に、自らが若輩者であることを実感する。それは憧れに近いのだろう。こういう人になりたいと、言葉にはしなくとも心のどこかでテオは思うのだ。
「分からないんだ。皆の、話すことが難しい」
「そうかい」
「俺、きっと、人の話を聞くの苦手なんだ。分からないんだ。でも、分かって欲しくないって言ってること、追求してまで、聞き出したくないんだ。だって、言いたくないんだろう。したくないこと、無理にまでしてほしくない。そういうこと言う人間に、なりたくない」
それは自己嫌悪を吐き出すようだった。段々と膝に埋まるテオの顔は、まるで自らの恥を隠そうとするかのようだ。しかし、エイダンはそれを止めるでもなく、ただテオの隣で頷いた。
「分からないんだ。どうにもならないんだけど、俺、今更どうしたらいいのか」
「どうしたかった?」
すっかり腕の間に顔を隠し、焦げ茶の髪しか見えなくなったテオへとエイダンが問い掛ける。
地面に立てた踵を擦り付けるように身を低くしたテオは、ひとつ鼻をすすって言葉を続けた。
「……全部、無かったことにしたかった。元通りみたいに、せめて、……形だけでも」
「それは、もうできないことかい?」
「……うん。もう、そうしたらいけないんだと、思う」
「じゃあ、どうしようか」
エイダンは、まるで相手の言葉を飲み込んでいないように、問いかけを繰り返した。あくまでも考えるのはテオであると、二人分の会話をテオの自問自答のように落とし込むようだ。
言葉の足りないテオに対して、反問の無い問答というのは難しいのだろう。それは一体どういうことだ、もっと詳しくは話せないのか。そういった言葉は、より正確な答えや、より有用な情報を得ることに役立つ。けれどそれを求めた深堀りは、今のテオが嫌がることをエイダンはなんとなしに理解していた。
五年近く付き合いがあったからこそ。エイダンはただ感覚的な問題で、テオの引いた境界線を感じ取った。それは俯いたまま上げられない顔であったり、途切れ途切れよりも静かな声音だったりするだろう。
だからこそ。テオが伝えたいことがテオの中にしかなく、それを明確に表現することすら忌避するのならば、その答えはテオの中のどこかに見つけるしかないのだと、エイダンは考える。
冷たく突き放したようなそれは、テオへの信頼があったからだ。エイダンが思うテオという人物は、人の助け方を迷う程に優しく、人の助けを迷いなく受け取れるほどに勇敢な人間だ。なによりも、そう育てられ、それを愛情だと疑わずに胸を張れるテオの人間性こそを、エイダンは尊重していた。
だからエイダンは、それがテオの中で明確にどのような意味を持つのか知らずとも、ただ繰り返しのように投げ返すことを選んだ。
それで十分なのだと、エイダンはテオという人物を知っていた。けれどもそれこそが今の彼には必要なのだと、エイダンはテオの若さを許してもいた。
「もしも、その今更が“これから”の話になるのなら、どういう風にできるかな」
「これから、どういうふうに」
エイダンの言葉をオウム返しするテオが、ふと顔を上げた。その目が隣に座るエイダンを見つめ返すことは無かったが、ぼんやりと持ち上げられた視線は座り込んだテオの頭よりも、少しだけ高い位置に向けられ、やがて止まる。
もしそこに人がいるなら、きっとそれは小さな子どもくらいの背丈だろうと、エイダンはなんとなしに考えた。
「ちゃんと、話がしたい」
「そうかい」
「でも、俺」
「うん」
「多分、怒ってしまう」
そう言って、テオは手のひらで顔を覆った。鼻先を手首に擦り付けるようにして前髪をかきあげ、やがて大きく溜息を吐く。
ほんの数秒唇をかみ締めたテオは、意を決したように震える声を吐き出した。
「それは、嫌なんだ。何も悪くない人に、怒るのが嫌だ」
それを聞いたエイダンは、静かに上を見上げた。腰を据えてしばらく経つが、深い穴の縁から脱出用の縄が下ろされる様子はない。何を手間取っているのかまでは知らないが、上も上で大変らしい。
時間的猶予があることを確認したエイダンは、腕の中の人形を宥めるように揺らしながら、隣で項垂れたままのテオへと口を開いた。
「怒らないようにはできないかい?」
「したいんだ。でも、自信が無い」
「自信か」
「もう、既に、怒鳴ってしまって」
「うん」
