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錫の心臓で息をする  作者: 只野 鯨
第二章
79/144

79話 雪辱3

 

【79】雪辱3




 彼我の距離、おおよそ五百メートル。


 オルトロスの姿を目指したテオは、モニカから渡されていた拳大の球体を地面へと叩きつけた。


 地面へと叩きつけられた球は、まるで硝子が割れたような甲高い音を立ててバウンドし、空高く跳ね上がった。

 三秒ほどの時差の後、ぱしりと紙を叩くような音とともに破裂した球が緑色の粉塵を撒き散らす。衝撃を受けて発光したランプ石の如く、空中に打ち上げられたそれは眩い彩光に煌めいた。


 手投げ信号弾とモニカが呼んでいたそれは、錬金術師を名乗る彼女の発明品の一つである。


 聖骸ミダスにより齎された異世界の知識を元に作成されたそれは、テオのように魔術の行使が苦手な人間でも扱えるように作られたものであった。

 魔力を吸い上げすぎたランプ石が破裂する原理を利用し前充填式に作られたその手投げ信号弾は、ただ強く打ち付けるだけで使用出来る。


 テオがオルトロスと接敵したことを知らせる信号弾の合図は、ここから距離がある壁からでも確認することが可能だ。


 空高く打ち上げられた噴煙を確認した他のメンバーは、これを合図にそれぞれの仕事に取り掛かるだろう。


 オルトロスの赤い瞳が、信号を発したテオを捉える。馬の前搔きのように前足で地面を搔いたオルトロスは、不格好に繋がった二つの頭の牙を剥き出しにした。


 今にも走り出さんと低く唸り声を上げるオルトロスへと、挑発的に人差し指を指し向けたテオが口を開く。


「今度は一人だ。捕まえてみるといい」


 その足元で体表から漏れ出た魔力が蜃気楼のように揺らめく。

 身体中を巡る血液が煮えるように熱を持った様な錯覚が巡った。テオの体に施された身体強化の術式が、その体を獣の如く力強い別物へと変化させはじめる。


 はたして、それが開戦の合図となった。


  五百メートル先の二つ頭が咆哮する。砂を浮かせる様な衝撃を錯覚するその吠え声を背に、テオは一目散に駆け出した。


 グオォオオオオオ!


 ごうごうと吠えるオルトロスが、岩を砕く様な足音を立ててその背中を追う。


「……ふ、……は、……ッ……」


 身体強化を施そうとも、テオの体は人間の域を出ない。どれだけ飛ぶように跳ねながら走ろうとも、その歩幅には限界があり、それは決してオルトロスのそれを越えられない。


 駆け出したテオの背後にオルトロスの爪が到達するまで、おおよそ三十秒。

 その時間のうちに合流ポイントへと到達することは先ず以て不可能。よって、テオは餌としての逃亡の最中、オルトロスの巨大な体躯から繰り出される攻撃を迎撃しなければならない。


 全長の短いレジーの細剣は華奢で、オルトロスの太い骨や厚い筋肉を断つことに向かない。

 また、その間合いの問題から、オルトロスの頭部を狙うことも難しいだろう。比較的柔らかく、急所となる眼球や口は柄の長い大薙刀ならばともかく、この細剣では狙えない。


 だがそれは、あくまでも命を奪うための急所についての話だ。


「立てない脚で、お前はいったいどこまで走れる」


 背を向けて逃げるテオを押さえつけようと、振りかざされたオルトロスの前足。それは“走り続ける”テオが居るはずの位置を狙っていた。


 ブーツの底を滑らせて急停止したことで、目測がずれたテオの頭上をオルトロスの足裏が通過する。

 頭上に掲げた細剣の刃が、ごうごうと風切り音を立てて通り過ぎる細長の肉球の表面に添えられ、まるで紙を切るペーパーナイフのようにその皮膚を下の肉ごと切り裂いた。


 オルトロスの足の内側に生えた爪に体を貫かれないよう、地面に手を着いて伏せたテオの上を通り越したオルトロスが着地する。


 しかしテオの上を通り過ぎた片足の裏で、切り裂かれた肉から溢れた血が着地と共に滑り、傷口に石を巻き込んだ。


 長年の戦闘に晒された地面は、大量の魔物の血を浴び、魔術の火に炙られ、数多の人間や魔物の足に踏みつけられて来た。

 柔らかな芝草は既に見る影もなく、剥き出しにされた砂と石が時折剣山のように棘を見せる荒野だ。


 皮膚が切り裂かれた場所からめくれ上がり、肉の剥き出しになった足で着地などすれば、それは傷口をやすりで削ることと変わりない。


 グオォオオオオオ!


 悲痛な叫び声を上げるオルトロスが、痛みに足をもつれさせてバランスを崩す。テオのカウンターにより四足のうちの一足が負傷したものの、オルトロスがその体を土の上に寝かせることは無かった。