「同じことしてしまうんじゃないかって、思ったら、怖くなって」
そこまで言って、テオは口を閉じた。ぐしゃりと前髪を握りこみ、引き攣った頭皮の痛みに目を閉じて甘んじる。他者に向ける攻撃性は人並みにあるくせに、同じくらいに自らに向けられる自罰的な部分は直らないようだと、エイダンはテオの背中を小さく叩いた。
自らで自らを罰する様子というものは、時として見ている側にすら苦痛を与えるものだ。そして大抵の場合、罰する者はその事に気が付かない。
耳に痛い話であり、身につまされる様である。エイダンはただ、ゆっくりと口を開いた。
「怖くて、もう話せないかい?」
「……誤魔化してしまう。でも、ずっとそのままは、嫌なんだ」
「そうか。なら、それを忘れないように、頑張らないとね」
「……ん」
曖昧に頷いて顔をあげたテオが、ぐしぐしと目の下を擦る。エイダンはその様子を確認すると、テオの背中に伸ばしていた腕を、焦げ茶のくせ毛の頭の上に乗せた。
「難しいね、テオ。こういうことは、いつも」
「そうだね。難しくて、やめたくなる」
がしがしとエイダンの大きな手に頭頂部をまさぐられながら、テオは微かに頷いた。撫でると言うには乱雑なエイダンの腕を、今度は払う気は起きなかった。
「やめるかい」
「ううん。やめたいけど、やめたくないから、やる」
「難しいね」
「うん。でも、やめたほうが、きっと、もっと沢山のことが、嫌になってしまうだろうから」
そう言って、テオはぐんと腕を前に伸ばした。ささくれの目立つ指先が夕暮れ時を過ぎた空気に晒されてひんやりと白む。
「そうかい。なら、仕方がないね」
「うん。話、聞いてくれてありがとう。エイダン」
「いいや。君も、僕を許してくれただろう。テオ」
「許すも何も、お互い様だよ」
「ならこれも、きっとそうだね」
「……うん。ありがとう」
エイダンの言葉に、テオはゆったりと目を細めながら頷いた。冷えた指先を擦り合わせながら、縮こまっていた足を伸ばすと、テオは大きく溜息を吐き出す。
だいぶ話していたように思うが、まだ引き上げ用のロープが落ちてくる気配はなかった。その様子にいい加減違和感を覚えたテオが小首を傾げる。エイダンはただ静かに上を見上げていた。
「それにしても、まだ出られないのか。腹が減ってきたんだが」
「そうだねえ。どうにも、おかしな様子だね」
テオの愚痴のような言葉に対し、腕に抱えた人形に着いた砂埃を払っていたエイダンが答える。
唐突に億劫さを孕んだエイダンの声に、テオは思わず片眉をはね上げた。
「うん? おかしな?」
「まあ、君は、大丈夫だよ」
「ん、うん、ん?」
「あと少しだけ待とうか。それで駄目なら、頑張って登ってみよう」
ざっくばらんと吐き出されるエイダンの言葉に、テオは思わず弾かれるようにして穴の出口を見上げた。
レジーを中心にして二人の魔術師のサポートの元に展開された縦穴は、自然由来のものと異なり、のっぺりとした壁面を見せている。さらに対オルトロスを想定していたトラップであるこの穴は、無策での脱出を図るには少しばかり深さが過ぎた。
足をかけられる場所もなければ、身体強化を施したテオでさえひとっ飛びで飛び出せる高さではない。
それを上がると、何ともないようにエイダンが言うので、テオは思わず喉を引き攣らせた。
「え、これを、登る?」
「うん」
「こ、これを? 本気で? これ、これを? のぼ、の、登るって? 今から?」
「まあ、仕方がないよね」
「俺、さっき、死ぬほど、走った」
「うん、まあ。僕は体重あるから縦に移動するのは難しいなあ。まだ打ち付けた胸も痛むし」
「俺、もう、今日は、本当に、疲れてんのに……」
「もう少しだけ頑張ろうか」
無慈悲なエイダンの言葉に、テオは威嚇する猫のごとく、かつかつと喉を鳴らして萎びた顔を作った。わなわなと頭を抱えて情けなく言葉を吐く。
「か、勘弁してくれ。レジー、レジー、ロープ早く持ってきてくれ、レジー……」
「格好いい先輩はもういいのかい」
「格好いい先輩でも人間だから腹は減るし寒いし疲れるんだよ! こんなん素手で登りたくないよ、うええ、レジー、レジー、早く助けてくれえ」
姿の見えない後輩に、聞こえているのかも分からない声で縋る酷く情けのないテオの声が、深い穴の底にこだました。