 素早く身を起こしたテオが駆け出す。逃げ去る獲物を追い掛けんと、オルトロスが足を踏み出したその時、踏みしめた足の痛みにたたらを踏んで停止した。


 足裏が負傷すれば、大抵の生き物はまっすぐ立っては居られなくなる。まして、四足歩行の動物が万全な速度で走る事など至難の業だ。


 少なくとも負傷というものですら初めて知ったであろうこのオルトロスには、たった一本の刀傷でさえその突進には大きな痛手であった。


 それでも、その程度の傷でどうにかなるならば、オルトロスと呼ばれたこの魔物が五年前の惨劇を生むことは無かっただろう。


 種から発生した魔物は自然発生したそれとは異なり、その発生時から既にその肉体を完成形として生成される。


 自然発生した魔物であった鉱山の巨大蟻は、崩れた教会の寝台から餌を漁り母体を軸に繁殖したが、このオルトロスは違う。


 種から生まれたこのオルトロスは、その二つの頭部で煌めく四つの目玉を開いたその時から、縦に四メートルを超える強靭な肉体が完成していた。

 種から生まれる魔物に限ったその異常な成長速度が、種を囲う魔物の軍団を波たらしめる原因であった。


 そうして生まれたばかりのこのオルトロスは、他の魔物や種と同様に人口密集地を目指して進み、やがて出会った人間という人間を蹂躙するだろう。

 種との距離が狭まり続けている昨今で、ミンディから発見報告をされたのが今日だと言うのなら、この個体は間違いなく近頃生まれたばかりなのだろう。


 産まれたてであるが故に経験に乏しく、しかし不釣り合いなまでに頑強な肉体を誇る、本能のままに地を駆ける産まれたての獣。


 それこそが。

 現在テオが対峙する種より発生した魔物、オルトロスであった。


 もしこのオルトロスが経験を積んだ個体であったなら、その本能を上回る狡猾さで、既にいくつもの死体の山が築かれていたかもしれない。

 今ここで見逃すという手はない。オルトロスという魔物が発生してしまった以上、現状が最も弱体化していると言っていい。時間が経ち、命を喰らえば食らうほど、この魔物は強くなる。


 低く姿勢を保ち、分厚いブーツの底を蹴って走るテオは、ぎしりと歯を食いしばった。


 喚くように吼える口から涎を撒き散らしたオルトロスは、二つの頭に浮かぶ四つの目玉で、地を走るテオを睨み付けた。


 痛みで強く地面を蹴ることが出来ない前片足を庇いながらも、オルトロスは背を向けて逃げるテオへと一足飛びに襲いかかる。


「怒っているか、そうか」


 そう呟くテオが先程と同じ方法で対処をしようものなら、次はテオが押し潰された事だろう。


 停止ではなく急旋回を選んだテオの真横にオルトロスの巨体が着地する。

 厚いブーツの底を砂に滑らせながら懐の小振りのナイフを手にしたテオは、着地によって地面へと近付いたオルトロスの眼孔を目掛けて手にしたナイフを投擲した。


 吸い込まれる様に四つある目玉のうちの一つに着弾したナイフが、巨大な眼球の膜を突き破り、ゼリー状に溢れ出た体液を撒き散らさせる。


「怒りもお互い様だ。痛み分けには釣り合わないが、均衡など端から求めていない。なあ、そうだろう」


 太い首をしならせて吼えるオルトロスに、テオは小さく呟いて再度駆け出した。


 捲らなければ袖の余るほど大きな上着が空気をはらんではためく。汚れてくすんだカーキ色のそれは、夕日を浴びた赤と混じり合い、泥のような様相を見せていた。


 グオォオオオオオ!


 牙を剥いて唸るオルトロスが痛みから立ち直る。血液とも涙ともつかない体液をその顔面へと垂れ流し、天へと向けて咆哮した。


 怒りに我を忘れた様に、ただままに突進を繰り返すオルトロスに向けて、筒の着いた二本の矢が放たれた。

 二度も攻撃から逃れ、あまつさえカウンターを成功させたテオに気を取られていたオルトロスは、その二本の矢を避けられず前脚を突き刺される。

 瞬間、着弾と同時に矢に括り付けられた筒から発生した炎が、オルトロスが纏った分厚い毛皮に引火した。


 着火した炎を払うように身を拗じるオルトロスがバランスを崩して倒れ伏す。

 完全に足を止めたオルトロス、その巨体の真下にそれを越える直径の大穴が空いた。


 炎に焼かれた前足では、倒れ込んだ姿勢からの落下を免れなかったオルトロスが、深さ八メートル程の穴の底へと落下していく。


 既にそこは壁から五十メートルも離れていない地点だった。壁の上に控えていた射手が油断なく大穴へと向けて弓を構え続けている。

 二本の矢を放った二人の弓使いはパーティからこの作戦に参加した者だ。その背後に控えているジルとモニカが身体強化の術式でその射手の能力を底上げしている。


 また、着弾と同時に発火した筒状の何かはモニカによる発明品だった。着弾の衝撃を感知し、火炎放射器よろしく炎を撒き散らすものらしい。


 オルトロスが落下した大穴を作りあげた魔術の行使者の内の一人であるレジーが、壁の上から顔を出して声を張り上げた。


「テオさん! 怪我、怪我ないですか!」

「ない! 大丈夫だ! 武器をくれ!」


 名前を呼ばれたテオは壁の上のレジーを振り返り声を上げる。それと同時に壁の上から飛び降りる大きな影があった。


 それは片腕で人形を抱き、もう片方の腕にテオの大薙刀を抱え、その背中に半ば刃の潰れた自らの大剣を背負ったエイダンだった。

 長身のエイダンが持ってしてもその身長を上回る大薙刀を軽々と抱え、テオへと手渡したエイダンが口を開く。


「君の武器はここだ。さあ、早い所、首を落としてしまおうか」

「ああ。さっさと殺そう」


 手渡された大薙刀の柄に擦り付くように腕を絡ませたテオが答える。


 大地の臍のようにぱかりと開いた穴の底から低く轟くオルトロスの咆哮に、二人の戦士は武器を構えた。




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